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難しい日々とインスタグラム

もうここ10年ほどずっとなのだが、Instagramを見るのをやめられない。毎日友人たちの投稿を見る。自分から話しかけることは殆どない。そして、不思議なことに今はもう会いたいとも遊びたいともあまり思わない。ご縁は大事だけれど、自分一人の時間だけを求めているような今日この頃。

旅行にも一人で行きたい。もう自分の日常や旅を投稿する気もない。正直とてもとても充実していて、昔の私だったら見せびらかしたいことばかりしているけれども、もう疲れてしまって。

誰とも会うための努力をする気力がまるでなくて、会うことや、その為の場をセッティングしたり、友人の誘いに顔を出すことを考えるだけで億劫で、しかし寂しさは感じている。だから連絡が来るととっても嬉しいけれど、電車に乗って、会いに行くのももう辛い。今まで全然大丈夫だったのに、友人が主催のイベントにも、人がたくさん来るだろうな、と思って行きたくないし、花火大会やお祭りも、もう行くことを考えるだけで苦しいのに、例年のように友人と予定がないのも悲しくないわけではなくて、その矛盾した感情の狭間にぼんやりと佇んでいる。

私はいつも旦那さんにしか行き先を告げずどこかへ一人で訪れては、ふらりと帰ってきて、その時に一人で行動できる有り難さをしみじみと感じる。家に帰れば旦那さんが変わらず存在することも、なんと有り難く、私は彼がいなければとっくに発狂していたかもしれないと考えるのである。いや、私は気を狂わせることはできず惨めに泥の底で苦しみ続けただけであろう。私が今こうしてぼんやりと安全と安定の中で思考を泳がせることができるのも、旦那さんの安定した存在が私に平穏を与えているからには間違いがない。

私のいる場所へ会いにきてくれる友人には感謝してもしきれない。連絡を取る手段は残しておきたいし、今までの全てに感謝をしているのに、時々友人たちの存在から距離を取りたい。Instagramを消してしまいたい。記憶から消し去りたい。むしろ自分が消えたいと、正直なところ思っていて、悲しみの水たまりにそっと沈み込んでいる。私はみんなのことが大好きなのに。

私が一人で旅をしたり、予定を詰め込んだりするのは、そういう寂しさや人生における無気力を紛らわせる為なのだと思う。自分の時間やペースが一番大事なのに、寂しがり屋だとこうして面倒なことになる。生きているのが楽しくない。生きている意味もわからないまま。みんな大好きで、私は家族にも仕事にも友人たちにもとてもとてもとても恵まれているのに、どうして辛いままなのだろう。死ぬまでこんな気持ちでいるのは嫌だ。情熱に出会いたい、何かに全力で打ち込みたい。命を賭けたい。生きる意味が欲しい。

両祖父母が入退院を繰り返していて、唯一祖父母に会いに行くことだけは、ほんの短い間でも、物理的に遠くてお金も時間もかかるのに、億劫には感じない。不安の中に生きている祖母を思うと心が痛む。どうしてこの世とは、もう少し心に優しくできていないのだろう。どうして私たちは不安や悲しみに敏感にできているのだろう。全てがぼんやりとしていて、何となく不安である。既に死んでいるのかもしれない心が動く瞬間を求めて、私はまた知らない場所に出向いたり、新しいことを始めようとする。


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