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心の居場所

東京を発って1ヶ月が過ぎたのに、いまだにイントネーションがふわふわしてる。標準語っぽくなったり、宮崎訛りになったり。時差ボケならぬ場所ボケというか、東京なのか宮崎なのかわからんくなる時がちょこちょこあって、東京の知り合いと同じ車通ると、「あれ、橋本さんかな?」とか「あの人井上さんに似てるけど、井上さんかな?」とかって。いやいやここ宮崎ですから〜っていう(笑)
だから逆に東京近えなみたいな感覚がある。

あーれこの林道奥多摩に続いてんだっけ?いやいや宮崎ですから〜みたいな体験てあんまない気がする普通は。いやでも海外行ったりする人わりとあったりするのかな?場所ボケ。あれ日本だっけベトナムだっけ、とかありそう。なんかでもそういうふわっとした気持ちも大事な気はするんだよね〜、繋がってる感じが。



こっち帰ってから、マジでほんとに空がすっごく綺麗で、そこに一番衝撃というか、感動を覚えた。夕暮れがめちゃくちゃ綺麗で、とにかく最近写真撮ってる。駄目ですよ本当は運転しながら写真とっちゃ。でもホントに、普通に現場とか出て仕事して、日常のルーティーンの波に飲まれようとしてるさなかに、帰り道の峠で普通に息を飲むくらいの夕焼けが現れて、びっくりする。すげー!とか言ってるうちに写真撮る暇もなく通り過ぎちゃって、「いやこの夕焼けは今しか見れない」とか言って広くもない道路で無理やりUターンかまして写真撮りに行ったりしてる。それが3回くらいあった。いや学習しろよ(笑)って感じだけど。でもそれぐらいめちゃくちゃ綺麗で。


国道268号(高岡あたり)の夕焼け
御池から見た霧島連山と夕焼け


日向の海岸で見た夕焼け
延岡あたりの夕焼け
11月25日の野尻峠から見た夕焼けと霧島連山
11月30日の野尻峠から見た夕焼けと霧島連山


12月6日の野尻峠から見た夕焼けと霧島連山
昨日見た夕焼け

空の広さと澄み具合が違うからなのか、空のスクリーンに映し出された風景がバーン!と広がっていて、絵に描きたい。空って一瞬なんだよなあ。かわるがわる一瞬。



愛おしいと思う気持ちが自分を育てる。そんな力で他人と向き合えればいい空気が生まれるなって思う。マジで外を見渡してみると人は人の悪口とか嫌なとこばっか見て嫌なことばっか言ってる。むしろ他人の悪いとこのアラ探しばっかしてる。それって自分のアラ探ししてんのとおんなじで、全然いい空気を生まない。社会全体が淀んでんな〜って思う。
Twitter最近はほとんどやんないけど、絶対に誰かの悪口とか言わないようにしてる。悪口言う時の自分の状態が嫌いだから。

昨日読んでた舐達麻のバダサイが言ってた話がすっごく符に落ちて、いやめっちゃそうだよなあ!とひとりヒザを打ちまくってたんだけど、ちょっと引用するので読んでください。

B:自分たちがやってることは、自分の感覚の話なので、芸術じゃないですか。芸術っていうのは自分の感覚を目に見える形で出すだけじゃないですか。それの正解ってないじゃないですか。千差万別じゃないですか。でも正解ってあるんです。それは、俺の表現だとしたら、俺の考えです。俺がこう思ったことを、こうするっていうのは、絶対間違いないじゃないですか。あなたにとっては知りませんけど、俺にとってはそう思ったから。

まさに、その通りで、個人的にはピュアな表現だけが、人の心を動かす、と信じてる部分があります。

B:それしか動かないっすよ。それに、例えば、インタビューをして原稿を書くのは、俺は普通の仕事ではないと思うんですよ。文章の羅列をつくるのも、創造するということにおいて、芸術的なことだと思うんですよ。俺は、それを全員が全員、何かしらした方がいいと思うんですよ。絵を描いたり、小説書いたり、ビートをつくるでも、写真を撮るでも。俺はラップだし、それは絶対した方がいいっすよね。

そうすることで、自分の歪んでる部分とか、人間の消化しなきゃいけない部分を、自分なりに消化できると思うんですよ。消化しないと、嫌な部分とかも含めて、他人にぶつけてしまうと思うんですよね。
それに、昔は全員してたと思うんですよ。それこそ、家で絵を描いて、人に見せてないだけで、それが仕事じゃないとしても、創造することは、絶対人間はした方がいいと思うんで。そうすれば、人間の良い部分だけをみれるようになって、他人と付き合えるんじゃないかって。すごい極論ですけど思うんですよね。

確かに、その通りですね。



B:しかも、創造して自分を磨くのは、自分のためなのに、それがアーティストとして成り立つんだとしたら、チョー楽だし、チョー効率イイじゃんって思うんですよ。単に、自分のためにやってるのに、実際俺たちの曲を聴いて、これから懲役いくやつとか、懲役いってるやつとか、まったく違う別のジャンルのやつも、励まされたヤツがいたと思うんですよね、知らんけど。
俺たちが勝手にやってることで、そいつらが元気になったりしてるとしたら、この世の中でポジティブなことが生まれてるだけじゃないですか。俺は自分のことを磨いてるだけなのに、磨けば磨くほど、周りで、俺の知らないところで、それが起こるんだとしたら、それってもう革命レベルにヤバイことじゃないですか。だったらやったほうがいいっすよ。みんなも、そうしたほうがいい。

舐達麻を以前から認識していたけどほとんどちゃんと聴いたことなくて、ある時Youtubeのおすすめかなんかで新宿のライブの映像が流れてきて何気なく観てたら曲間のMCで上のインタビューとおんなじことを言ってて、それで好きになった。

ヒップホップってほぼ聴かないけど、舐達麻だけはすごく真っ直ぐで、群れないしブレないし信念を貫いていてかっこいい。
めちゃくちゃパンク。バダサイが清志郎(タイマーズ)やブルーハーツが好きであることも親近感がわく。アメリカナイズされてないすごく日本的な、詩人的なアプローチをしている。それは意図的にそうしてるというんじゃなくて人生の道筋がなるべくしてこうなったみたいなスタイルだから正直だしすごく透き通っている。前提が売れる為とかそんなんじゃなく「いい曲を作る為」という所に重きを置いているのが素敵。嘘がないんだよな。

バダサイは自分に置かれている宿命をちゃんとわかっていてそこに真っ直ぐ突き進んでる感じがあるからかっこいい。みんなそれぞれになんかしらの宿命めいたものを与えられてると思うんですよね。ただそれに気づけないままの人もいるんだけど。もしかしたらそれに気づきづらい世の中になってんのかもしれない。


こないだ実家の本棚に種田山頭火の本があって読んでたら、内容は詩ではなく当時の日記で、序盤から「私は絶食しなければならない、生きてる価値もない」とかただただ一見するとめちゃくちゃネガティブに見えるけど、もうネガティブが行き過ぎちゃっていやいやアンタ生に執着しまくってて逆にポジティブっすよ〜みたいな感じで最高だった。
「今日は誰々から米を少しばかりわけていただいた。善哉(よきかな)、善哉。其調子(そのちょうし)、其調子!」とかでもう爆笑。あんな人今いないでしょ。1日1日が一生単位で見えてんなーみたいな。死が常に背中合わせにある生、みたいな。生のそのありあり感がたまらん。今って「まあまだまだ生きれるっしょ」みたいな謎の安心感をなんとなくみんなが抱いてる感じあって、そういうのって全然かっこよくないし色気がない。「なんかこの人やばそうだな、死にそうだな」って人はすごい色気がある。ヒリヒリ感というか。気が狂ってる狂ってないじゃなくて、生に対してそれだけ深く対峙してるから、一見ヤバイ奴、キチガイみたいだけど、当人はめちゃくちゃ真剣ですっ!っていう。

そういう意味で言うと長瀬くんはとても信用できる。


結構ここ最近ヘビーにダウナーな時がちょこちょこあって、それは地元に帰る前からある程度予測はしてたんだけど、やっぱりきつい時があって。無気力感というか。
それは知り合いに不幸があったりとかそういう理由もあるっちゃあるけど、とにかく波というのがアップダウンあってダウンの時はキツいっすよね。だけどそれは閉ざさないで、ちゃんと自己開示しないと駄目で。例えば友達と話したり、逆に完全に個になってなんの予定も決めずドライブしてみたり。それこそこないだは窓から見える山の稜線をペンでひと筆書きで描いたりなんかしてた。

多分意識の世界の中にみんないるから、すべてが意識や秩序に埋めつくされるとやっぱキツいですよね。意識や秩序って人間様の生み出した世界だから、そうじゃない、自然や虫を見たり芸術に触れたり。芸術ってやっぱある種意識から解放された無意識の世界でもあるから。


今年の5月頃、夜中に表参道あたりをぶらぶら歩いてた時があって、ちょうどPRADAとかCHANELとかGUCCIとかの前を通った時に、空間とか配置・配色がもうアートなんすよね。ここまでめっちゃ頂点極めてる所は行ききってアートに辿り着くんだなっていうか。いやむしろその極地を貫いたからブランドとしての価値を生み出してるんだろうけど。もちろんそういったハイブランドな服やバッグは一切持ってませんけど。
でもその通りかかった時の店全体の空間やディスプレイのフォルムがすっごいかっこよくて、これなんか日本の概念飛び越えてんなーって思って。アート=無意識≒自然、みたいな。自然もやはり無意識の世界で、なんでそこに木が生えてんのかわからない、なんでこんな形になったのかわからないって状態で、そういうの観察してると脳が解放されるんだけど、PRADAとかCHANELのディスプレイの中に置かれてた作品も無意識に近くて、ある種自然だなって思ったっていうか。そういう意識から解放されて脳に余白を与えるのが芸術(アート)なんだなって。そこですごい合点がいった記憶がある。ただそこに差異はなくて、表参道のその空間も、たとえば広島の清掃員画家のガタロさんの描いた作品も、実は同一線上にあるんですよね。もっと言えば鹿児島のしょうぶ学園の人たちの作品も、作りたいと思った欲求によって生み出された作品、いやもっと言えば作品と言えなくても、その手によって無意識下において作り出されるものは芸術だと思う。そこに入ってしまえばフラットワールド。解放された無意識の世界。あーこの部屋にみんないたんだ、っていう。

昔甲本ヒロトが水道橋博士との同級生対談の中で話してるロックンロールについての話がそれに似てて、ちょっと引用。

何か、僕はね、ロックンロールって言うのは、1つの宇宙規模の部屋だと思っている。
でね、みんな、扉に触れるの。そりゃ、触れるよ。ラジオから流れてきたり、テレビから流れてきたり。開ける奴が少ないの。 
開けて一歩入ればね、そこはもう並列で、ブア~~ンとなった時に、その時にはもう初心者だろうが、何だろうが、ミック・ジャガー、ジョン・レノンと並列なんだよ。並んでんの。
道筋が同じなんじゃない。同じ方に向いてんだよ。

芸術。ロックンロール。そのどちらをも生み出してる側の人間ですらそこに埋没することは許されないぐらいに意識によって脅かされている領域がとても広くて、天使じゃ地上じゃちっそく死って感じなんだけど、それを受け取る側の人間はもっとつらい。たまにその扉を開けて揺さぶられてここにずっといたい!と思ってもまた日常の波が連れ去っていく。心って見えないからこそいいけど見えないからこそ不安になるし、だからある程度の居場所をなんとなく作ってあげることが大事で。さっきのバダサイの話で言うところの芸術をする、ってことにつながるんだけど、でもそれって形あるものですらないというか、たとえば葉っぱの葉脈を描いてみるとか、部屋でひとりで踊りまくるとか。それこそ思うままに踊るってめちゃくちゃ解放されますよ。去年おととしなんかはGarageBandで自分でデフォルトのサンプルでかっこいいビートあったら流して、ずーっと踊ってた。lessthanmoneyやKINUTADANCEなんかはもう完全にビートありき。ビートだけでずっと踊れる。

歌うとか踊るってのは、人間の根源的な感情を揺さぶる力があって、古来からやってきた行為だってのはすごいうなづける。魂を揺さぶる行為。ルールやパターンがなんでも与えられすぎて、じゃー例えば好きに踊ってくださーいって言われたらどうやって踊ったらいいかわかんないですーってなるよね。めっちゃなるのわかるし、めっちゃそうなっちゃう現代って感じする。自分もそういう部分たくさんある。
だからこそ江戸アケミ先生が「自分の踊り方で踊れ」と言ってたのにならって、まずは適当に体を揺さぶって踊ってみましょう。そのわけのわからなさが自分らしさだったりする。無意識の解放。そんなところから心はパッと顔を出す。

自分なんてあってないようなもので、ないようでちゃんとそこにあるものだったりするから、その心の声に耳を傾けてみる時間てのはすんごく大事。


地元帰ってきた翌日に、市役所行って住所変更なんかやってる時に知り合いからある人の訃報を知らされて、結構ショックで1週間ぐらいぐらぐらと引きずってたんだけど、ある夜1時頃パッと目が覚めて、その瞬間にある言葉が降ってきて、それをすぐさまメモって。マジで宗教にめちゃくちゃ傾倒してるとかまったくないんだけど、まさしく降って湧いてきた感があった。

土の声を聞け
(Listento the voice of the soil.)
風の声を聞け
(Listen to the voice of the wind.)
心の声を聞け
(Listen to the voice of the heart.)
そこにすべての答えがある
(All the answers are there.)

それこそ心の声が聞こえてきた瞬間だった。
すっごく落ち込んだ時とかある大きな場面に直面した時だったりに曲が生まれることがわりと多くて、それはもしかしたら心の声なのかもしんない。

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