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smashing! かのゆうやみのささやきは

佐久間鬼丸獣医師と喜多村千弦動物看護士が働く佐久間イヌネコ病院。そこで週1勤務をしている、大学付属動物病院の理学療法士・伊達雅宗。彼は佐久間の病院の経理担当である税理士・雲母春己の恋人だ。


佐久間イヌネコ病院から少し郊外にある、伊達の所有する平屋。今週も2人揃って滞在…のはずが、伊達のシフトが変則で帰りが読めないのだという。ほとんどソロで過ごさなければならない雲母はそれでも、この瀟洒な日本家屋に戻れたことを心から嬉しく思っていた。家中の戸を開けて風を通してやり、風呂を洗う。ついでに自分も軽く汗を流して、今日は龍ぽいステテコにしましょうか。せっかくですから。

「さ、日が落ちる前に色々と済ませてしまわないと」

この家は玄関以外は開けっ放しで、伊達は網戸も付けずすだれだけで過ごしている。初めてここに雲母を連れてきた時、ハルちゃんにホタルを見せたいんだ、伊達はそう言った。
川縁に群れを成し飛ぶ小さなホタルたちを見られた夜、伊達から指輪を贈られた。厳かな言葉とともに。ついこの間の出来事。それでも雲母はずっと昔から彼と共に歩いているような気がしている。そしていつも新しく驚きに満ちた気持ちで、毎日を彼と過ごしているのだ。

雲母は見えるはずのない「もの」が見える質で、ことこの夏の蒸し暑い時期、得意先の家を訪れたりすると、それらに遭遇してしまう事が少なくない。伊達の家に足を踏み入れた時、そういった気配は最初から感じられなかった。ただこの家、この土地全体に「何か」があるとすれば、もっと壮大なその存在に「観察」されているようにすら感じる。不思議な所ですね。雲母が呟く。

庭の野菜のキュウリやナス、最近トマトも増えた。トウモロコシは肥料をものすごく食うから大変。そう言って伊達は近所の方からのもらい物で満足しているようだ。新鮮な露地物のなんという力強さ。そこにも同じく大きな力を感じる。

周囲に高い建物の見あたらない、広々とした夕空。濡れ羽色の帳が落ち、動から静へと雰囲気が変わる。不意に水田の上を疾走する一陣の風が、庭先に立つ雲母を取り巻く。金縛り。そんな表現が一番近いのかも知れない。雲母は全く動けないまま、遠く暮れゆく空の雲をただ見つめていた。微かに聞こえる、言葉のようなものを追いながら。

疾く…疾く…
もて…はして 取ら…給へ…



「ハルちゃーん!」

途端、自由が利くようになった。全身に滲む冷たい汗。いつの間にか帰ってきていた伊達が、庭先に突っ立ったままでいた雲母に声を掛けたのだ。

「伊達…さん…」
「俺今日さ、焼いた穴子買ってきたん!丼にして食べよ?」

ほ、と息を吐き頷く。コレ食ったらすげえ元気なっちゃうから!雲母は賑やかな様子の伊達に笑顔を返すと、一緒に家の中へと入っていく。じっとりと汗に濡れた雲母の背を摩りながら、伊達は山並みの向こう側をふと見やる。その唇が小さく、何かを伝えるように微かに動いた。



駄目なんよ、これは。
ハルちゃんは、俺のなんだから。






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〈引用〉十訓抄 六
とくとくもておはして、取らせ給へ
(早く早く持っていらっしゃって、お渡しなさい)





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