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息をするように本を読むこと

元々は1月の読書のことを振り返ろうと思ってこの文章を書き始めたのだけど、書いているうちに話が外れてきたので、そのまま思うままに書いてみる。わたしは「努力」や「仕掛け」がある程度あってはじめて読書が続けられるタイプの人間だという話。タイトルの、「息をするように本を読む」人でありたいと思いながら、なかなかそうならないな、という話。

これまで毎年毎年毎年毎年…、
「本を◯冊読む」とか「積読を減らす」とか、「読書記録を書く」とノートを付け出したりだとか、とにかくいろんな目標を掲げては、特に満足いく読書経験を積むことなく過ごしてきた。

仕事で本を読んでアウトプットする機会があり、それは着実にやってきているのだけど、個人的な読書については、育児や仕事を理由に、後回しにしてきた。

毎年何かしら読みはするのだけど、隙間時間にかなり間をあけて途切れ途切れに読むので内容はあまり頭に入らない。結局何か書き留めることもしないまま、何を読んだか、何が心に引っかかったか、ほとんど思い出せない。

自分のための読書って、特に誰に頼まれてやるものでも結果を求められるものでもないのに、どういうわけか「やるべきこと」みたいな立ち位置でいつもこちらをじわじわと急かしてくるような気がするから不思議。

「読書はするべき」みたいな、どこか自分以外の軸に寄りかかって知らぬ間に理想として掲げている「読書が習慣の私」みたいなものが頭のどこかにある気がする。

本来、本を読むってもっと自然で個人的なことだし、正解はないし、美味しいものを何の気なしに楽しむのと同じように、生活の中でただ楽しめばいいものなのに。

どういうわけか読書は、「音楽を聴く」とか「おいしいものを食べる」のような、肩に力を抜いた状態で好きだからやることの一つというよりも、「何かを学ぶ」とか「体を鍛える」みたいに、肩に少し力が入った状態でやることの部類に気づいたら入っている。


私の父親は、本を読むことが食べることや寝ること、風呂に入ることと同列に自然に動作に組み込まれている人間だ。

そういう人を見て、自分との違いを長年感じてきたのかもしれない。
私は少し努力したり、少し気合いを入れないと読書が習慣になりきらないんだよなぁ。この違いはなんだろうな、と。


ちょっと努力が必要なことだから、余計に「何かこの本から得なければ」と変なプレッシャーを感じてしまうこともあるし、何か一つでも学びたいと思うから、必要以上に気合いを入れてページをめくる自分もいる。ニワトリが先か、卵が先か、わからないけれど。


先日投稿した子どもの絵本の読み聞かせの話に出てきたように、読むことに見返りを求めすぎているのかもしれない。


まとまりがないけど、ぼんやりとそんなことを考えました。

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