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Dance in the Life 〜踊るように生きる〜

生きるってなんだろう。そんなことばかりを考える。ない頭で考える。

暮らしを考える。掃除をする。料理をする。電球を替える。髪を切る。花を活ける。星を見る。

そのひとつひとつを自分で選んでみる。そうすると暮らしは手作りになる。手作りの暮らし、うーん、なんかいい。

「ないものは作れ」の精神で、物事を動かしていくと、体内の血液がぐるぐる流れて動いていく感じがする。
今の社会システムだと自分の手ではコントロール不能な世界に飲み込まれていかざるをえなくて、逆にそこから離脱するとそれなりの負荷がかかる。でもそれは言い換えれば「自己責任」ってことで、そこを越えていかないとなにも始まってはいかない。


手作りの暮らし、自分の形を生活に反映する。カスタムする。お皿。インテリア。服、時間の使い方。そのすべてを自分の形で作り上げて行くとめちゃくちゃ「自分のプロ」になれる。他の誰とも被らないライフスタイル。何においてもすべからく「自力」でやるってことが自分の輪郭を形成していく。

なんとなーくだけど、今って個々人の暮らしがコンビニの中に組み込まれてる感、てのがあって、それが悲しい時がある。良い言い方をすればそれはコンビニが人々の暮らしを支えているとも言えるけど、逆にそれは人々がコンビニの形になってるっていうか。人間のめんどくささを便利さに転換させるコンバータ的な役割をもったコンビニ。
そのめんどくささが人間の本来の原動力で、「めんどくさい」がすべての始まりと言ってもいい。つまり何をするでもはじめはめんどくさいもので、タイヤの転がり始めに一番負荷がかかる状態と同じで、その負荷のかかった状態を言葉にすると「めんどくさい」なんだろう。

自分が去年まで過ごしていた東京での暮らしは、わりと手作りに近く、暮らしの綻びを自分で手直しする手業に楽しみすら覚えていた。その暮らしの中で形成されてきた自分の輪郭が実家に戻ると親があれこれと世話を焼いてまあなんとストレスなことか。

親が何でもやってくれる暮らしが学生時代は当たり前だったのが、自分で培ったリズムだったり心のテリトリーをずかずかと「やさしさの専売特許」によって踏み込まれ、かつ悪気がないというのがいちばんタチが悪く、何を言っても理解されない無邪気さに腹が立ってしまう。それはお互いにとってあまりよくない関係性で、人には適切な距離感というものがある、ということを改めて身を以て知った。それは家族であったとしても。

腹が立つからと言って親を傷つける訳にもいかない。その無邪気さが悪ではなくて、それは距離の問題で、どんな人間でも一定の距離を越えてしまうとそれぞれの波と波がぶつかり合って悪い波動を起こしてしまう。

だからこそ自分の暮らしを今の場所で改めて形成したい。人にはそれぞれ事情があって、それぞれと深い関係になればなるほど自分の問題となって、体に重くのしかかる。それはそれ、これはこれって感じで、ほどほどに、そこそこにとある程度のラインからは踏み越えることなく、かつお互いを尊重し合って生きる。自分にだって足りてない部分がたくさんあって、それを棚上げしてまで他者を侮蔑したり歪んだりしたくない。そうなった時点で既に共依存に近い関係になってるだろうし、他人の事情が自分の中に入り込んでる証拠だ。

自分で作る。自分で暮らす。その中で、自分の暮らす生活圏で自分の不得意とするものを他人が補うこと、逆に自分が得意とすることで他人を手助けすることが、いわゆる「文化」なんじゃないかなあと思う。そうやって小さな生活圏で動いていくことで、回っていく、流れていく、循環させていく。まさに「餅は餅屋」的な感じでそれぞれの専門家同士が助け合って相互扶助関係が生まれていく。

やっぱり人間が把握できる人間関係のネットワークには限度があって、ある一定の枠を越えるとコントロール出来なくなってしまう。世界が急速に外へ外へ繋がり合えるようになったように見えて、実は個々人のマインドは内へ内へと閉じていってる。

管理不能な世界に自分たちはいて、それは「だからローカルがいい」とかっていうことでもなくて、もっと立ち戻ると、人間のネットワークの在り方はそれぞれ全員違っていいものだし、ひとつのコミュニティに準じる必要すらないと思う。

その感じは今になって思えばすでに高校の時に無意識的に自分はそうしていた。
工業の機械科だった自分は、40人全員男子のクラスだったけど、どのグループやコミュニティに属するわけでもなく、部活は部活の友達、スケボーはスケボーの友達、車やバイクの話をできるのはこの人、恋バナできるのはこの人、下ネタ言えるのはこの人みたいな感じで、ひとりの人間に対してさまざまな部分を求めるんじゃなく、逆にお互いに喜び合える共通項をもった友達とわりかしライトにフランクにベタベタしすぎない関係で付き合っていた。そうする事で互いに重荷にもならない関係でいられた。だから数年ぶりに連絡をとっても、まるで先週も連絡したような感じでいれる。これはとても良いことだ。

大森靖子がいつだったか何かの記事で、「自分の居場所をたくさん持つ」というような話をしていたのだけど、思考をいろんな場所に分散させることが、自分のバランスを保つ為に必要なんじゃないかな。やっぱりどうしても居場所をひとつに絞ってしまうとなんか半義務的に「ここで自分のアイデンティティを構築しなければ」的な感じになりがちだし、なにかひとつの要因ですべてのバランスが一気に崩れてしまう可能性だって大いにある。ひとつの世界でしか存在する居場所のない者同士がその狭い世界の中で嫉妬したり足を引っ張りあったりしてる。世界はそこだけじゃないのに。
そうならない為にも常に片足を少しどっかに重心かけとくってことが大事なんだろう。そう、Dance in the Lifeです。いろんなところにステップ踏んで動き続ける、波のようにゆらぎ続ける。静態から動態へ変換させる。流れることが生きること。ゆるやかに、軽やかに。

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