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行先表示のないバスに乗っていた、あの日々のこと

ある朝、戦争は始まった。

いつのまにか、市内を走るバスの行き先表示が、(今ならこの国のどこでも目にする)この戦争の国威発揚スローガンにとって代えられていた。私はそれを痺れた頭でぼんやりと眺め、それから目的の番号を確認してその赤い車体に乗り込んだ。砲撃が始まって、13日めの朝。

9月末の日曜日早朝、長年の係争の土地で戦争が始まった。各種メディアでは前線の様子が盛んに報じられているけれども、戦場は、実感として遠い。なので、この居所で、街角で(それは巨大だ)、スクリーンに映し出される戦車を無人機で砲撃する場面は、どこか余所事のように見えた。朝のうちにSNSへのアクセスが遮断され、日に何度かぷつりとインターネットの接続が消えるようになる。これは政府の情報統制と推測するけれど、そのことについて人々が多くを語りあうことはない。VPNを経由する方法等の「現実的な」対応方法だけが、生活の知恵として共有される。

それでも。次第に戦火が国境の村々から広がって、地方の第二の都市ゲンジェに砲弾が降るようになると、戦争という言葉がざらりとした肌触りを伴って迫ってくる。この数日、友人の親類や、出張に行った同僚といった「身近な」情報源から、瓦礫になったビルの残骸や、燃え残った車の骸骨の写真が拡散されてくるようになった。10月4日早朝、アブシェロン半島内に着弾したとの報せ、首都からは100キロ程度の距離。

私は極力、友人や周りの人たちとの接点を密にするように努めた。外国からの駐在員や外交団の友達、アゼルバイジャン人の友人たち、そして、我が家に来てくれている掃除人さんや馴染みのタクシー運転手など、テレビや端末の画面に映る情報とともに、私は、人の声を聞きたかった。息子が予備役で招集されたとか同僚の弟が兵役に志願した、といった「顔の見える」ナレティブが蓄積するにつれ、あの映画のような砲撃の場面が、現実の手触りと匂いを獲得する。

戦争について、我々の語(れ)ること

「戦争が始まってから、仕事以外は外出しないことにしたの。」と言うアゼリの友人は、ため息が多くなった。彼/彼女らの多くは、(アクセス制限をかいくぐり)多様なSNSに積極的にこの戦争の意義を説き、破壊された民家の写真を掲載して、敵国の攻撃の不当性を訴え、同じハッシュタグを繰り返し増幅し拡散する。

そして、これはきっと国境の向こう側でも、同じことが続いているのだろう。そのことに、思いを馳せることができるということ。

「盲目的に拡散する前にまず、対話をしよう。」と別のアゼリの友人がフェイスブックで提起する。「同じスローガンの旗の下の、僕の思う正義と、きみの思う正義は、果たして同じなのかい?」そして、彼のその語りかけは戦意を鼓舞する大多数の書き込みに、早晩埋もれてしまった。

また、別のトルコの友人は「われわれ、同胞であるトルコ民族として」そう前置きして話し始める。「本当の、戦争はこれからだよ」クロアチアの友人はそう言って笑顔を作るけど、その目はぼんやりと遠くを見ていた。

満月の日、(日本とイタリアとインドネシアとシンガポールとエジプトとハンガリーの)友人と、庭でお月見をした。このコンパウンドの外国人駐在員もずいぶんと減った。今の私達にできるのは、可能な自己防衛手段を尽くしたあとは、粛々と日常を生きること。月見団子を食べ、月餅を切り分けて、中秋の名月を愛でる。私がここでパニックになっても、無駄に深刻に思いつめても、なんの意味もないのだ。友人たちと談笑し情報交換をし静かな気持ちを保って不安な夜をやり過ごす。そう努めること。私達が(意外にも)未だ平穏に暮らしているこの首都は、それでもやはり戦時下の国独特の緊張と興奮が包んでいて、それは私たちの精神の安寧を、静かに蝕んでゆく。

10月。

市街の至るところに、中心に月と星を配した青赤緑の国旗がはためいている。真紅のトルコの国旗を並列させて、連帯を表するひともある。軒先にも車のボンネットにもアパートのバルコニーにも広告看板にもありとあらゆる場所に、三色の国旗と、火器を手にした勇ましい兵士の姿や、あのスローガンが掲げられている。

「カラバフはアゼルバイジャン」

「殺し合うことは愚かだと思いますが。」日本人の友人がこう書いてよこした。

戦争は愚か、平和を祈っている、母国からの返信はいつもこんなトーンで締めくくられるのだけれど、私にはそれがわからない。家族や祖国を守るための流血することは、愚行なのか。ただただ、痛く、かなしい。それを避けるための政治ではないのか。外交ではないのか。祈っていても、平和は勝ち取れない。自然に訪れるものではない。対話に繋がる、代償は払われた。道は続く。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。