筋肉の夜
水道屋の帰りは遅い。
早い日は朝7時頃には家を出て帰宅が真夜中の3時を過ぎる事なんてざらにある。
お客様のお宅か車での移動。そして車内待機で一日があっという間に過ぎていく。
そんな生活の中、当時最も恐れていた事があった。
"体力の低下"
30歳を過ぎた身体は動かさなければ直ぐに錆びつく。事実鍛えていたはずの身体は日を増すごとに劣化しつつあった。
「こんなんじゃいざ競技に戻れる日が来ても動けないや…。」
危機感を感じた私は近所に新設された24時間営業のフィットネスジムに通う事にした。
幸いそのジムにはサンドバッグも設置されていた為これ良い事と、思い付いてから入会までは早かった。
目的は2つ。
・体力を保つ。
・戻れた時にキレッキレの動きを披露してジムの仲間を驚かす。笑
疲労でヘロヘロの中、毎日とまではいかないが頻繁にジムに足を運んだ。
深夜のジムは人が少なく、広い施設内に多くても5人程しかいない。最高の環境。
そんな中、頻繁に顔を合わせるゴリマッチョのおっちゃんがいた。
おっちゃんはいつもフリーウェイトコーナーにいて、「っ!しぃー!!!!っ!しぃー!!!」と声を上げながら超重量負荷で追い込むストイックな人だった。
私がエリアに行くとコクリと頷いて「ビッ!!」と右手を上げてくれる。
私もペロンと右手を上げて返す。
一切言葉を交わした事は無いのに人の少ない深夜に連日顔を合わせるという事だけで私達には"友情"のようなものが芽生えていたのだと思う。
おっちゃんと無言の挨拶を交わす日々が2ヶ月程続いたある日の事。
「俺明日から来ねぇから。」
サンドバッグを叩いてた私に突然おっちゃんが話しかけて来た。
この関係に突如言葉が発生した事に驚いてしまった私は抜けた声で「ふぇ?」と返した。
おっちゃん「俺。離婚すんだよ。だから家出るんだわ。」
「こんな時間に毎日顔合わせるから親しみが湧いてさ。ちょっと言っときたかったんだよ。」
おっちゃんには歳の離れた奥さんがいるそうだ。家には小さい子供もいるとの事。奥さんは以前はおっちゃんの筋肉が好きだと言ってくれていたが、子供が出来ても筋肉とばかり向き合うおっちゃんに愛想を尽かしてしまったらしい。
「筋肉から始まったのに筋肉で終わった。でも筋肉あってこそ自分を保ててるんだよ。譲れなかったんだよな…。」
「筋肉筋肉」とゴリゴリの上腕をさすりながら繰り返すおっちゃんの顔はすごく寂しそうで、なんだかこっちまで悲しくなった。
おっちゃん「夜中に来るのも嫁と子供が寝てからこっそり来てたんだよ。」
「仕事も育児もしてたつもりだったんだけど。何が悪かったのかさっぱりわからない。」
「女っていきなりなんだな。分かんねぇ。本当に。」
あぁ。こういう時に気の利いた言葉一つ出せやしない…。
私は女だけど、家庭を築いた事も子供を産んだ事もない。寧ろ30過ぎても自分のやりたい事を好き勝手にやってる。おっちゃんの嫁には嫌われるタイプなのだろう。きっと。
おっちゃんごめん。何も言えねぇわ…。
ジャンプボックスに横並びで腰掛け、足元を見つめながらそんな事をグルグルと考えていた。
おっちゃん「ごめんな!初めて話すのに重い話して。でも顔合わせてた期間楽しかったよ。勝手に励みになってた。ありがとう。」
そお言っておっちゃんは立ち上がった。
菊池「寂しいっす。」
やっと出た言葉は本心のこれだけ。
おっちゃんはフッと笑い、いつもの様にコクリと頷いて右手をビッと上げジムを後にして行った。
友達が一人いなくなった。
それ以来おっちゃんの姿は見ていない。
今頃どっかで元気に暮らしているのだろうか。
お気に入りのジムを見つけて今日も筋肉を育んでいるのだろうか。
人それぞれの人生がある。
交わったり並走したり衝突したり。
自分の人生と他者の人生が交錯する瞬間は長かったり短かったり濃かったり儚かったりと様々だ。
あの日私の口からはおっちゃんに「寂しいっす。」の一言しか伝える事は出来なかったけど、今もどっかで「っ!しーっ!!!っ!しーっ!!!」と頑張るおっちゃんの幸せを勝手に祈ってる。
忘れられない友達の話。
菊池真琴
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