見出し画像

夏の朝、なつめやしの緑の木陰で。

今朝、私に話しかけてくれたのは、なつめやしの木だった。

バクーの街の街路には、まばゆい緑をたたえた背の高い木々が並び、その優しい枝をさしかけて、行き交う人々の頭上に涼やかに木陰を作る。桑、無花果、柘榴、アーモンド、胡桃、オリーブ。その多彩な植生の類型に、ここがかつての絹の道の、オアシス都市だという史実を思い起こす。その太い体躯に耳をつけると、微かに水音がする。この乾いた灼熱の土地に、めいめいに息づいている小さな水脈。

画像1

私は時折、木と話をする。正確には、画像(イメージ)の感受なのだけれども、今日それが初めてこの土地で叶った。アゼルバイジャンに引っ越してきて、もう暫くで二年になろうという、夏の日。その木は、ごく赤く粒粒とした果実のたわわに実る房をひとつ携えた、まだ若い木だった。なつめやしは、100年とも、200年とも生きるという。この土地では稀少な存在だから、この庭の風致を豊かにするために、おそらくもっと南の西方の国々から運ばれてきたのだろう。

樹木と通じるには、時間がかかる。木々の声は小さくて、われわれの世界は雑音に満ちている。私は、幾日もその木の梢を見上げて過ごした。毎日の買い物の行き帰り、少し遠回りしては、掌だけその幹に触れてみたりして。語りかける、求める、声にのせて、心のなかで。しかしながらずっと返答はなかった、今朝までは。

画像2

木々とは、その土地の記憶の書庫だ。木が私たちに見せてくれるものは、その記憶の断片で、定点カメラのように、ある場所に据えられて記録された幾百乃至ないし幾千時間もの記録の集積の中から、その樹木が私たちのために選んでくれたものだ。

今朝、私は少し混乱していた。言葉が多すぎた。昨日、多く語り合い、多くを聞き、未だ昇華されない言葉と概念が、頭蓋骨の中にタールのようにこびり付いていた。多すぎる刺激に曝された思考は、暫し硬直する。それを、闇が見つけた。生々しく鮮烈でひたすらに残酷なその幻覚は、ひたひたと押し寄せてくる。私ははじめこそかぶりを振ってそれを振り払おうとしたものの徒労だった。たくさんの血が流れた。もうどこまでが誰ものかもかわからぬほどに。

木が、歌っていた。

画像3

それは、赤ん坊たちだった。ベビーカーに載せられて、裸の足をゆらゆらと揺らしている。うららかな春で、隣に立つマグノリアの木が、白い炎のように咲いていた。また別の赤ん坊がやってくる。よちよちと、乳母に手を引かれながら、道端の仔猫を指差してなにか言葉を放つ。また別の子ども。しゃぼん玉を吹いている。透明な空に、湧き上がるように浮かんで消えてゆく虹色の玉に、何度も何度も歓声を上げる。そのふくふくとした腕の先の、見覚えのある面差しに、私ははっとする。この赤ん坊たちの姿が皆、この庭で育ってきた同じコンパウンドに住む子どもたちの、未だもう少し幼い頃の姿だと気がつくまでに、暫しの時間を要した。確かに。あれはイルハム、隣がアリー、こちらはサラ、このちっちゃいのがアンナ。僅かに少し白く色が褪せたその景色は、この庭の木々の持つ記憶。

そして猫たち。この庭には、たくさんの猫たちが棲み着いていて、植栽の根元の程よい木陰に仔猫を産む。まだ目の開かないピンク色の塊みたいな仔猫たちを、母猫が丁寧に舐めている。たんぽぽの綿毛、ちっちゃな縞の兄弟がじゃれて、一斉にその種子を空に放つ。うごめく生命の、瑞々しくひかりを浴びたその姿を、緑の静的な生命がまた、祝福している。生まれ出るという恩寵が、空気に満ちていた。それは、いつか無下に奪われるのだとしても、生命はうつくしい、私の木はそう歌っていた。

私は木の幹に耳をつける。そこには穏やかな無音の静寂があった。声にはならない、なつめやしの木の、豊かな歌声。

今朝、そんな夢を見た。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。