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smashing! こいねがうおれと

佐久間鬼丸獣医師と喜多村千弦動物看護士が働く佐久間イヌネコ病院。そこで週1勤務をすることになった、大学付属動物病院の理学療法士・伊達雅宗。二人の先輩である。

もうすぐ週末。明日は佐久間の病院に勤務の日。きっと「彼」もやってくる筈。佐久間の病院の経理担当である税理士・雲母春己。今、雅宗は知り合ったばかりの彼への攻略に余念がない。
この俺がまだチューどまり。この俺が、だぜ? 一体誰に何を言ってるのかは不明だが、自他共に認めるくらい手が早く奔放な雅宗にとって、今回は信じられないスローペース。雅宗は雲母に会って初めて「おあずけ」を覚えたような気がする。早く何とかしたい何とかなりたい…したいん…。好きになったら当然のことだ。ただし、雲母は今までの人間とは何かが違う。強引に行くべきではない。雅宗の心の奥底、生命の危機レベルで反応してくるような部分があえて警鐘を鳴らしているのだった。きっとそこまでしないと俺はブレーキ効かないからねわかってる。
雅宗は、珍しく折れた。ていうか初めて「待つ」ということを選んだのだった。待つんだ。雲母のガードがゆるゆるになるであろう、その一瞬のいわば「幸運」な隙を。
そんな中、西の都の郊外に住む、弟の朝からメールが入った。

【兄ちゃん用があるます。来るとき寄ってくだしい。いそぎやけど】

ともくん、そういうのは急用て言って。あと送る前に見直そう。
雲母の件は一旦置いといて、明日の病院勤務予定を泣く泣く見送り、この弟の家を訪ねることにしたのだった。

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古の都の名を持つ、多くの神社仏閣や美しい多重塔が有名な街。その中心部からバスで1時間強。そこには伊達の弟・木国 朝が経営する果樹園がある。
郊外にありながら、ここは案外交通の便がいい。一時間に4本以上も中心部との往復バスが来る。バス停から歩いて15分程度、規模は小さいが珍しい種の果物が実を成す「もっこく果樹園」に着く。
平日ではあるが果樹園に併設されたマルシェには多くの客が訪れていた。人の波を抜けた売り場の裏手、そこで平積みの箱の側、ごそごそと品出しに集中する一人の若者。茶色の癖毛に優しげな垂れ目。一見バイト君風な、伊達の弟・木国 朝。

「ともくん俺が来たよ。お腹すいたー」
「ああ!電話くれたら迎え行ったのに!少し中で座っててなすぐ終わる」


雅宗は都心の祖母の元、伊達姓で暮らしていたが、朝は父方の姓である木国のまま、この静かな街で果樹園を手伝っていた。この「もっこく果樹園」は最近まで、二人の父・木国 真名が経営していたが、ある日「まなは世界を巡りたい」などと女優さんみたいなことを言い出し「もっこく果樹園」を次男の朝に任せて人生の気ままな旅に出てしまった。数日に一度届けられる謎の国からのポストカードで、朝は父の無事を知るのだ。壁に掛けられたコルクボードは色鮮やかなポストカードで飾られ、父から届いた最新のその一枚を彼がピンで留める。

「いまバリクパパン。どこなん。SNSやっとけみたいな」
「そう?俺はこんな風に手書きのほうが、なんや現実味あっていい思うわ」

朝の作ってくれた餅入りうどんを二人で啜る。やわらかめ。薄味でほうれん草と蒲鉾入ってて、九条葱がてんこ盛り。傍らに出された刻み柴漬けは自家製だ。ここの柴漬け絶対ワインに合う。事あるごとに思い出すこの柴漬け、雲母に食べさせたらきっと喜ぶだろうな、ずっとそんなことを考えていた。
事務所兼休憩所。この建物の窓からはマルシェや従業員の様子がよく見渡せる。遠くには低く山並みが連なり、レンゲの咲き始めた水田、芽吹き始めた畦道。穏やかで綺麗な景色だ。

「そんでともくん、俺なにしたらええ?」
「そう忘れるとこやった!父さんおらんから、役所持ってくやつ確認したいん、任してええかな」
「お、ぱぱっとやっちゃうか」

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マルシェから少し離れた母屋へ向かった。百年を超す古民家は見た目こそ重厚で美しいが、実際住む者にとってはかなり過酷だ。隙間風なんて常識、使い道の少ない納屋には狸が住み着くし、広々した居住空間は素敵だが天井の梁からムカデも落ちてくる。まあ湿気が籠もらんのは救いかな。朝はそう言いながら笑った。その中で事務作業に使っている部屋に、雅宗を案内する。

「これと、この帳簿やろ?あとは、この印鑑の…」
「すごいわ全部手書きて…ともくん全部書いてんの?」
「俺機械弱いねん。携帯もガラケーやて、ほら」

後々絶対絶対機械のほうが助かるのにぃ。ぶつぶつ言いながら雅宗は売上げ台帳の確認に取りかかる。顧客名簿と大体合ってりゃお役所も突っ込まないだろう大丈夫大丈夫いけるいける多分。この惨状見て改めて思う。税理士さん偉大。雲母ハルちゃん偉大。
朝に手渡された顧客名簿は無論手書き。よくある市販のノートの表紙にナンバーが大きく記してある。ここ数年はワイン用品種の葡萄が豊作で、少しばかりワインの発注が増えた。とはいってもほとんどが口コミや紹介なので、取引先は飲食店やお得意様個人が中心。
雅宗が何気なく開いた真新しいそのノート。そこには見覚えがあるどころか、ずっと自分の心の中を占めたままの名前。雅宗は二度見どころではなく何度も見直した。

【雲母 春己】

「…と、ともくん、ね、この人って」
「あ、父さんのときの、お得意さんから紹介された人。あの、なんてゆうたかな、お寺。住職さん?」
「お寺…それ、ひょっとして佐久間さん、いう?」
「佐久間…そうそう!。あ、その名簿の人な、雲母さん。かわいい苗字な。ウチのことワイナリー言うてくれる面白い人で」

雅宗は朝の腕を掴んで、ワインの倉庫へ連れてってくれ、そう頼んだ。早く目にしたかった。雲母の、ハルちゃんの所へと導いてくれるアイテムを。きっとこれが俺にとってのマスターキーになる。そう雅宗は確信した。

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「兄ちゃんさほんと火事場の馬鹿力いうんか…うん、まあ、ありがとな」
「恋愛絡み限定、て言いたいのわかる俺そういうとこある」

ほぼ一晩で全ての帳簿と書類のチェックを終わらせた雅宗は、朝の運転する軽トラに乗せてもらい、中心部の駅へと向かっていた。座席の脇に大事そうに置かれた一升瓶入りの数本のワイン、そして自家製の柴漬けと一緒に。
あの後、果樹園の管理するワイン倉庫で、雅宗は「特別な」ワインを目にすることができた。あのワインは厳選したうちの葡萄使ったナンバリング付のやつだから、ほんとのお得意様専用なんだ。朝が得意そうに言った。

「譲ってくれてありがと…いいのかな、返さんけど」
「いいよ俺らの分だし。そんかわりまた来て。例の雲母さんも」
「や…どうかなあ…」
「うわ…そんな兄ちゃん気持ち悪いて。でもな、雲母さんみたいなワイン好きがこれもろたら俺やったら即落ちや。まんま奴隷や」

奴隷か。そういうのもアリかもな。二人は笑いながら街の中心部まで車を走らせた。雅宗は朝と駅前で別れた後、新幹線のホームで携帯の連絡先をフリックする。目当ての名前を反芻しながら、数回のコールの後、ずっと会いたかった人の穏やかな声をようやく耳にする。

「…もしもし?伊達さん?」

ハルちゃんあのさ、ちょっと駅ついたら迎えに来て欲しいの… とても「お願い」してるとは思えないような、いつものふざけた感じそのままに。それでも雅宗は目を閉じ厳かに祈るように、雲母に「お願い」をした。

雲母に会えるまであと数時間。何か変われるだろうか。進めるだろうか。あとこれ持って行けるかな。本当に柄にもない甘酸っぱい想いとワイン数本と柴漬けを抱えたまま、雅宗は雲母会いたさにも頭を抱えるのだった。




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