19時25分に熱狂する僕
僕は19時25分になると熱狂する。というのも、19時30分にピンクの服着ておへそを出した女性がボクシングジムに現れるためだ。その女性のことをここでは便宜上、ピンクさんと呼ばせてもらう。
僕はボクシングジムに通っていて4年が経過しようとしている。ジムには週3〜4ぐらいのペースで通っているが、男性客の方が圧倒的に多い。キックボクシングになるともう少し女性の割合が多いと聞くが、僕のジムは9:1ぐらいの割合で男。だから女性が現れると目を引くわけだが、ピンクの服でへそまで出してるとなると尚更だ。
ピンクさんはその格好で大体19時30分くらいにジムに現れる。じゃあ、ジムの男たちは19時30分に熱狂すればいいじゃないかという話だが、そうはならない。それは野暮な話だ。
ボクシングジムに通う男性たちは、ピンクさんが来てミット打ちやサンドバックを叩き出したら、極力見ないようにする。それは一つのマナーかもしれない。美学なのかもしれない。一心不乱に自分の前に置かれたサンドバックに向き合うことで、ピンクさんのことを考えないようにするのだ。きっと我々の目の前にパンチラしている女性が現れたら、我々は下を向いて歩くだろう。つまり、我々はボクシングに向き合うことで紳士でいられる。
なので、ピンクさんが来るのか来ないのか?という期待感が高まる19時25分が一番ジムのボルテージが上がる。来てしまったら、我々はいないものと思って練習するのがマナーなのだ。
もちろんそれぞれの顔色にそれが如実に現れているわけじゃない。ただ、僕はその場で熱狂を感じるのだ。W杯の試合前の会場の雰囲気のような静かな情熱をジムの中に感じる。そして僕は一人、その雰囲気に圧倒されそうになりながらジムの入り口をチラチラとのぞく。トレーナーが「しゃあ」と気合を入れ直したり、ちょっとダンディな奴が急にベンチから立ち出してシャドーやり出したりする。ダイエット目的で来てますという丸刈りさんが音速のようなワンツーを突然決めたりする。みんなの脳裏にはきっとピンクさんのことが思い浮かんでいるはずだ。それでいざピンクさんが来ると、すました顔でボクシングやりだすわけで、人間という動物の美しさと本性を垣間見る。
ピンクさんは実に楽しそうにミット打ちをする。トレーナーは鼻の下を伸ばし、ダンディは鏡で髪型をチェックする。丸刈りさんは狂ったようにワンツーを決める。この熱狂ぶりは他では味わえない。井上尚弥もこの熱狂の中で試合をしたことはないかもしれない。
僕は一度、不覚にも更衣室から出た瞬間にピンクさんと鉢合わせしてしまったことがある。明らかにピンクさんがジムに訪れる時間ではないはずなので完璧に油断していた。
ピンクさんが「こんにちは」と言うので「ちわっす」と高校球児が先輩にする爽やかな挨拶のように返事をしてしまった。僕の中にあんなにもフレッシュで謙虚な気持ちがあるのかと自分でも笑えた。
とにかく毎日僕の通うボクシングジムは19時25分に熱狂している。そしてピンクさんが現れるまでの5分間、僕はまるで宇宙飛行をしているかのような、この世にはいない情熱をジムに感じる。そしてピンクさんが訪れてからの静寂を見ると、冷静と情熱の間に人間の全てが隠されているような感覚を味わうのだ。
19時25分になったらぜひこの話を思い出していただきたい。
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