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ディズニー100周年の映画『ウィッシュ(WISH)』の感想と考察

ネタバレを含みます!
まだ一回しか見れていないので若干あやふやなところもあるかもしれません。また、見たその日に書いたものをほとんど手を加えず公開しているため、文章としては読みにくいかもしれません。ご了承ください。


既に多くの人が映像や音楽について触れていると思うので、ここでは軽く言及するに留める。
さすがディズニーの最新作なだけあり、光の使い方や色合いも最高で、音楽も悪役側の曲も含めて全ての曲が最高であった。また作中に過去作のイースターエッグがふんだんにちりばめられており、ちょっとしたディズニー好きとしてとても嬉しかった。

物語全体の流れ(軽くおさらい程度に)

まず物語全体の構造を軽く復習する。

  1. 導入部分:古い物語の本を開く感じでスタート。ロサス王国の建国の経緯が軽く説明される。過去に盗賊(?)に襲われ家族を失った国王は、守りたいものを守るために魔法を学び、妻と共にロサス王国を地中海に浮かぶ島に建国する。ロサス王国では以下のような社会構造が形成された。
    a. ロサス王国は万民を平等に扱い、受け入れる。
    b. 成人は国王に自分自身の”願い”を預ける(預けることでその願いを忘れる)。
    c. 国王は願いを安全に保管し、月に一回程度の頻度で選択的に誰かの願いを(魔法で)叶える。
    d. 国王は国を安定するように適切に運営する。

  2. 物語スタート:主人公(アーシャ)はお城で働く17歳。国王の弟子になる面接を受けた際に、”願い”のうち、国王が王国に害をなす可能性があると判断したものは採用されず、一方で明らかに王国によい影響を与えると考えたもの(作中では王国で一番のドレスを作ることが願いの女性など)を選択的に採用しているという事実を伝えられる。主人公の祖父のもっていた音楽で若者を喜ばせるというような願いも、どのような影響を若者に与えるかわからないから王国に悪影響になる可能性があると、絶対に叶えられない願いとして見られているということも知らされる。誰の願いでも叶えられるべきで、せめて願いは返してあげるべきと主張する主人公。そのことで国王と対立、祖父に伝えようとしたが、祖父としては絶対に叶わない願いを思い出したくないと拒絶される。

  3. 主人公は父の、”星に願いをかける”ことで自分の可能性を思い出す、という言葉を思い出して願いをかける。そこでスター(ゆるキャラみたいな見た目)が直接願いを叶えに舞い降りる。この舞い降りる際にとても心地よい光が島を包む。国王は安定した秩序に支障をきたす可能性からその原因を探ろうとする。ここからミュージカルの感じで進むが、大事なものは自分自身がもっているのだというようなことを(魔法にかけられてしゃべれるようになった)動物たちに言われる。最終的にスターを連れて城に忍び込み、祖父の願いを盗み出す主人公。

  4. 国王は呼びかけで、密告したものには願いを叶える一方で、先述の光の原因となったものの仲間は願いが叶えられなくなると宣言する。主人公の仲間であるが、既に数か月前に成人済みで願いを国王に預けてしまったサイモンは主人公の行いを密告する。そのことで主人公、祖父、主人公の母は追われる身となる。なお母はその際に脅しとして預けた願いを壊されている。スターの助けや動物たちの助けを得てなんとか逃げ出す主人公ら。島の近くにある無人の島に母と祖父を届けると、主人公は”自分が始めたことだから”と全ての願いを解放するために島にもどる。

  5. 島では国王が無敵の力を手に入れるためにほか無実の国民3人の願いを壊して吸収し、さらにサイモンの密告で主人公のその仲間は追われる身となる。この時主人公は、現状維持に固執するあまり禁断の魔法に手を出す国王への恐怖を表していた王妃に、使者を出して味方となってもらう。追われる身となった仲間は願いの解放を担当し、主人公は単身で国王を森に引き付けるという作戦を実施。この作戦は途中まで成功し、王城の最上階から解放される願いたちまでは上手くいったものの、主人公を追っていた国王は洗脳されたサイモンで、国王は騙されず王城に残っていたという展開に。

  6. 国王はスターや他の願いを全て吸収し、全ての国民を支配しようとする。それでも自分自身で願うことを諦めない主人公。呼応する国民。全ての国民の声が国王の力を凌駕する。国王は禁断の魔法の代償で杖に封じられてしまう一方、国民達に願いが返る。王妃が新しく国王と認められ、物語は幕を閉じる。

主人公たちの振る舞いの意味

この作品の若者たち(主人公ら)は、前述のように、わがままを貫き通しているようにも見える。主人公は国王の背景を考慮せずに反発した。それがいいことだと信じて、祖父の願いを盗み返し、そして結果として母の願いを壊してしまった。主人公の友人らは、追われる身となったというところから国王を悪と見て、”革命だ”というような楽曲内の台詞まで登場する。この若者たちのあまり考えていないような、直感的で、旧来の仕組みや枠組みにとらわれず、むしろ積極的に変えていこうとする姿勢はディズニーの考える”若者”像なのだろう。実際に現実世界でもそのような若者は多くいる。社会に出てきたばかりの若者は、政治システムの複雑さなどを理解する前に、自分の前の前にある問題や不平等を変えようとする。社会の仕組み上難しいとしても、それを変えようと盲目的とも言えるくらいに積極的に動くものである。これは様々なところで描かれていて、国王という目上の人にも喧嘩腰で反論し、また主人公の友人らは王城の天井を開けて願いを解放する際、高台から滑車に繋がったロープをもったまま飛び降りて、その勢いで天井を開けている。ある意味では向こう見ずなところのある”若者”をディズニーはとても綺麗に描いている。
自分がはじめてこの作品の主題歌(日本語版)を聞いた時に、”どうして真実が私を苦しめるの?”という歌詞が妙に陰謀論のように聞こえて心配になった。しかしながら、ある意味では陰謀論のように単純な世界に対する解像度で、それでいて身近な何かを変えようとするというのは実際の若者にも見られるところだろう。実際のところ、それらの意欲ある若者を適切に導く大人がいるからこそ、それらの若者は陰謀論のような極端な方向に進まずにすむのである。つまり典型的な陰謀論者のように、三十路を過ぎて誰も導いてくれる人もおらず、いたとしてもその声に耳を貸そうとしないようなものとは全く状況が異なると言える。

国王

この作品自体が賛否両論ある映画であると視聴前から言われていたが、恐らくその最大の原因は国王の扱いだろう。国王自体は王国の秩序を守ろうという点に重点を置いており、その考え自体も単に悪として処理はできないというところが難しい。特に最後、国王と話し合いで体制を変えるでなく、また国王自体を救い出せそうな軽い伏線(王妃が”せめて禁断の魔法から解放する方法はないか?”と探すシーンがある。)があったものの、最後に閉じ込められた杖ごと国王は地下牢に送られてしまうという、可哀想なところもある。そもそもが王国の秩序を過度に守ろうとすることは、過去に家族を亡くしてしまった原因を取り除く、そのような思いは他の人にさせたくない、というところから来ている。そのため単純に自分の意見やわがままを貫き通すような形になった主人公よりも、国王に感情移入できる面も十二分にあったわけである。
国王の考えは理解できる点はあるものの、ディズニーは彼の考えに正当性を与えつつも最終的にはその考えが覆されるようにこの作品をつくった。彼の考え方は、願いをほとんど封じることで安定した社会の形成を目指すというものである。問題は、これは願いのもつ可能性を完全になくしているという点である。誰もが願う権利があって、もちろんその願いから課題が生じることはあるかもしれない。しかし願わないことにはそれ以上の変化や発展は望めない。作中には海洋の冒険を志す人物や登山家を志す人物の願いが登場した。これらは、本当に無実な願いの持つ”可能性”である。社会そのものを前進させる冒険があるかもしれないし、他の人にとてもよいインフルエンスを与える可能性もある。これを忘れさせて、それによって予測しにくい、社会にとってどう影響するかわからない行動を抑制するというやり方は、結局のところよくないことなのだとディズニーは示している。これまでディズニーキャラクター達は望むものを”願い”、そしてそれを叶えてきた。この”願い”がなければ物語は始まらない。
国王はさらに、若者たちの声に耳を傾けることをせず、むしろ真正面から怒って反論し、そしてそれまでの自分の行いに対しての感謝やリスペクトを国民に求める。彼の歴史的な経緯を考えれば国統治の際の主義主張は理解できるだろうが、問題はその劇中での行動にあるわけである。つまり、耳を貸さず変化を恐れ、雑な言い方にはなるが現実で言うなればいわゆる”老害”のようなものとも言える。もちろん、常に変わることが正解というわけではないことは明確にしておく。時には保守的に最適解を守るということも大事なのではあるが、しかしそれでも若者の声に耳を傾け、変化するしないは別としても、宥和的にあるべきというのは全く間違っていないはずである。

若者を見守る大人

この作品において、若者たちに理解を示す大人、という存在はとても重要である。この役割をはたしているのは、若干分かりにくいが王妃である。彼女は大人であり、体制の維持が重要であるという国王のことも理解している。その上で、変化させるべきという若者たちの意見を汲んで、願いを諦めないという方向に動いている。これは、単に若者に理解を示すというだけではない。王妃は、国王の攻撃が主人公の友人に当たろうとしたとき、その友人を押してよけさせている。最後のシーンでは”空を飛びたい”と願う若者2人を互いに引き合わせて、よき大人として願いを叶える手伝いをしている。この際に、若者たちの空想ではピーターパンがごとく空を飛んでいるが、女王(王妃)の手には紙飛行機があった。これは現実的な形へ願いを誘導してあげる、という大人像だろう。また先述したが、王妃は国王を元に戻す方法も模索していた。これらは単に若者に流される大人、というわけではない。自主的に若者たちの願いを叶えることをよき大人として見守る、という立ち位置はディズニーが大人たちに求める姿なのではないだろうか。国民は最後に、王妃を国王として選ぶ。満場一致の女王陛下万歳の声は、ある意味で大人たちが若者をどう導いて支えていくかということの表れでもある。前述のような役割をもつ王妃を、国民はリーダーとして選んだ。
ロサス王国の国民は、国王に願いを託して、その一方で平和で安定した社会を享受していた。しかし主人公の友人による国民集会での質問によって、願いが本当に安全に保管されているのか?という疑問が生じたことで急に糾弾を始める。これは無責任に、権利だけを主張する大人たちの図だろう。一方で最後に願いを取り戻すために一致団結する楽曲では、誰もが”to have something more for us than this”と社会全体の改善のためというところを含んで、願いを掲げていこうと宣言する。若者に手を貸してほしいと言われて、”we know it’s do or die”、”but we know what we’ve gotta do”と、自分たちで選択するんだ、”叶えてもらう”願いなのではなく、”自分で叶える”願いなんだ。そう高らかに歌うわけである。ここでは権利だけを主張しているのではない。ある意味で、誰かに叶えてもらうのを待つより困難だろうし、リスクも自分で背負うだろう。それでも自分たちで進むのだ、そう宣言している場面なのである。
ここまで考えると、まさにディズニー100週年に相応しい”ディズニーの考える願い”はこれなのだろうなというところがある。これまでのディズニーキャラクターはただじっと待って願いを叶えているわけではない。行動して、その結果の奇跡を享受しているわけである。その願いを叶える手助けをするのは、この作品の王妃をはじめ、ジーニやトリトン王、あるいは美女と野獣の父や食器たちのような”大人”なのである。ただ可能性を封じるのではなく、可能性を信じて、その着地点を見誤らないように大人が手助けをするという構図は、まさにディズニーの王道だろう。ディズニーは行動する女性だとか、あるいは人種の壁を超えるなどのように、改革を促す側という側面がある。だからこそ、この作品にある若者たちのように盲目的にでも進もうとするという立場と、それをうまく誘導して助けてくれる大人という構図を示したかったのだろう。

行動とリスク

行動には、リスクが伴なう。行動すると自分自身で責任をとらなければならないことも沢山ある。この作品ではそれも明確に描いていた。単なる”革命の物語”ではないのである。主人公は先走った行動をして、母の願いを壊された。その責任をとるために、逃げるのではなく自ら敵地に戻ったわけである。サイモンは願いを叶えてもらう代償に、友人らを失う可能性もあった。また国王自身も禁断の魔法で最後は封じられる。このうち、大人である国王は誰にも助けてもらえない。王妃ですら、国王の入った杖を地下牢に送るように命じている。一方でサイモンには許しが与えられる。友人らは彼を最後に許す。ここは若者と大人の違いでもあるだろう。大人が腹を切るときには誰も助けてはくれない。行動の責任をとるのは自分自身のことがほとんどだ。一方で経験の少ない若者は、謝罪をすることで許しを得られることもある。このこともディズニーは描きたかったのだろう。
この作品を市民革命と重ねて見るという見方がある。そう考えると、まさに市民革命の本質もここではなぞられているように思える。市民革命は市民の政治への参加の権利を与える。しかし一方で、そのような社会では国民は国の舵取りや社会のあり方の責任を負うのである。決して、与えられるだけの権利ではない。これは前述のような歌詞に含まれている部分である。ただ、ここの描写は実際のところかなり少ないし、わかりにくい。賛否を分ける要因になっているのだろう。もしも続編はあるのであれば、自由に”願い”過ぎたことによるトラブルをどう解決するか、といった側面でのアプローチがあると面白いかもしれない。

この作品の設定に関して

さて、若干話が変わってしまうが設定について。ロサス王国は地中海のどこかに位置し、そして万民を受け入れるとされている。誰もが平等で、そして人種を区別なく起用するというディズニーの近年のあり方を、この設定で矛盾なく導入している。とくに実写版のアリエルでそのあたりを大きく批判されていただけあり、このような設定に軽く導入部で触れることがとても上手である。今後も無理のない程度にうまくやってほしいところである。

終わりに

どの立場に感情移入するかで大きく評価の変わりそうな作品であった。ほかにも様々な考えの切り口がありそうで、王道な物語展開の割に、色々と考えさせられるところもあるよい作品であった。

最後に現実の若者に対して。主人公の行動には”願う”だけでなく、それによる責任もとり、願ったならばそれを最後まで実現するための努力を惜しまずに実施をするというところがある。大人たちはそれをフォローしてくれる。であればこそ、自分の信じることのために、安心して前に進んでよいのだろう。


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