コントロール欲の外側で、些細な奇跡の準備は進んでいる
寝ぼけた鼓膜に、蝉の声が波のように押し寄せる。
伸びをして、くしゃくしゃになったシーツの中に手足を泳がせた。体温が高いせいで、冬場は猫も人もぴったりくっついてくるから寝返りのひとつも打てない。その点、夏は身軽。ちょっと物足りないけど。
遮光カーテンの隙間から忍び込んでくる日差しを「日焼け止め塗るまで待って」と避けながら、ベッドから起き上がる。目覚ましより先に目が覚めるのはいつものことだ。
琺瑯引きの鍋に水をはって火にかけ、水を飲み、顔を洗い、スキンケアをする。たまに浮気もするけど、最近はずっとベネフィークを使っている。
日焼け止めを塗ってカーテンを開けた。暴力的な日差しから逃げるように台所へ駆け込み、沸いたお湯でお茶をいれる。
お茶は私のアムリタ。緑茶も紅茶も半発酵茶もハーブティーも大好き。
それに何より、飲み物のうつわを愛してやまない。グラスもゴブレットも、ティーカップもマグカップも、カフェオレボウルもティーポットも、汲み出し茶碗も急須も好き。
収納の関係でセーブをかけてはいるものの、うちにある食器の半分は飲み物のうつわだ。
ブラウンベティ型のティーポットにアッサムの茶葉とお湯を注いで蓋をする。
夏になったので、新しいティーカップを買った。ハリオの耐熱ガラス製カップアンドソーサー。熱い紅茶も、ガラス越しなら涼しげに見えるだろうと思って。
白い箱から華奢なカップを取り出して、貼ってあるシールを剥がす。
剥がそうとした。
そして二度見した。
バーコードと商品名の印字されたシールの片隅に、同じ書体で、
「すき」
と書かれている。
え。
えええ。
愛してやまないティーカップからの突然の告白に動揺しつつ、
「わ、私も好き」
と誠実に応えてしまった。
いやん。そんなまさか。
何かの間違いだろうとラベルをよくよく見る。けれど、どう見ても「すき」と書いてある。逆に愛の告白じゃなければ何を目的として「すき」と印字されているのか、大いに気になる。
ひとしきり照れたり困惑したのち、唐突なラブレターを剥がして冷蔵庫の扉に貼り、カップを洗った。
ブラウンベティとティーカップ、それにロルバーンのノートとペン立てにしているマグカップをテーブルに運ぶ。
朝のお茶は、考えすぎる私にとって、自分本来に戻る時間だ。今は手帳時間も兼ねているけど、本を読んだり、ぼーっとしたりするのも勿論好き。
カップに紅茶を注ぐ。淡い琥珀色が注ぐほどに濃く赤くなり、甘くて香ばしい湯気が立ちのぼる。ガラスの内側におさまる様は、まるで生まれたばかりの宝石みたいだ。
本当は、こうやって好きなものだけ見ていたい。味わっていたい。人生の一分一秒を、好きなもので埋め尽くしたい。
でも本当の本当は、怖いことも嫌いなことも楽しんでいいのかもしれない。ホラー映画やお化け屋敷や絶叫マシーンや、コーヒーの苦味や紅茶の渋味みたいに。
そしたら、ティーカップから「すき」と言われるような、斜め上の幸せが滑り込む余地が出来るような気がする。
小心者のコントロール欲の外側で、きっと今この瞬間も、些細な奇跡の準備は着々と進んでいる。
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