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100本目記念特別対談!これから重要なのは「贈与」?チャイネクストさんと考えるわたしたちの生き方

こんにちは!

今回の記事は、くらしのふふふにとって特別なものになります。なんと、今回は記念すべき100本めの記事なのです!

本メディアがスタートしてから2年と10ヶ月。長いようであっという間のようで…。

というわけで、今回は100号特別企画として、ゲストをお迎えしてのスペシャル対談。教師、起業家、ラジオパーソナリティ、思想家などさまざまな顔を持つチャイネクストさん(以下チャイさん)と、本メディアの編集長であり運営元の社会福祉法人 基弘会の本部長でもあるミスターSKがガチ対談。

対談前の顔合わせの段階からチャイさんの世界観が溢れ出します。

現在、ご本人が探求してい るというのが「交換」と「贈与」。
ここでいう「交換」とは平たく言えば資本主義のこと。サービスに対しての見返りとして対価を「交換する」というもの。 しかし資本主義の限界や、その弊害に着目されるようになったことで、それに対してのアンチテーゼとして提唱されているのが「贈与」です。

贈与は文字通り「贈る」こと。そこに見返りや意図はなく、純粋な気持ちで行うことです。しかし「返報性の法則(人はなにかをされたらお返しせずにはいられない)」により、意図せず行われた贈与にはさらに贈与でのリターンがあり、これが経済だけでなく人間関係までをも充実させる新しい経済のあり方だというのです。(贈与論についてはこちらの書籍などに詳細を譲ります)

また、仏教思想などにも造詣が深いチャイさん。
その哲学にインスパイアされたミスターSKが、これからの介護や自身の事業、経済のありかたなどについてのヒントをチャイさんのお話から紐解いていきます!

チャイネクスト
大学在学中に19歳でトルコに留学し、トルコの大学受験資格を有するトルコ語のディプロマを取得して帰国。
大学卒業後、塾講師となるが父の死をきっかけに教員免許を取得することを決意し、公立小学校教諭へ転身。8年間の勤務を経てフリーランスに。全国で様々なセミナーや地方創生、オンライン家庭教師や海外での家庭教師などさまざまに活躍。現在は私学の学校教育の現場に関わっている。
2012年より友人たちとPodcastの配信を開始。なかでも、「行け!世界遺産と雑学の旅★」は、世界遺産や雑学などのテーマでPodcast総合ランキング2位(社会/文化カテゴリー1位)を獲得したことがある。
「どんな人にも無限の可能性がある、人はいつからでも変われる」をモットーに人を励ますことをライフワークとして人と人を結ぶ活動をしており、最近ではダイアリー結婚相談所を創業。
哲学、宗教、芸術など幅広い分野に興味をもち、“理解の境界線”をキーワードにいかに自分の理解を超えた世界と触れ合うかをテーマに様々な取り組みをしている。
自身が生み出した「チャマ」というキャラクターをアイコンに活動中。
https://www.chainext.com/

死ぬなら家か病院かそれとも…

ミスターSK:
人間って、たまたま65歳まで生きただけで「高齢者」と位置づけられてしまって、そこから急に介護する側からされる側に変わる、というような感じになる。人間を経済システムのなかに組み込もうとするがゆえに、人のステージを分けてしまわないといけないところがあって、ある意味の「洗脳」のようなものがある気がします。

もっと言えば、「死」というものを恐怖のように感じて、死なないためにすごく窮屈な生活を強いられるというようなことがこのコロナ禍で起こって、死に関する価値観がすごく歪んでしまったような気がするんですよ。

チャイさんは仏教を勉強されてたということですが、老いるとか死ぬことの価値って、今と違ったんじゃないかと……。

チャイさん:
仏教にもいろんな教えや経典が膨大な数あるんですが、初期仏教だと「生老病死」という4つの苦しみを「乗り越える」ということをテーマにしているので、そういう意味では老いることも死ぬこともネガティブな要素ですよね。
そういったことを前提に、最終的にブッダがたどり着いたのはそうした苦しみに「とらわれない」っていうことです。老いて病気になる苦しみと自分がどう向き合って、どう捉えていくかということを説いている、すごく実践的な宗教が仏教なんです。

ミスターSK:
チャイさんはまだお若いですけど、もしご自身が介護状態になったらどういう生き方を望まれますか?

チャイさん:
すいません、正直あんまり考えたことなかったです。でもやっぱり死ぬなら家で死にたいですね。僕は父、祖母、祖父を見送って、わりと身近なところで死を経験していると思うんですが、みんな病院で死んでるんです。でも、あとからはそれで良かったと思うしかないけど、いろいろ大変なこともあったので、ほかにもやり方があったんじゃないかと思うと、病院で死ぬことが幸せだとも思えないから、可能なら家で死にたいなと。

僕自身は家族に介護されたいです。
でも、祖母の介護などで家族がすごく大変なのも見てきたし、いろんなストレスも生まれるじゃないですか。自分は家族に介護してほしい、でもそれで家族が疲れていくと思うと、すごく難しいですよね。

ミスターSK:
いまのお話のなかに「施設」という言葉はでてこなかったですね。

チャイさん:
身近で利用した人がいなかったので、考えたことなかったですね。
やっぱり、若い人は自分が老いるなんて考えてないですよね。僕は今40歳ですけど、やはりそういう意識は薄いです。
あとはやはり、日常会話のなかで介護とか施設とかの話に触れることがないですよね。だから、考えたことがないという典型的なパターンだと思います。

ミスターSK:
そういう方々が急にご家族が介護状態になったときに困らないように、なるべくいろんなことを早く知っていただきたいという気持ちが、私たちがこのメディアを始めた理由です。
施設といってもいろんな施設があるし、サービスもいろんなものを選べるんですよ。それによって老後の暮らしの質って変わってしまうので、ちょっとでもイメージできるようにと。

青春至上主義に物申したい!

チャイさん:
さきほどおっしゃった「人のステージを分けてしまうことに違和感」というお話で、ちょっとそれに関係あるかなと思うんですが、「青春」の次ってなんだか知ってます?
古代中国の五行思想では、人生のステージは4つあると言われていて、青春の次は朱夏(しゅか)なんですよ。年代の分け方は諸説あるんですが、生まれてから思春期くらいまでを玄冬(げんとう)、そこから青春が30歳くらいまで、そのあとに人生でもっとも活躍する朱夏が30代から60代くらいまで。そこから60代からの壮年期が白秋(はくしゅう)になり、80代以降はまた玄冬の時代にもどって人生を終えていく。これはまさに季節のように、暗いところから種が出てきて芽吹いて、青い春を迎え、朱い夏になり、白い秋になってまた玄冬に戻るんです。

僕は「朱夏に光を!」って思っているんです。いまの時代って青春にフォーカスされ過ぎなんですよ!これすごい問題だと思っているんです。だって、40代からのこの朱夏の時代こそが人生のハイライトなのに、みんな40代になると「体力が落ちた」とか「老後のために貯金しなきゃ」とか「子どものことで手一杯だ」とか言い出す。いやいやいや、って感じですよ。
精神的なことも、人との関わりも、身体的なことも、自分でコントロールできて、絶対青春よりも朱夏のほうが良くなってるはずなんですよね。

さらに、白秋のほうがかっこよくなってるかもしれない。いま60代で素敵な人なんていっぱいいるでしょ?

それなのにみんな「青春」にフォーカスしすぎ。人は朱夏や白秋を経て大成していくはずで、その後玄冬で人生をどう収めていくかって考えたときに、青春に依存しちゃダメなんですよ。

だからね、さっき「要介護状態は突然来る」っておっしゃいましたけど、その情報が身近にないっていうこともありますけど、メディアとかがやたら青春にフォーカスして、若くてピチピチしてることが最高だ、みたいなことをマーケティングで煽りすぎだと思うんですよ。でもそんなの絶対ウソで、みんな青春時代はニキビで悩んでたりしてたでしょ?そんなことも忘れて乗せられちゃってるんですよね。

僕は、青春時代にうまくいかなかったことや失敗したことを、朱夏の今にやっと糧にできるようになってきました。少しずつ形になってきて、自分が描きたい朱夏ができてくるかもってちょっとワクワクして。そのワクワクの先に白秋を描ければいいんじゃないかと思ってます。

ミスターSK:
確かに40代は面白いですよね。
資本主義と青春至上主義は結構つながってると思いますね。結局、モノも青春にフォーカスすれば売れますよね。シャンプーやリンス、化粧品だとか。
青春にスポットを当てるのが経済なのかな。

チャイさん:
そうそう。だからアンチエイジングとか寿命が伸びる研究とかが注目されるんですよ。今、不老不死も実現するかもしれないんですって。サプリメントで、本当に老化が止まる可能性もあるらしくて、最新の研究だと200歳くらいまで生きられるかもしれないと。

ミスターSK:
へぇ……。それってみなさん幸せなんですか?

チャイさん:
あ、そこはだから関係ないんですよ。寿命の長さと幸せは関係ない。仏教の話に戻れば、老いと幸せも関係ない。それを苦しみと捉えてしまう心が原因なんだというのが、ブッダの悟りなんですよね。

交換と贈与と人間関係のしくみ

ミスターSK:
資本主義と、経済と、マーケティングと、青春、老い…。これら全部絡んでるような気がしますね。私は経済活動に振り回されてる気がします。

チャイさん:
僕もします。
お金の問題はずっと大きなテーマで。お金は必要、でもお金が身近なところで動いたときの味気なさもある。どう付き合っていけばいいのか?
パワフルだけど、ときに傷つけるものでもあるお金のメカニズムを理解したいっていうのがあるんです。

ミスターSK:
チャイさんが探求されている「贈与」が1つの脱却法なわけですか?

チャイさん:
そうですね、交換が行われる場と贈与が行われる場は違います。みなさんお感じのとおり、家族や親友の間で交換(お金のやりとり)が行われるとおかしくなりますよね(下の図の①)。

その外にちょっと緩い友達空間がある。たまに奢ったり、割り勘したり、困ったらお金貸したりとかがあるかもしれないゾーン(図の②)。

更にその外に経済空間があって、友達でもなんでもなくても、インターネットを介してとかでも、お金を払えばフランスから水を送ってくれたり、一緒にビジネスしたり、コミュニケーションとったりできるすごく開かれた空間(図の③)。

この③のエリアで使う限り、お金ってすっごく便利なものなんですよね。お金を個人の信用の媒体として使うことができる。そうすることで、家族でもなんでもない人が自分のやりたいことに協力してくれたり、ビジネスしたり、そうやってどんどん③が広がっていくという、このエリアにおいてはお金っていうのは素敵なものなんですよ。

※参考 橘玲 著「幸福の「資本」論」

でもそれが、②のエリアのほうに押し寄せてくるとおかしくなってくる。つまり、友達関係も「こいつといると損か得か」みたいな損得勘定になってくると、もう友情じゃないから③の層になる。すると、極端に①の身内と③の経済関係だけで、②の友達がいないというような状態が起こり得るのかなと。

「幸せ」というものを考えたときに、僕は人と人とのつながりだと思っていて。それは家族がコアになるけど、大切なのは親友、友達、地域などのコミュニティだと思うんです。そこに生きていることがめちゃくちゃ幸せに関係があると思っている(=②)。
でも、この②のエリアが薄くなってしまうくらい、③の経済空間のお金のパワーが強くなってるんじゃないかなと思っていて。

本来なら、真ん中の①のところでしか機能しない「贈与」は、②のエリアでも機能するはずなんです。だからお中元や年賀状のやりとりがある。

だから、まずは贈与というものが①のエリアにはっきりあることを認識して、③のエリアに交換があることを認識して、その緩衝地帯の②が人の幸せにもっとも重要な友情空間があって、そこは贈与と交換の両方が混在する場所であり、決して交換だけで塗り固めてはいけない場所だということ。

でもね、ここがともすればすごく交換っぽくなっちゃうんですよ。それがすごく問題。だから、意図的に贈与をこの友情空間でやっていかないといけない。

ミスターSK:
なるほど。なにか実践されていることはあるんですか?

チャイさん:
大したことはないですけど、旅先からお土産を送ったり、誕生日プレゼントを送ったり。
あ、でもね、贈与でいうと、電車とかにある「優先席」って誰のためのものだと思います?
体が不自由な人やご高齢者のものだと思われるかもしれないですけど、これの僕なりの答えは「譲ってあげる人のためのもの」。

席って、譲ってもらった人と譲ってあげた人だったら、ぜったい譲ってあげた人のほうが気持ちいいんですよ。つまり、贈与した側のほうが幸福なんです。だから贈与ってすごいんです。結論として、優先席があることで譲りやすい。。だから僕は、優先席は「譲ってあげる人のためのもの」って思ってるんです。

ミスターSK:
確かに、譲るときの恥ずかしさは少ないですね。

チャイさん:
そうそう。だから、贈与ってするべきですよ。普通の常識で考えたら、もらった側、された側の方がありがたいし、損得で考えたら得なんです。でも、贈与は損得じゃない。してあげた側が、圧倒的に幸せになる。だから、誕生日プレゼントとか出産祝いとか、贈与はできるときにしてあげた方が、人は幸せに生きられるはずなんです。

友情も愛情もどんどん深まっていくもの

チャイさん:
僕は「親友」っていうのをすごい重要視してるんです。
でも、今、世の中には人と深く関わるとか、人と長い時間一緒にいることが面倒くさいとか、とても煩わしいとか、自分の自由が脅かされるっていう、「思想」を感じるんですよ。

僕が結婚するとなったときに、周りの友達が「結婚すると自由なことできなくなるよ」ってさんざん言ってきました。僕は海外行ったりビジネスやったり、やりたいことがいっぱいあったからやってきたけど、それができなくなると。

じゃあ実際結婚したらどうかというと、もっと自由に、もっと楽しくなった。だって今まで1人でやらなきゃいけないことを2人でできたら、物理的にやることは減るじゃないですか。僕がどこか行きたいとこがあったときに、1人だと気が引けるとこでも2人なら行けるじゃないですか。
奥さんは僕とは真逆の性格だから、全てが違っていて一々面白い。彼女はどちらかというとイ ンドア派で家の中で自分のやりたいことをコツコツと続けるのが好きなタイプなんです。 その真逆の僕は、彼女にとって、知らない世界に連れ出してくれる人。
こんな2人が毎日いっしょにいたらめちゃくちゃ楽しいじゃないですか。お互いが知らない世界を毎日広げていくんだから。

だから奥さんとは大親友みたいな感じです。お互いが補完し合いながら刺激し合いながら、理解しあい、世界が広がり、めちゃくちゃ自由になったんです。だから、結婚してすごく良かったです。

それでも、「子どもができるまでだよ」って言う人もいる。さすがに子どもは…ってビビってたけど、去年実際に子どもが生まれて、未熟児で大変だったんですけど、でも夫婦2人で育てたら楽しい。
子育てをしていると、一歩間違えたら死んでもおかしくないかもってヒヤっとするときってあるじゃないですか。そういう場面に何回か出合って、普通に生きるってことだけで、 実はすごいことで、当たり前のことなんてないんだなって思うようになったんです。

それから、この世界が奇跡に満ち溢れてると感じるようになった。特にうちの子は、NICUでたくさんたくさんお世話になって、必死にこの命を繋いでもらった。いろんな人に支えられて支えられてあの子は我が家に来ることができた。

何かこの壮大な「生きる」プロジェクトとも言えるものの中で、はっきり思ったのは、大人になるってことは、当たり前の日常が当たり前じゃないことに気づくことなんだと。
奥さんとそれを共有し、子供の視点を借りて、毎日できることが1個ずつ増えていくのを見る。
子供っていつも本気で全力じゃないですか。そんな全力でいる人が身近にいるって最高で、刺激受けますよね。

だから、結婚したことによって、子供ができたことによって、僕はもっと自由になって、もっと人生が深くなったと思う。

友情や愛情の一番いいところは、ずっと続いて、深くなることなんです。
僕のイメージでは、友情って絶対に途切れない仕組みになってるんですよ。だって、その友達がいたら助けるし助けられるし、何かあったら相談するしされるし、ちょっと忙しくて疎遠になったっていつでも連絡取れるし。

「交換」「贈与」に関係あるかもしれないけど、その場限りじゃなくずっと繋がっていくことが友情と愛情にはあって、これが財産のはずなんです。絶対にこれが人生の中で一番大事にしなきゃいけないもので、これを積み上げれば積み上げるだけ青春よりも朱夏、朱夏より白秋がいいに決まってるじゃないですか。白秋より玄冬がいいに決まってるじゃないですか。どんどん関係が長くなるんだから。そう思います。

ミスターSK:
素晴らしい。やっぱり人間関係に悩んでる方たくさんいらっしゃるんでね。そう思えたらすごく幸せですよね。チャイさんのおっしゃってる贈与とか、交換っていう意味がすごくわかります。私たちの活動のなかでもできることがいっぱいあるかも。

チャイさん:
「親友」っていうのは、欧米のデータですけど、大学時代にできやすいそうです。
条件があって、

1.目的なく頻繁に会う
2.物理的に近くにいる
3.安心で安全な空間である

という条件が満たされやすいのが、大学生時代だから。

そう思うと、介護施設もまたこの条件を満たす可能性がありますよね。もしかしたら、利用者さん同士で親友になるということはあり得るかもしれないですよね。学校では先生と生徒は明確な一線があるように、施設でもスタッフさんと利用者さんは親友になってはいけないかもしれないけど。

すっごい素敵な友情関係の利用者同士が出てきたときに、「わあ、いいな、僕らもああいう友達欲しいな」みたいな。

ミスターSK:
なるほど。夢の箱名物みたいなコンビができてきたら。悪口も含めて好き放題喋ってもらうとかね!(笑)面白い!
何か福祉活動って、ともすれば慈善事業のように思われるので、そことビジネスの狭間で我々は贈与的にやりすぎてしまったりすることもあって、バランスが難しい。

チャイさん:
わかります。学校の場でも同じことが起きてますから。

ミスターSK:
でも「贈与」のお考えを教えていただいて、いいシステムが作れるかもしれない。すごく参考になりました。
贈与とか、資本論とか、これから生き抜いていく方法、お金に振り回されない生き方といいますか、もっと言うと本当の人間の幸せみたいな……。

チャイさん:
いえいえ、僕も模索し続けている1人なんで。
日々生きる中で、味気なさを感じるときって資本主義が見え隠れするのをすごい感じます。
でもそれに代わる何かがわかってるわけでもなければ、資本主義から抜け出してるわけでもない。
ただ、問題意識を持って次につながるなにかを見つけたいなと思って、自分がこれないんじゃないかと拾ってきたかけらを子供たちに届ける、それが自分の仕事なんじゃないかと思ってるんです。
僕らは時代の過渡期を生きてると思ってるんですよ。でもこれからの子供たちって、僕らの後を生きるわけだからそこは過渡期じゃなくて次の時代に入ってる。僕自身の教育者としての限界は、前の時代の教育を受けていて、未来がわからない状態で、全く知らない次の時代の子供たちを育てなきゃいけないことなんです。

だから、未来がどうなっていくのか、何が正しいのかを常に模索して試して、かけらを集めていって子どもたちに見せていくということを仕事にしてます。

未来を作り上げていくのは彼らだから、僕が彼らより少しだけ生きてる分、何かヒントになるようなものが見つけられたなら、それを渡して見せて、彼らが自分たちの価値観を築いていくのを見守るしかないんじゃないか。そういう思いで、教育という仕事をしているんです。

Edit by ikekayo

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