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学習成果を見出す問いを「状況的学習論」から考えるーレゴ®︎シリアスプレイ®︎でのワークにどう活かすか

 「学習」は膨大な研究と共に現在進行形の研究領域である。すでに一個人が、全ての研究を全て把握することが難しいのではないかと、軽い絶望感すら覚えるほどだ。ただ、それだけ研究が重ねられるということは、私たちにとってそれを理解することが非常に価値のあることということでもある。

 レゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークは、他のものと組み合わせて行われることもしばしばある。例えば、何かの話を聞いた後とか、何らかの映画をみた後とか、体験ゲームをした後とかに行われる。

 体験によって心の中に生じた変化をブロックで作品にしてから話をすると、自分が学んだこと、他の人が学んだことを明確にし、伝えやすい(参考記事)。作品にして作った本人も、講演や映画上映や体験ゲームなどを提供した人たちもその反応をより深く把握できるので、非常に喜ばれる。作品を見ていく中で、その場での「学習の成果」を見出せたという気持ちが生まれるからだろう。

「状況的学習論」を問いに活かす

 学習の研究のなかに、そのような状況で作品に見いだされる「学習の成果」は真の成果なのか、という考え方をする研究がある。

 「状況的学習論」はその代表で、学習はそれが起こる状況と不可分であるから映画を見たとき、体験ゲームをする中に限定され、他の状況で同じようにその学びが活きるかどうかは別の問題だという考え方をする。以下のジーン・レイヴの『日常生活の認知行動』はそのことを指摘した研究の一つである。

 この考え方をそのまま受け止めれば、まず、今回の学びとそれを持ち込む状況の関係を考察させることになる。講演や体験ゲームなどはその状況とは切り離されているので、後者を狙うが良いということになる。

 そうなると問いとしても、「あなたはこの体験から何を学びましたか」だけでなく、「この学びはこれからどのような場面で活かして行けそうですか」という問いも考えさせたほうがよいということになりそうだ(これを考えさせるためのワークの時間の制約もあるが)。

 また、「状況的学習論」研究においては、学びが行われる(または持ち込まれる先の)「状況」は何らかの社会的(他の人がそこに関わる)活動の中であると考えている。そしてそこに関わる人々は、お互いに体験を共有しながら、新たなツールを生み出したり、有用な知識を残していくとされる。場合によっては、人々の間で身分の違いが形成されており、その身分によってその知識に触れられるかどうかが決まっていたりする。そのような学びのプロセスを人々の集まりは「コミュニティ・オブ・プラクティス(実践共同体)」と呼ばれる。

 この考え方にしっかりと沿うならば、ある体験がもたらす学習成果や今後への影響を見出すには、学んだ人の普段の中で起こる他の人たちとのやりとりやツールへの反映などまで視野を広げていかねばならない。そこで学んだことを周りの人に話しても何の反応もなかったり、周りの人から行動の変化を押さえつけられてしまう(ことが予想できてしまい込む)場面も考慮して学習成果を見るということである。

 そうなると学習成果への問いは「あなたは普段からどの場所でどのように学び、そこに関わる人たちとお互いに学びを共有していますか」ということから入り、「今回の学びの成果はあなたの近くの人々へどのような影響を与えていきそうですか。あなたやあなたの周りで新たな取り組みは始まりますか。変化への抵抗は起きませんか。それらによってあなたに起きた変化は周りの人との間でどのように定着していくと考えられますか。」という問いに至ることになるだろう。

 学習につながる経験が生じた場面から、かなり遠くのことまで視野を広げていると感じるかもしれない。そのようなストレッチした学習成果の確認は無理なのだろうか。
 私は「状況的学習論」を考えれば、レゴ®︎シリアスプレイ®︎を使った振り返りにそれまで以上に大きな可能性を感じる。なぜなら、レゴ®︎シリアスプレイ®︎で作られる作品は、本質的にシステムであり(参考記事)、ある人を起点とした学習の発生と相互作用という観点は、まさにシステム的な観点だからである。

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