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行間を読む。書かれていない言葉を読み、声にならない声を聞く

『真夜中の哲学講義』と題した密やかな真夜中のおしゃべり、対話のデザイナー、哲学者、医師、のお三方の知的で機知に富んだ鼎談を、ちょこっとだけ盗み聞きしているような、背徳的で刺激的な経験です。

この深夜の魅惑的な経験を、私なりに噛み砕いて消化する、その過程を私は文章に残したくて、こんな書簡を寄せる次第です。

私も一書き手として、明示的な表現と語らない言葉については、これまでもずいぶん思索を重ねてきました。さて、行間とは果たして何なのか。

私が書くときには、一義的には「行間」のマージンをごくごく狭くする努力をします。具体的には、より「シャープな」表現、狭義の具象性を目指すということです。これは、彼は「言った」と書いたときに、「言う」という言語表現の広義の客観ゆえに、意味に幅が出るところを、よりその場面と心情にそぐわしい狭義の語彙に当てはめる作業です。「抗弁した」なのか「説明した」なのか「つぶやいた」なのか「叫んだ」なのか「語りかけた」なのか。ある事象を表現するために、一般的で広い意味の単語を避けて、より限定された狭義の言葉を当てはめて、より正確な再現性を求める行為です。

ものを書くことは、言語で世界を表現し、読み手の中にそれを再構築させると言う試みです。まさに「イデア」を追い求める行為、洞窟の中で外界の世界をその影をもって表現し、その真理を再現しようとする果てしのない試みの連続に類似していると私は思います。そしてその対象は、形をもたない(神性やひとの感情などの)形而上的(メタフィジカル)なものへと広がるとき、言語は無限の可能性と、表現の揺れ幅のふたつを獲得するのだと私は思います。

後者、その表現の揺れ幅こそが、書き手の個性であり、行間であり、実存(個別的、偶発的な現実存在)なのです。

同じ世界の同じ事象を、例えば私とあなたで別個に言語表現を使って描写したとして、それを読む第三者の彼の中に再現される仮想現実は、(その表現がどんなに丁寧に注意深く行われたとしても)おそらくパラレル・ワールドなのです。その偶発的、個別的な世界の多層性と多様性を、そしてその中に普遍的に共通して存在する本質の「影」を、我々は愛しているから、文学が存在していると思うのです。

行間を読む行為というのは、その言語表現の振れ幅に潜む文脈を読み解き、別個にいくつも重なり存在するパラレル・ワールドを味わう行為でもあり、同時にその深部に存在する「本質」を見出すための探検なのではないでしょうか。

嶋津さん、タカーシーさん、ともこさん、楽しい思索のたねをありがとうございました。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。