レオとは!〜人生を振り返って〜

転勤族の父の元

1995年10月24日(火)AM8時5分、インドネシア共和国の首都ジャカルタで生まれる。父は日本人、母は中国系インドネシア人でクリスチャンの家系である。

生後9ヶ月で初来日する。その後は、父の仕事の関係で茨城県神栖市、四国、静岡、茨城県水海道市(現つくばみらい市)、守谷市と引越しを繰り返した。

引越しの事を幼稚園の年中で初めて理解し、水海道市に引っ越してから、静岡のお友達とは会えないことがわかり大泣きしたを覚えています。

しかし、引っ越した初日に幼稚園の友達から当時流行っていたポケモンのメンコを貰って一緒に遊ぼうと言われ、休み時間がくればみんなでメンコをし、この時に初めて別れの辛さと出会いの嬉しさを知ったと思っています。

左から姉と私と祖父

みんなで遊びたかった小学校低学年

田舎道で片道3キロほど歩いて通ってました。

小学校1・2年生の頃、仲よかった友達はみんなゲームボーイアドバンスを持っており、当時発売されたポケットモンスタールビー・サファイアが大ブーム。私はゲームボーイアドバンス自体を持っていなく、友人のプレイを見るだけだったので羨ましい気持ちと自分が遊べない悔しい気持ちでみていたのを覚えています。

その結果、お年玉と貯金をはたいて、高いゲームアドバンスは買えなかったけど、ルビーのソフトだけを買って友達がやっていない時に本体だけを借りてやっていました。ゲームをプレイする時間がかなり限られているので、探索などはあまりせず最速最短でストーリーを攻略しており、この頃からそういう癖がついたのかなと思います。

その数ヶ月後に私は高熱を出して2〜3ヶ月病院を転々としながら入院したのですが、父親がやることもないだろうからと、サプライズでゲームボーイアドバンスを買ってきてくれたのがすごく嬉しく、ずっとポケモンをしていました。退院後にポケモン大会を使用と約束しており、みんな強くて同じポケモンしか使わんないのをわかっていたので、完璧に強いポケモンではなく、一芸に秀でていたりするマイナーポケモンの戦いを想像しながら育成していました。ただ1人で遊ぶのはやはり限界がありました。自分は周りの人とワイワイしながら遊ぶのが好きなのだと感じた入院生活でした。
小学校の先生から今月中に退院できれば運動会に参加している良いと言われ、その日に担当医に直談判をして退院し、無事運動会に参加しみんなと何かをやる楽しさ改めて感じました。

いじめられていた小学校高学年

小学校中学年で茨城県守谷市の小学校に転校した。
転校当初は近所の子とも仲良く、同じサッカークラブに入団し、3人常に一緒にいました。しかし、小学校5年生に上がったころからいじめに遭います。きっかけは何か今でもわかりません。学校に行っても無視されたり、他のみんなで遊ぶ約束をして、わざと聞こえるように「レオは誘うなよ!」と言われてました。

また母が外国人ということに関する悪口もいっぱい言われました。そのことが原因だ、自分は悪くないと、いじめの原因を外部に求め、自分も母に対して悪口を言いたくさん悲しませてしまいました。
母を泣かせてしまし「ごめんね。インドネシア帰るね。」と言わせてしまったこと、人生で一番後悔しています。今も当時のことを思い出し、スタバで執筆しながら涙目になってるので少し休憩する事にする。

学校を休むために腹痛を理由にすることが多かった。休んでは家で当時CMでもよく流れていたPCゲームのメープルストーリーを親がいない間だけやっていた。初めてのオンラインで人とコミュニケーションを取りながらゲームができたので限られた時間に熱中したのを覚えている。
年齢公表もないため、ギルドを作りチームを率いたりもした。
思えば人生で初めてリーダーシップをとり、チームのために動いた時だった。ちなみにこのPCゲームのおかげで自己流ブラインドタッチでタイピングが速くなった。笑

小学生サッカースクール時代

本格的に不登校になった中学1年生の1学期

いじめの主犯格2名と一緒の中学校に上がる事にはなったが、色々な小学校から新しい人が来るので心機一転頑張ろうと新しい友達を作っていきました。新しい友達とPSPのモンスターハンタ2nd Gを一緒にやるのは本当に楽しかった。ちなみにPSPも最初は持っていなく、友達とゲームをするためにお年玉を叩いて買った。しかし、その楽しさは1学期で終了することになる。

いじめの主犯格達が自分の仲良くなった友達を積極的に大人数での遊びに誘っていったのです。ある事ない事あっという間に噂として広まり、私は一切学校に行くことができなくなりました。
市の適応指導教室「はばたき」に通い日本の中学に復学することはありませんでした。
「はばたき」では、勉強はもちろんのことメンタルケアなどもしてもらった。また隣の市の適応指導教室の子たちと交流の機会でボウリングなどのレクリエーションも開催されていた。
ボウリング大会では隣の市の先生に「こんな元気なら学校通えそうだね!」と言われ、あって数分のお前に何がわかるんだ、という怒りと悲しみの感情が生まれたのを憶えている。

人生が変わったニュージランド留学

日本の中学生活を見た両親は本当に私のことをたくさん考えてくれました。日本の学校にこだわらず、夏休みを活用し、母の母国インドネシアの学校や、両親が共に留学経験のあったニュージーランドの学校を母と一緒に現地まで行って見にいきました。
結果的に秋からニュージーランドの学校、パーマストンノース・ボーイズ・ハイスクールに入学することになったのですが、ニュージランド国内でもトップ3に入る厳しい学校で地元民からは軍隊校と呼ばれている中高一貫校でした。世界各国から留学生が来ており、人種差別などはなく(もちろん極一部はいますが・・・・)自分の世界が大きく広がった気がしました。自分からこの学校に通いたいと母親に直訴し入学しました。
色々な選択肢を与えてくれた両親には本当に感謝しかありません。

中学の残り2年半をニュージランドで過ごしました。母は入学後数ヶ月は一緒にいましたが、ホームステイが始まると同時に日本に帰国しました。母が帰国した日の夜に、半年以上会えないという事実に涙を流し、いきなりホストファミリーを心配にさせました。

1年目のホストファザーは、当時背が低くヒョロヒョロだった私を見て、
成長期の為に3つのルールを課しました。
①夜20時には消灯し寝ること。
②庭にある大っきいトランポリンで積極的に遊ぶこと。
 (バスケやバレーをする人が背が高くなりやすいのと同じ理論かも?)
③好き嫌いせずいっぱい食べること。
その結果、日本に一時帰国の際には成田空港まで迎えに来てくれた両親の目の前に行くまで気付かれないほど縦にも横にもデカくなりました。

学校ではサッカーチームに入り、ストライカーから始まり左サイドバックを任されていた。そのチームの方針なのか、ニュージランドの国民性なのか、ポジションを超えた移動をすることはあまりなく、サイドバックとして上がってサポートすると、「助かったけどなんでここにいるんだ!?ここは俺のポジションだぞ!?下がれ!」と言われたのに対して、試合後にメリットを話したり、実際に成果を出し「ほら、こっちの方がいいだろ?」と徐々にチームの雰囲気を変えていき、英語が片言ながらも副キャプテンに任命された。

3年目のホームステイではホストファミリーが変わった。
そのホストファミリーでは学校は違ったがタイから留学してきた子もおり、仲良くなった。
その中でタイの子が言っていた「同じ地球でも生まれた場所によって人生が変わってくる、タイは今環境汚染がひどく街中を歩くのにもマスクが必須だが、日本は十何年も前にその問題が解決されてる。」という言葉が心に響いたのを覚えている。環境問題に興味を持ち始めた瞬間だった。

学校を病気以外で休むこともなくなった(もちろん仮病は0)。ニュージーランド生活を非常に楽しんでいたが、ニュージーランドで見た日本の映画やドラマのシーンで度々日本の高校生活のいわゆる青春が取り上げられており、その青春への憧れと日本の学校に再チャレンジしたいと思うようになり、自分も変わったし、ちゃんと学校に行くから!と日本の高校に受験する許可を両親から貰い見事合格した事により留学生活を終えた。

NZで中良かった仲良く韓国人、タイ人の人たちと

弓道と出会った高校生活

自宅より2駅とスクールバスで通える高校に入学し、ニュージランドでも続けていたサッカー部に入ろうと思っていた。しかし、その高校は全国優勝の経験があり、サッカー推薦で1学年100名越えの超強豪校であった。
入学時にはU-18日本代表もおり、結果的に数名プロを輩出し現在もJ1リーグに複数名いる。
その事実を知らずに入学した自分は一度練習には参加したものの、全てのレベル、基準、意識が高くこの中に入るのはガチでプロになろうとしている人たちに失礼だと感じ、サッカー部に入部することを辞めました。

部活には入りたいと思っていた為、運動部を中心にした。
弓道部に見学行った時に、竹林に囲まれた弓道場で弓を引く先輩方を見た時に、「サムライカッケー!!」と思いそれだけで入部を決意した。完璧に映画ラストサムライの影響である。

高校の弓道部では特に上手い部類でもなく、大会メンバーに選出されるかどうかの当落線上にいることが多かった。2年時には、メンバーに入りたい、当てたい(弓道では中てたいという、読みは同じ)と思い早気(はやけ)という一種のイップス病にかかってしまった。

早気は、自分が思ったよりも早く矢を放ってしまう病気であり的に当たることもあるが、安定はしなく特に試合だと当たらないことが多い病気のため、練習の成績は良くても師範が自分をメンバーに選ぶことは少なかった。
また顧問や先輩方からはリーダーシップがあるからと、次期部長と言われていたが徐々にメンバーから落ちるようになり不貞腐れ、部長となることはなかった。

弓道人生を変えた関東大会予選(高校生)

初めて悔し涙を流した関東大会の千葉県予選が2年生の途中にあった。
1個上の先輩方が引退し、エスカレーター方式で自分がメンバーになっただけなのに、早気でも当立ってるから!と治すことはせず、実力と勘違いし天狗になっていた。
5人1チーム、1人4本だけ弓を引ける短期決戦勝負であった。
5人中2人が4本全部当て、1人が3本、1人が1本、そして私が0本。
1本も当てれなかったのだ。チームは予選敗退、あと1本誰かが当てていれば、関東大会出場という結果だった。
先生、メンバー、後輩たち誰も私を責めなかったのが逆に辛かった。
ちょっと離れた茂みで大泣きしたのを覚えている。
普段から人一倍練習し、本大会でも全4本を当てていた副部長が声をかけてくれたが、責めることは一切せず一緒に涙を流してくれ「次の大会にむけてどうするか」ただその話をしてくれた。
こいつの為にも絶対に早気を治し、県以上の大会に連れて行く。
そう決意した瞬間だった。

その日からの弓道に対する姿勢は、文字通り人が変わったようだった。
約1年も続いた早気を1ヶ月で治し、メンバーに追いつけ追い越せで朝練も初め人一倍練習し本当に実力でメンバー入りを勝ち取って行った。
同じ目標に向かって、チームであれこれ考え取り組み練習していく。
それが素直に本当に楽しかった。今までは自分は部長じゃないから、役職がないからと何処か人頼みにしていたのだと感じた。

受験のために同期が揃うのは最後の大会が3年生に入ってすぐにあった。
今度の大会は3人1チーム、1人4本の大会。真ん中のポジションでメンバー入り。前が副部長、後ろを部長と最高で最強の構成だ。
結果的には部長と私は3本、副部長は1本という結果だった。あと1本チームで当てることができれば、ギリギリ翌週のトーナメント戦に出場できるという成績だ。
初めて副部長が涙を流しているのを見た。
彼は自分があと1本でも当てていればと、試合終わりのミーティングでも一目を気にせず泣いていた。あと1本なんてもちろん私にも言えたことであり、彼に救われた過去があった自分は「次の大会に向けてどうするか」を話題にあげた。
地区予選で優勝することはあったが、高校弓道最後の大会でも県以上の全国大会に出場することはできなかったが、部長、副部長、私は大学弓道でライバルとして再会することを約束し卒業した。

弓道に情熱を捧げた大学生活

話は少し高校生活に戻るが、大学で弓道を続けると決意していた自分は少しでも早く弓道の練習を再会するために、環境と国際のことについて学べる目当ての大学に英語での公募推薦があることを知り、得意の英語を武器に3年生の11月頃に合格し受験を終え、後輩に迷惑をかけない時間帯の朝に練習を再開した。

合格したあとは、Twitterの大学弓道部アカウントに連絡をとり、可能であれば稽古を見学したいと連絡をとり3月からは大学の練習に参加していた。
もちろん4月の入学式と同時に体育会弓道部に正式に入部した。

1年生の時の春の大会からメンバー入りを果たした。
結果、そこから引退する3年生までメンバーから外れたことはなかった。

1年生の時は黄金世代であった3個上の先輩方が引退した影響もあり、
前年に秋季リーグ戦において数十年ぶりに関東一部リーグに昇格した大学とは思えないほど弱かったし雰囲気・オーラもなかった。
稽古以外では、アニメやゲームの話などオタク気質な部員が多く、そんなことに興味がない私は先輩・同期関係なく内心イラついていた。
自分はこんなことする為に大学で弓道を続けているんじゃないと。
しかし大学で弓道をただ単に楽しみたいだけの部員も多く、自分側のメンタルの方が異端となってしまったのだ。
改善されることはなく、1年時の秋季リーグでは全敗し二部全勝チーム
と入れ替え戦をすることになった。

流石にこの時点でほとんどの人が「やばい!」と思い初め、雰囲気も少し改善されたがまさに時すでに遅し・・・・1本差で二部降格が決定した。
自分が卒業までに一部に復帰させる、そのために影響力のある主将になる。そう新たに目標を立てた。

主将になるのは3年時なので2年時に特に雰囲気を変える為に何ができるかを考えた結果、統制という1年生の指導係に自ら立候補し役職に就いた。
そこで意識していたのは、我々の最大の目標は一部復帰であるということを言い続けることだった。
自分の燃え盛る炎を部全体に広げていくイメージだ。
その炎で他人の導火線までも燃やしてしまい、火を消してしまうこともあった。しかしそれで良いと思っていた。やる気のない奴はいらないと切り捨てていった。
そんな中、事件は起きる。先輩の1人から成績だけは出す生意気な奴認定
され、私だけが個人で予選突破したとある大会終わりに調子に乗りやがってと部員の前で首を絞められらのだ。
その結果、私は半月の謹慎処分となり、暴力沙汰を起こしたと認定され先輩は除名処分となった。私がチームの気持ちを考えられていなかった結果だと感じているし、その先輩とうまくやればチームとしてもっと成績は出せた大会は多かったと思う。

もちろん後輩がついてきたいと思える先輩になるために、人一倍練習した。
稽古は長い時でも1人4本を5回分の計20本であったが、私は稽古後の自主練はもちろんのこと、稽古がない日にも1日100本を引いた。
単純計算で自主練をしない部員の5倍以上である。
その成果が初めて出たのは2年生のみの大会である京都の三十三間堂、成人大会である。女性が着物を着て弓を引く姿がニュースでも取り上げられるなど、お祭り要素がかなり高い大会であったが私は本気である。
その大会で個人全国7位タイの成績を収めた。
お祭りの大会だから意味がない、と言われても誇れる成績だと思っている。

単純な成績だけではない。武道において重要視される段位も取得した。
当時大学生で合格するのは1桁パーセントの時もあったが、四段を取得し
射形という弓を引く姿、所作なども人一倍意識していた。

独裁政治とも言われた主将時代

主将になると決意した通り、3年生時に主将になった。
主将の決め方は、1個上の先輩方が主将の決め方を出し従う方式だ。
現在の主将が次期主将を指名する年もあれば、師範に決めてもらう年もあるが、ここ数年続いていた同期で話し合って主将を決めるということに私たちもなった。
第一回目の同期会議で同期9名・満場一致で私が第51期、主将となることが決定した。自分の内なる炎が伝わったと勘違いした瞬間でもあった。

主将になって夏の全日本大会では、チームで全校8位タイを達成した。その大会では6人1チームだった。部活の雰囲気がガラっと変わったことから顧問・師範、黄金世代の3個上の先輩からリーダーシップを褒められ完全に有頂天だ。しかし、部員内の評価はそれとは全く違った。
自分の目標である秋季リーグ戦で一部に昇格されるをチームに共有していただけで、みんながその目標に足しいて100%コミットすると勘違いしていたのだ。自主練しないものは切り捨てる、やる気のないやつは帰れ、という態度を続けた結果、同期や後輩から「権力を振りかざすだけのクソ野郎」などとTwitterに悪口を書かれまくった。
それを見つけた次の稽古では、言いたいことあるなら直接言いやがれと本人を怒鳴ったりした。結果、「直接言ったて怒鳴るだけじゃん」とTwitterに書かれただけだった。
チームは完全に2つのグループに別れてしまった。昇格を目指す派と、楽しく弓道をやる派だ。

正直6人で、同じ目標に向かって考えて、行動していくのはものすごく楽しかった。もしメンバーが揃えられればそれでよかったのかもしれない。実際に全日本大会では6人を揃え全国8位タイとなった。その時は全部員で喜んだ。
しかし、秋季リーグ戦は4人1チームを2個作り1人20本の計160本中何本当てたかを競うレギュレーションであり、6人では最低でもあと2人。
途中の選手交代が認められていたため、4人のサブメンバーを用意しなければならない。

6人は圧倒的スタメン、残り2枠を争えるのも3名ほどと選手層は薄かった。6人中1人が調子を崩しても控えに選手交代として信用できる選手がいなかった。マネジメントの難しさを痛感した。
結果的に3勝1敗という成績となり、負けた試合では1本差で負け、弓道生活を終えた。思い返すと転機となる試合は全て1本差で負けており、本当に1本の価値が重い弓道生活であった。

厳しすぎる代の反動としてなのか、1個下はだいぶ緩くなったと顧問・2個下の後輩から聞いた。春の大会でも予選を突破することはなく、秋季リーグ戦の為に何度も復帰要請を監督から直接電話をもらった。
しかし、自ら炎を燃やし情熱を捧げ燃え尽きた弓道生活に戻るつもりはなく、悪口をTwitterに投稿する後輩の力になりたいとは思わず復帰を断った。
結果、秋季リーグ戦では4戦全敗、三部リーグ優勝大学との入れ替え
戦でなんとか勝ち二部リーグ残留という成績だったと2個下の後輩から聞いた。
顧問からは木川田が居れば・・・と何度も言われたが、Twitterでは今年の部活は楽しかったと前年を引き合いに出し、また悪口が書かれていた。

思い返せば本当に反省が多い主将時代だった。
飴と鞭の使い分けも出来ず、みんなが勝ちたいと思っていると勘違いしていた。小学生のころ親に勉強しろ!と言われたらやる気が逆に無くなっっていたし、ほっといたら練習する子、練習を楽しむことで上達していく子、それぞれに合わせてマネジメントをするべきでったということが反省点だ。
ただ敢えて言いたいことがある。
主将として反省点は死ぬほどあるが、後悔は1つもない。

関東大会で再開した高校弓道部同期(左から部長、私、副部長)

主将としては成績は出したが失敗という結果であったが、リーダーの役割をすることが多くなった。所属していた環境系のゼミでは、ゼミ長に推薦された。弓道に捧げたいと理由で断ったが、ゼミ長に就任した子が海外留学のため、3年時にいなくなってしまった。副ゼミ長でもなんでもなかったが、リーダーシップをとっていたため、教授からゼミ長と勘違いされ、色々な会議にも参加するなど信頼を得ていたと思う。

目指していたエネルギー業界に入った新卒

中学から環境問題に興味があり、大学では環境経済学を専攻した。
学んでいく内にエネルギーが環境に与える影響の大きさに気づき、卒論では日本のエネルギー自給率について執筆し、就職活動ではエネルギー業界に絞っていた。いくつかガス会社から内定をもらい関東の大手LPガス会社に就職した。

このガス会社への就職はいきなりギャップを感じることになる。
スーツを着ての営業を想像していたが、ガス会社は作業服を着ての訪販だけでなく、ガス機器の工事など、想像以上にブルーカラーな仕事だった。
営業スタイルも頭で考えるよりかは、とりあえず体力勝負。何軒回れるかの世界でした。
当時は都市ガス自由化2年目でまだまだ開拓の余地はあったため、新卒1ヶ月で営業所に埼玉北部の同期5人で集められ、そのままバン車で東京の大久保まで行き「じゃ、夜に迎えにくるから営業頑張って!」と置いていかれた。
教えてもらったのは申込書の書き方と、マンションは一番最初に最上階に行って、そこから階を降りながら営業する方が体力・精神的に楽だということだけだ。数件契約は取れたものの、自分が想像していた営業ではなく楽しいとは思えなかった。

唯一楽しかった電気の営業と転職

その中でも唯一楽しかったのが電気の営業だ。契約をうちに変えないかという営業で、大学の時に再生可能エネルギーを学んでいたため、自信を持って営業できた。執筆していて、なぜ電力業界に行かなかったのかと思う。

当時の営業所長はその強みを理解してくれ、そこを伸ばしていけるよう教育してくれた。結果1年目の冬に社内営業成績・電力部門2位(新人ではもちろん1位)という結果を出すことができた。所長には感謝しかない。

ただあくまでもガス会社であるため、電力10件の契約をとってもLPガス1件の契約の方が評価が高という事実があった。
そんな中、営業代行・アウトソーシングの会社ではあるけど、大手新電力会社に常駐ができ、特にLPガス会社の経験がある人を募集していると知り合いから紹介をいただき1年半で転職を決意した。

新電力会社での常駐と鬱病

募集通り新電力会社での常駐が開始し、LPガス会社と一緒に電気を売っていく代理店営業をはじめた。
関東で一番暴れていたLPガス会社出身で、ガスの国家資格も2つ「第二種販売主任者」「丙種ガス主任技術」を持っていたためか、かなりウケが良く全国区の大手ガス会社と代理店契約をし新電力会社内でも主力代理店まで育てあげ、かなり注目されていた。

しかし私はあくまでも営業代行の会社所属であり、小数の電力会社の先輩には成績を横取りされたりもした。どうせ成績はあんま影響しないしいいでしょ、や代理店契約終了されたら困るでしょ?も何回も言われ精神は疲弊していった。

在籍途中から営業代行の会社が識学を導入し、マネジメントされ方もだいぶ変わった。マネージャー職と一般職では見えている目線が違うからと基本的には方針について意見することさえも却下された。
またLPガスの代理店に対して多くのこと対応していたが、新電力会社との契約でそこは対応するな!と言われ、お客様のためにという営業ができなくなり、成績も落ちた。
成績が落ちたことで新電力会社側からも、所属していた営業代行会社からも怒られたが、やり方に意見することは相変わらず却下という状況に精神的にかなり疲弊してしまい鬱病診断を受けた。

毎日明日が来るのが怖く寝れず、休日は外に出るのも億劫になっていった。
診断者を持っていった結果、新電力会社からは即日常駐契約終了。鬱病の人の面談を見る義理はないという回答だ。そりゃそうだ。

医師や家族・友達、信頼できる先輩方には休職を進めれらたが、人がいないからという理由で常駐しなくてもいいテレアポ部隊に配属された。気力だけでなんとか1日100件の家電目標を達成していった。しかし目標を達成したことにより、なんだいけるじゃん!と判断され2週間で他のIT会社に常駐することが決定した。

回復していったIT会社常駐時代

IT会社への常駐することにより結果的に退職までの半年弱所属した。
マネージャーも当時外部からきたばかりの人に変わり、その人にとっては識学とか関係なく、意見をバンバン出すことを求められた。仮にその意見が未熟なものだとしても意見を出したことに評価してくださったりと導いてくれた。

私生活でも友人たちが外に連れ出してくれたり、趣味のコーヒーを楽しんだりと回復していった。
コーヒーに関しては、コーヒーソムリエの資格をとり、今や個人でコーヒー豆を焙煎するほど好きである。

鬱病が改善していくと同時に「電力業界で働きたい」という想いが沸々と湧きあがってきた。次は常駐ではなく、ちゃんと電力会社の所属として働くために転職活動を始めた。

電力会社に所属している現在

無事に転職活動も終了し、いくつか内定を貰った中で再生可能エネルギーの発電所を複数所有している商社系の新電力会社に転職した。

転職直後に電力市場の高騰があり、家庭用電力メニューの取り扱いストップがあったが、すぐに工場・ビル等の高圧メニューのチームに異動した。
電力市場の高騰は法人だけでなく、一般家庭でも政府が介入するほど多大なる影響があった為、記憶に新しい人も多いだろう。

市場高騰のため、各会社に値上げのお願いをしにいった。うちを潰す気か!と怒鳴られることも多かったが、電力業界に戻れたためすごく楽しかった。

高騰時は会社としても新規受付停止していたが、営業再開までに電力市場や制度を勉強していった。再開時には流行りである電力市場と連動するプランと当社のプランをじっくりと比較説明することに良り、戻ってきくださったり、紹介案件を頂いたりとチームの中でも獲得件数は上位3名に入った。

改めて感じる電力業界への想い

ここで話は少しだけ変わりますが、読者の皆様は生まれてから電気を使用しなかった日はありますでしょうか。
無人島で数日間暮らしたからある!と意見が出るかもしれませんが、果たして本当に電気使ってないでしょうか。着ている服は全部手編みですか?手編みだとしてその繊維を作る時に電気は使用してないですか?
現代生活では電気なしに生きていけないのです。

だからこそ改めて思います。
全ての産業を支える電気業界、その業界が生活を脅かすほどの影響を与えてはならないと。日本は現状化石燃料由来の電気がほとんどであり輸入に依存している。地球環境という点はもちろんのこと、世界情勢に変化が起これば一気に高騰なども起こり得るため、エネルギー自給率は上げ安定させることがマストだと。

私は日本のエネルギー自給率を上げるために活動してきます。

コーチングとの出会い

そんな電力業界に想いを持っていながらもなぜか100%コミットした活動ができないというジレンマがありました。
YouTubeのV LOG系で活動されている方々を見ては、やる気を出すがそれも長くは続かない。そんな中、コーチングの動画に出会いなんとなく見てみました。リーダーとして活動経験があるなか、このコーチングがあれば何か変わったかもという考えながら見てましたが、人生が劇的に変わるとはどうしても思えなかった。

そんな中、一般的に言われている伝統的なコーチングではなく、認知科学に基づいたコーチングというものがある事を知り、調べるうちにMindset社の動画に辿り着きコーチングを学ぶことを決意した。貯金はなく、借金である。決済時はめちゃくちゃ正直めちゃくちゃ怖かった。
彼女とデートに行く頻度は減るだろうし、友達と遊ぶ頻度は減る。
しかし、この選択を正解にしていくために、脳の構造を作り替え、仕事のゴール設定を変えていき周りの親しい人たちに良い影響を与えられるよう活動することをここで誓います。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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