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現代の教養のための大学入試小論文 #13 ~「人種」概念の虚構性~

ごきげんよう。小論ラボの菊池です。

今回は「人種」を扱います。人種というと、「白色人種」とか「黄色人種」とかが思い浮かびますが、その「分類」は妥当なのでしょうか。

キーワード

「人種」概念の虚構性

説明・要約

 「人種」という言葉は、生物学上の「種」概念と混同してはならない。「種」概念は個体間の生殖可能性によって定義される。それ以外の単位は客観的基準で定義される概念ではなく、単に学会の慣習によって定義されただけだ。人類はただ一つの種をなす。生物学者によって人種概念が使用されなくなったのは、人種差別を助長しないための人道的配慮からではなく、この概念がそもそも無意味だからである。
 人種とは客観的な根拠をもつ自然集団ではなく、人工的に区分された統計的範疇にすぎない。髪や血液型など、どの身体的特徴に注目するかによって分類の仕方は異なる。ただ、ある特定の形質を軽視し、他の形質を重要視する理由はまったくない。「白色人種」「黒色人種」「黄色人種」といった三つの範疇による分類が知られているが、他の分類も可能だ。
 この分類が可能になるのは、特定の人種が存在すると仮定し、それに対応する固有の要因を発見することは不可能ではないからだ。発見に至るまでの論理が逆立ちしていることに注意すべきだ。
 分類という行為は、対象の客観的性質のみに依拠しているのではない。分類する人間の主観的決定がなければ、分類は根本的に不可能だ。人間の認知様式から自由な観点に立つと、すべての対象の類似度は同じになる。対象のもつ各性質に同じ価値があるとする限り、分類という行為は成立しない。類似性の概念が意味をもつためには、それらの性質の間に重要度の差を見出す必要がある。逆に言えば、分類は、ある基準よりも他の基準の方が重要だと人間が決定する行為であり、ある主観的な世界観の表明にほかならない。ある分類形式が人間にとって自然に見えるからといって、それが世界の姿を客観的に映しているとは限らないのだ。
 各性質間の優劣を客観的に決めることが不可能である以上、主観を完全に離れて人種を抽出する試みは原理的にむなしいのである。

出典

小坂井敏晶『増補 民族という虚構』筑摩書房

出題校

茨城大学人文社会学部人間文化学科(後期)

解説

 私たちは、普段「人種」という言葉を疑いなく使っています。ニュースの中でも「白人」や「黒人」といった表現が見られますね。ただ、この場合についても言えるように、「肌の色」や「目の色」によって人間を分けるのは、分類しようとする人間の恣意的なものに過ぎないと筆者は言っています。科学的に、言い換えれば客観的に、分類できるから分類するのではなく、ある人間が「このように分けたいから、ある特性に着目する」わけです。ヒトラーがゲルマン民族がすぐれているとしたのも、「そのように分けたい」思惑があるからでした。血液型による分類もこの類です。
 このように、人間を分類する行為は、科学者の主観が入る行為に他なりません。この見方は科学的(=客観的)なのか主観的なのか、提唱者にとって都合のいいように使われるものではないのかということに常に注意を払わなければなりませんね。

拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨

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