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現代の教養のための大学入試小論文 #7 ~後悔~

ごきげんよう。小論ラボの菊池です。

本日のテーマは「後悔」です。誰でも「後悔」をしたことはあると思います。では、「後悔」はなぜ、なんのためにするのでしょうか。

後悔

 私たちが後悔するという場合、「何に対して」後悔するのかが重要なファクターとなる。たとえば、自分が乗った電車がテロにあい大けがをした場合には、テロが起こったことを後悔することはない。しかし、「もし違う電車に乗っていれば」と後悔することはありえる。あることに対して後悔するには、自分自身の意図的行為がそれに関与しているという自覚が必要なのだ。とすれば、私たちは出来事を自分自身の行為に何らかの仕方で関与させることができることに気づき、その限り後悔が可能になる。この意味で「後悔しうる領域」は人それぞれが固有の広がりをもっており、この広がりが各人の固有の過去だと言える。この領域を確定できてはじめて、家族から人類までの歴史といった様々なレベルの共同体の過去(歴史)を、自身の過去がそれに整合的に位置するように形成できる。
 「そうしないこともできたはず」という思いは「自由」の感覚とリンクしているが、私はAを選ぶ自由があったがゆえに後悔するのではない。自分の意図的な行為に対して、Aを選ばないこともできたはずだという、他の行為が可能であったとする信念とともに生じてくるのだ。
 後悔とは、それが客観的にいかなるものであったかを確定するにとどまらず、それをどう解釈するか、これからどういう人生を渡っていくべきかという考察にまで及ぶ。後悔はその意味で過去に対する態度一般にかかってくる。後悔とは過去を解釈することそのことであり、その解釈を通じて未来を形成することでもある。私たちの根源的な精神活動と言えるだろう。

出題校

島根大学法文学部言語文化学科(後期)

出典

中島義道『後悔と自責の哲学』より、一部改変

解説

 私たちはことあるごとに「後悔」をするものですが、たとえば関ヶ原の合戦で、石田三成が勝っていれば、と後悔することはありません。それは自分が関与する余地が全くないからです。一方、昨日宿題をやっておけば先生に怒られなかったのに、という後悔は、自分の関与する余地があるから生じるわけです。過去が未来を形成するというのは、仮に過去に後悔する余地がなければ、私たちは何も行動を起こさず流れに身を任せればいいが、実際はそうではないので、過去に学んで未来を変えていこうとする、ということです。私たちは過去の後悔があるがゆえに未来を変えようとします。その点で、その場その場で過去を振り返るのも、自身の未来を形成することと同義だと言えそうです。

拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨


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