「パーパス」の取説 〜ここがヘンだよ、パーパス経営。〜
そもそも、何らかの目的や存在意義(パーパスとか)があって集団・組織が構成されているのだから、その目的や存在意義を理解・共感していなければ、そこに所属しない方が良いのよね。強制されているわけでもないし、自分でどこに所属するかは選ぶことができるんだから。
ただ、そもそも存在意義が定まっていない集団や、謳っている存在意義とやっていることが違う集団が、実は大半。そこは中長期的には避けた方が良いのだろう。
一方、集団を運営し、社会に影響(インパクト)を与えていこうという責任・役割を負った人たち(いわゆる経営者と呼ばれたりする)にとっては、「人が辞めずに所属したがってくれる、入りたがってくれる」ことが理想なのだ。
だけど、そのために本来の自分達の姿とは違うウケの良い話をしたり、ニンジンぶら下げて「いてもらう」のでは本末転倒じゃん。あくまで自分達(集団)らしさを軸にしつつ、「一人一人に居場所や役割がある」し、「所属しているからにはエンジンになってもらえる」ことを目指したいわけ。これがディレクションの基本。
ここに難しさがあってさ。
一人一人が所属先を選ぶ・いる自由と、そこに居場所や役割があるか、存在する価値を(自他ともに)認められているかは「まったくの別問題」なのよ。
経済条件などが良いから、支援や救いが受けられるから居るだけなら、それは所属ではなく「依存」なわけで。そうした依存(パラサイト)でも良いやと決めているか、そこまで考えずに自然にそういうフリーライダー的な位置付けになる人もいるのが集団の常。価値や対価を得られる権利は、皆で生み出してシェアいるはずなんだけど。
あえて理想を言うなら、皆で目指すのは、
集団のパーパスを実現する「メンバーとしての役割や存在価値」を、一人一人が、”自他ともに”確認できていること。自分達の存在意義にメンバーが共感し、自分の役割・存在価値に誇りを持って活動していることだ。パーパス云々じゃなく、良いチームってシンプルにそういうもんよね。
そういう観点で見ているぶん、
最近「違うよな…」って話が多くてさ。
急にね、一人一人の生活上の価値観や人生の目標を言語化しようとか、副業とか在宅勤務を解禁しないととか、会社のダメなとこ挙げるとか、そんなことで会社のパーパスへのコミットメントが上がる、という大きなカンチガイが蔓延している。これ、あまりに飛躍しているんだけど疑問を持たないのかね…「集団における個人の多様性」って、そういうことじゃないんだよ?
あと、社内の人だけで対話しようとすることにも違和感。
何年も一緒に同じ集団に所属していて、関係性も出来上がっているのに、その中で対話しているだけで新しい気づきや言語化が進むかねぇ…むしろ周囲の(特に目上の、古い人たちの)顔色や評価に躊躇・忖度してしまうのが人の常だし、以前からある文化や慣習、思考方法に則る形になるのでは?
ということで。
率直に書いてしまうと、パーパス経営を推進するために、個人の価値観やマイパーパスとやらに飛躍するのは、組織運営や組織文化を作る実務(Culture Development)に入ったことがないシロウトさんだと思う。しかも、それを社内の人の対話だけで進めようとするのもダブルでナゾ。「自前主義」の弊害なのかな。
対話を通じて言語化を進めるには「①自分が所属する集団を選ぶ基準と理由(≒パーパスへの共感や理解)」や、「②その集団に居るからこそできること」、「③所属していることで得られるもの」、「④今の自分の役割や居場所」、「⑤らしさの為に、変えたいと思っていること」など。こうしたテーマの対話は、社外や部門外の(事情や人間関係に縛られない)客観的でソモソモ論的な質問がある方がずっと進む。
さて。ちょっと熱くなって、長くなってしまった。
正直、ビジョン(未来の理想像)をセットして事業を推進するよりも、パーパス(集団の存在意義)を軸にして社内文化・制度を再構築する方がずっと難しい…というのが正しい感覚かと。
だからこそ、この目的と手段がバラバラにならないようなアプローチやプロジェクトを手がけていくのが「良い会社」なのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?