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勉強は、実存の証明。

「勉強しなさい」と言われたことがない子どもだった。

とはいえ、学校では全くノートを取らないし、自分の意に沿わない宿題(漢字の書き取りとか)はやらないし、忘れ物ばかりなので、先生たちには小言を言われたりもしたけれど、受験教育の点数至上主義のまっただ中だったのが幸いして、模擬試験の上位に名前が載るようになると「問題なし」と放っておいてくれるようになった。

日本の学校の勉強が、私にとって至極簡単だったのは、単に記憶力がよかったから。私は直観像記憶があるので、教科書をまるごと暗記するのは、なんの苦労もなかった。でも、記憶力は知性ではない。年号や単語の活用や公式を当てはめる問題はやすやすと解けるけれど、分析をしたり予測したり批判的に議論する能力はなかった。

とはいえ、地方の公立校だったので、環境はとてものんびりしていた。早熟な子どもだったので、同年代とは話が合わず、ゲームにも漫画にも全く興味がなかったので、私は有り余る時間をひたすら本を読んで過ごした。そして、あの頃の北海道の教育現場には、学生運動に血道を上げすぎて企業で就職を逃したリベラルなインテリ層が多くいて、そんな私にふんだんに上質な書物を与えてくれた。ラテン語を学習しながら聖書とシェイクスピアを比較するといった体系だった読書ではなかったにせよ、いかにも先生の好みそうな島崎藤村や夏目漱石、トルストイやヘミングウェイを読みながら、その合間に三島や谷崎、ドストエフスキーやカフカに浸った。『異邦人』を読んだあと不条理文学に傾倒したのが、社会思想や哲学への入り口だった。順序は多少間違っているにせよ、サルトルから実存主義の系譜を辿って、キルケゴールから近代哲学へ、カントやヘーゲルを読んでから、古代ギリシャへと帰った。

大学に入って始めて、知識とは単に道具だということに思い至った。何を作るのにどの道具をどうやって使うのか、それを吟味する能力が「ほんとうの知性」だった。概念的なことを、例示したり簡略化せずに複雑なまま、シュミレーションできる思考力。あるいは、現在進行系で社会の中で起こる具象の問題から、普遍的な理論を抽出する洞察力。そういうものを鍛える過程で、自らの考えを論理的に伝達する表現力。「勉強」とはそういう知性を磨くプロセスだった。そうして獲得する知性は、私にとっては自身の存在意義の根幹だ。それで(直接的には)飯が食えるわけでもないし、なにか賞をもらえるわけでもないし、何らかのかたちで社会の問題を解決できるわけでもない。

もし子ども(いないけど)に「なぜ勉強をするのか」と問われたら、なんて答えよう。ともちゃんの、まだ知り得ぬ新しい世界への梯子、というのは素敵だなあ。

私にとっては、自身の存在理由。デカルトが言うところの、「存在の証明」。或いは、De omnibus dubitandum 「一切を疑うべし」―たとえ世界の全てが虚偽であったとしても、その「疑う」主体としての自分の存在は、疑うことができない、とマルクス大兄も言っていて。方法論や知識は普遍ではないけれども、考える意識体としての私の実在は、その「考える」という行為において永遠なのです。

ティーンエイジャーって、意外とこういう話ちゃんと聞いてくれるんだぜ。

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