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【大量試し読み】とにかく切ない和風ファンタジー「鬼人幻燈抄 葛野編」公開中!

「鬼人幻燈抄」(著:中西モトオ)は、江戸から平成まで、鬼と人の歴史を物語る和風ファンジー小説シリーズです。1巻発売時から大反響の本シリーズで、切なくも美しい物語にハートを撃ち抜かれた読者が続出中。気になって読みたかった方は、ぜひ下記試し読みを読んでみてください。読めば、きっとハマります!


鬼人幻燈抄 葛野編 カバー表1

『鬼人幻燈抄 葛野編 水泡の日々』(中西モトオ)
イラスト:Tamaki

【あらすじ】
江戸時代、山間の集落葛野には「いつきひめ」と呼ばれる巫女がいた。
よそ者な がら巫女の護衛役を務める青年・甚太は、討伐に赴いた森で、
遥か未来を語る不 思議な鬼に出会う――江戸から平成へ。刀を振るう意味を問い続けながら途方もない時間を旅する鬼人を描いた、和風ファンタジー巨編の第一巻。

では、以下、物語をお楽しみください!

序 みなわのひび

「行く所がないんなら、うちに来ないか?」
 降りしきる雨の中、男はそう言って手を差し出した。

 今も思い出す。
 五つの頃、父親の行いに耐えかねて、妹と一緒に江戸を出た。
 父は妹を虐待していた。こんな家に居てはいけないと思った。
「雨……強くなってきたな」
「うん……」
 雨が降る。並んで歩く夜の街道。先は暗くて何も見えない。傘もなくて、ずぶ濡れになって。体は冷え切り、だんだんと重くなってきた。
「鈴音(すずね)、ごめんな。何もできなくて」
 赤茶がかった髪をした幼い妹──鈴音は物憂げに俯いている。
 この子の右目を覆った包帯。それを見ると嫌な気分になってしまう。
 俺は妹を父から守ってやれなかった。必死になって頑張ったのに、結局、家族という形を失くしてしまったのだ。辛くて、悔しくて。妹の右目の包帯に、自分の無力を見せつけられたような気がした。
「ううん。にいちゃんがいてくれるなら、それでいいの」
 どちらからともなく伸ばされた手。
 固く繋がれた掌の柔らかさに胸が温かくなる。
 そうして鈴音はゆっくりと、本当に幸せそうな笑みを浮かべた。守るべきものを守れない無様な自分。雨に濡れながらも頬を緩ませる妹。その表情に俺は何を思ったのだろう。いろんな感情が混ざり合って、うまく言葉になってくれない。ただ、鈴音の無邪気な笑顔に救われた。
 だから願った。
 この娘が何者だとしても、最後まで兄でありたいと。
 でも、俺は子供で、家を出ても当てなんかなくて。取り敢えず江戸を離れたけれど、どうすればいいのか分からないまま街道で途方に暮れていた。
 雨が強くなった。前も見えないくらいだ。
 だけど、どこにも行けない。帰るところなんてもうない。
 きっと、俺達はこのまま死んでしまうんだろうな。そんなことを考えていた時に出会ったのが、三度笠を被りだらしなく着物を着崩した、二十半ばくらいの男だった。そいつは俺達が家出してきたと知るや否や、いきなり「うちに来ないか」と言い出した。
 ほとんど話もしていない相手だ、信用できる訳がない。鈴音を背に隠し、精一杯睨み付けたけれど、男は飄々とそれを受け流す。
「そう睨むな。怪しい奴だが悪い奴じゃないぞ、俺は」
 腰には刀を差している。「武士なのか」と問えば「巫女守(みこもり)だ」と誇らしげに答えた。
 意味は分からなかったけれど、あまりにも晴れやかな言い方だったから、きっと素晴らしいことなのだろうと子供心に思った。
「どうする? このままここに居ても野垂れ死ぬのが落ちだろう。なら俺に騙されてみるのも手じゃないか?」
 この男の言うことは正論だ。後先考えず家を出たけど、俺達が二人だけで生きていくなんて出来ない。情けないけれど、そんなの自分が一番よく分かっていた。
「にいちゃん……」
 鈴音が怯えるように着物の裾を掴む。左目が不安で揺れている。
 妹は父に虐待をされていたから、大人の男が怖いのだろう。でも、俺達は所詮子供。誰かに頼らないと、ただ生きることさえ出来ない。
「鈴音、行こう。大丈夫……俺も一緒だから」
 結局、選択肢などない。生きるためには男の手を取るしかないのだ。
 こちらの内心を知ってか知らずか、男は呆れたように、けれど優しく眺めている。
 差し出された手を握る。潰れた豆の上に豆を作った硬い掌だった。
「俺は元治(もとはる)だ。坊主、名前は」
 硬い掌は、きっとこの人がそれだけ努力を重ねてきた証。店を営んでいた父の手が、いつもぼろぼろだったのを覚えている。
 だからだろう。武骨な感触に、この人は信じていいのだと思えた。
「……甚太(じんた)」
「いくつになる」
「五つ」
「ほう、五つにしちゃしっかりしてら。そっちは妹か」
「鈴音。俺の一つ下」
「そうかぁ。いや、俺には娘がいてな。ちょうど、お前の妹と同い年だ。仲良くしてやってくれ」
 男───元治さんに手を引かれた俺が、鈴音の手を引く。傍から見れば奇妙に見えるだろう道中を、元治さんがからからと笑う。
 俺達は誘われるがままに彼の住む集落へと向かった。
 ごつごつとした掌が、鈴音の小さな手と同じくらい優しく感じられた夜だった。

「着いたぞ、ここが葛野(かどの)だ」
 街道を延々と歩き、山に入り草木を踏み分けて、元治さんが住むという山間の集落に辿り着いた時には、江戸を離れてからひと月以上経っていた。
 うちに来ないか、なんて軽く誘うような距離じゃない。旅路では何度も野宿をする羽目になった。しかも山道の途中で日が暮れ、あの夜みたいに雨まで降り出して、俺はすっかり疲れ切っていた。鈴音は別に普通の顔をしていて、それがちょっと悔しかった。
 雨に視界を遮られたまま辺りを見回す。近くには川が流れていて、集落の奥は深い森が広がっている。妙に建物が乱立していてごみごみとした区域と、逆に民家がまばらに建っている区域があって、なんとなく乱雑な印象を受けた。自分が江戸以外の場所を知らないせいかもしれないが、奇妙なところというのが正直な感想だった。
「なんか変なとこ……」
 鈴音も同じような感想だったらしく、辺りをきょろきょろ見回している。
「変なとこねぇ。ま、そうだろな。葛野は踏鞴場(たたらば)だ。江戸と違って大した娯楽もない」
「たたらば?」
「鉄を造る場所のことだ。そういうのは追々教えるさ。付いてきな、こっちだ」
 案内されたのは、屋敷というほどではないが周りと比べれば十分立派な木造の家。ここが元治さんの自宅らしい。
「さ、入れ」
 促され、後を追って玄関へ足を踏み入れる。
 すると家の中から小走りで、小さな女の子が姿を現した。
「お父さん、お帰りなさい!」
 第一声の大きさに驚いて鈴音の態度が少し強張る。
 庇うように一歩前へ出たが、警戒はあまり意味がなかった。女の子はどうやら元治さんの娘らしく、父親の姿を見た瞬間、勢いよく飛び出しそのまま抱き着いた。
「おう、ただいま白雪(しらゆき)。いい子にしてたか」
「もちろん」
「そうかそうか」
 鈴音よりも少し小さな、色の白い少女。父親に頭を撫でられて、口元が心地よさに緩んでいる。元治さんの方も目尻が下がっていて、傍から見ても仲睦まじい親子だ。
「ぅ……」
 その光景の眩しさに鈴音は俯く。
 仲の良い父娘。この子の手に入れられなかったものが、ここにはあった。
 悲しそうに、寂しそうに、瞳は潤んで。だから俺は、小さな手を強く握り締めた。
「にいちゃん……?」
「大丈夫」
 何が大丈夫なのか、自分で言っていて分からない。
 でも、握った手は離さなかった。
「大丈夫だから」
「……うん、大丈夫」
 安らいだ声。握り返す掌。柔らかな熱。くすぐったくなるような感覚に、二人して小さく笑い合う。
「あれ?」
 ひとしきり元治さんと話したところで、少女はようやく俺達に気付いたようだ。こちらを向いて不思議そうにしている。
「あの子たち、だれ?」
「道で拾った」
 事実ではある。でも、元治さんの返答は簡潔過ぎて逆に分かり難かった。
 少女も同じように感じたようで、しきりに首を傾げている。
「今日から一緒に暮らすことになる」
 唐突すぎる発言に少女は面食らっていた。
 それはそうだ。いきなり見知らぬ相手と一緒に暮らせと言われて戸惑うなという方が無理だし、普通は嫌がるはずだ。
「ここで、暮らす?」
「ああ、こいつらをうちで引き取ろうと思う。いいか?」
「……うんっ!」
 嫌がるはず、そう思っていた。なのに少女はむしろご機嫌だ。
 正直に言えば、俺の方こそ戸惑っている。元治さんといい、この子といい、何故俺達を受け入れようとするのかが分からない。
「あ、あの」
 戸惑い口ごもる俺の前に少女がてとてと歩いてきて、顔を近付けて真っ直ぐに目を見る。
「私の名前は白雪。あなたは?」
「じ、甚太……」
 同年代の可愛らしい女の子。息のかかりそうな距離が妙に気恥ずかしい。きっと、顔が赤くなっていることだろう。
 鈴音が俺の腕にしがみ付く。人見知りの激しい妹のことだ。白雪の態度に気後れしているのだろう。怯えるような震えが掌から伝わった。
「こんばんは。あなたのお名前も教えて欲しいな」
「……鈴音」
 ぽつりと一言だけ。ちゃんとあいさつは出来ていないけれど、白雪はにこにこしている。
 嘘みたいだけど、彼女は俺達を歓迎してくれているのだ。
「これからよろしくね」
 差し出された手。やはり父娘は似るものなのか。その姿が雨の中で手を差し伸べてくれた元治さんに重なって、俺は少し吹き出した。
「どうしたの?」
「ははっ、ごめん、何でもないんだ。よろしく。白、雪……ちゃん……」
 たどたどしく名を呼ぶと少女は微かに頬を緩め、首を横に振って否定する。
「ちゃんはいらないよ。だって……」
 そして白雪は、小さな子供には似合わないくらい優しく目を細めた。
「私達、これから家族になるんだから」
 多分俺は、その笑顔に見惚れていた。

 それが最初。
 家族になると言ってくれたのが、どうしようもなく嬉しかった。
 あの出会いにどれだけ救われたか、彼女はきっと知らないだろう。
 今も思い出す懐かしい景色。
 いつか、二人の少女の笑顔に救われた。
 何もかもを失って、小さなものを手に入れた、遠い雨の夜のこと。
 こうして俺達は元治さんの家で暮らすようになった。
 なんでも彼の奥さん……夜風さんは葛野の「おえらいさん」らしく、集落の長に俺達が葛野で生活できるよう取り計らってくれたらしい。
 夜風さんにはすごく感謝してる。まあ、会ったことはほとんどないけれど。
 何故一緒に住んでいないのか元治さんに質問すると、決まって「あいつは仕事で社に住んでいる」と苦笑いしたものだ。もう少し聞きたかったが、白雪が悲しそうな顔をするからそれ以上は止めておいた。
 ともかく江戸を離れた俺達は、葛野で新しい生活を始めた。
 最初はおどおどしていた鈴音だが、三年も経てばさすがに慣れてきたようで、今では俺や白雪以外と一緒に遊んでいることもある。ちとせという、四歳か五歳くらいの女の子だ。鈴音はもう七歳になるけど見た目は幼いから、二人でいても全く違和感がなかった。
 そして俺はというと──
「くそっ」
「かっかっ、振り回すだけじゃ当たらねえぞ」
 がむしゃらに木刀を振るうが、元治さんは小さな動きでそれをいなしていく。
「甚太、がんばれっ」
 白雪は楽しそうに俺と元治さんの打ち合いを観戦している。
 いつも通り。ここで暮らすようになってから、毎日のように見られる光景だった。
 俺は葛野に来てから、元治さんに剣の稽古をつけてもらっていた。
 雨の夜、何もできなかった自分がいた。
 雨の夜、大切なものを手に入れた。
 いざという時に鈴音を、そして白雪を守ってやれる男になりたいと思った。
 我ながら子供じみた発想だ。だけど、元治さんは馬鹿になんかしなかった。それどころか毎朝、相手をしてくれている。
「ほら、しっかり!」
 白雪がはやし立てる。朝早いので鈴音はまだ寝ているが、白雪は毎日、この稽古を応援してくれていた。
 稽古とはいえ格好悪いところは見せたくない。気合いを入れて打ち込んでいくが、元治さんは全然余裕を崩さない。
 横薙ぎ、弾かれる。突き、体を捌く。袈裟懸け、半歩下がって避けられた。
「おう、中々鋭くなってきた」
 踏み込んで、渾身の振り下ろし。
 しかし、その一撃は木刀で簡単に弾かれ、
「だが振りが大きい」
「ぎゃっ!」
 返す刀で頭を叩かれる。手加減はしてくれたのだろうが、結構な衝撃が走った。
 普通に痛い。木刀を落とし、殴られたところに手を当てる。触った感じ、しっかりこぶになっていた。
 この通り、気合いを入れても結果は同じ。今日も、俺は敗戦の記録を更新したのだった。
「ふふ、残念だったね」
 白雪が微笑みながら近付いてきたので、とっさに落とした木刀を拾い上げて顔を背けた。いいところを見せようと気合いを入れたくせに、いとも簡単にやられたのが何となく気恥ずかしかった。
「やめろよ」
「いいからいいから」
 仏頂面で座り込む俺の頭を撫でる小さな手。こっちの考えなんてお見通しらしい。白雪は俺が強がっているのを見透かして、やっぱりにこにこしている。
「平気だよ、お姉ちゃんが慰めてあげるからね」
「何がお姉ちゃんだよ。俺より年下の癖に」
「私の方がしっかりしてるから、お姉ちゃんなのっ」
 自信満々にそう言われても、どう返していいのか分からなかった。
 溜息を吐きながらも黙って撫でられる。気恥ずかしいのは変わらない。でも、悪くないと思った時点で自分の負けなんだろう。
「はっはっ、まだまだだな」
「元治さんが強すぎるんだよ」
「たりめぇだ。年季が違わぁな」
 そういう俺達を、元治さんはいかにも微笑ましいといった様子で見守っている。
 涙目で睨み付けても、木刀の峰で肩を叩きながら笑うだけ。普段の態度からは想像もつかないが、この人は葛野一の剣の使い手らしい。人は見かけによらないというやつである。
「そんな落ち込むな。ま、精進するこった」
「分かってるよ。……でもさ、俺、鍛錬を始めても全然変わらないし」
 強くなれない、ではなく変わらない。守れるように強くなりたいと願っても、現実には俺は何も変わらなくて。時々、自分は何をしているんだろうと考えてしまう。
 内心の不安を悟ったのか、元治さんは普段は見せないような優しさで窘める。
「いいか、甚太。変わらないものなんてない。自分じゃそんな風には思えねぇかもしれんが、お前だって少しずつ変わってるんだ。だから腐るな。お前は強くなれる。俺が保証してやらぁ」
「……うん」
 言われたからって何が変わる訳でもないし、やっぱり何かが変わったようには思えない。
 けれど、少しだけ心は軽くなった気がした。
「と、そろそろ仕事に行かにゃならん。悪いがここまでだ」
 元治さんが木刀を持ったまま背を向ける。稽古は元治さんが仕事に行くまでの間という約束。無理に引き留めちゃいけない。
「分かった。元治さん、今日もありがと」
「気にすんな。俺が好きでやってることだ」
「お父さん、いってらっしゃいっ」
「おーう、いい子にしてるんだぞ」
 振り返りもせず歩いていく元治さんは汗一つかいていない。俺程度じゃ、あの人を疲れさせることさえできないのだ。
 左手は知らず知らずのうちに木刀を強く握り締めていた。実力に差があるのは分かっているけど、やっぱり悔しいのには変わらない。
「なあ」
「なーに?」
「元治さんって何やってんの?」
 そう言えば、あの人は葛野……製鉄の集落に住んでいるが、他の男達に交じってたたら製鉄の作業をしているところなんて見たことがない。純粋に元治さんの仕事が何なのか気になった。
「いつきひめの巫女守だよ」
 出会った時にもそう言っていた。けどそれがどういう役割なのか、実はよく知らない。
「お母さんはいつきひめなの」
「お母さんって、夜風さん……だったっけ?」
「うん、そう。お母さんは『マヒルさま』の巫女様なんだ」
 一応、一度だけ御簾越しになら会ったことがある。葛野に住んでしばらく経ってから呼び出されて、ちょっとだけ話もした。なんか、優しくて、この集落をすごく大切にしてるんだなって感じの人。その時に「マヒルさまの巫女」の意味も少しだけ教えてもらったような。ただ、難しくてあんまりよく分かっていなかった。
 お母さんの話題に触れた白雪は、遠くを眺めている。視線の先は集落の北側、小高い丘に建てられた社の方だ。
「あの社にずっといるんだよな」
「……うん。いつきひめと直接会えるのは、集落の長と巫女守だけなの。『いつきひめはそのしんせいさを保つためにぞくじんと交わってはならない』んだって。お父さんは巫女守だから毎日会えるけど、私はもう何年も会ってないなぁ」
 あはは、と軽い調子で、けど寂しげに目を伏せる。
 ちょっとした仕種に、なんで白雪が俺達を受け入れてくれたのか、分かった気がした。
 この三年間、白雪は一度も母親と会っていない。きっと、俺がこの家に来る前も同じなのだろう。巫女守というものがどういうものかは分からないけど、父親は仕事で母親と毎日会うのに、自分だけが会えない。そんな日常に、白雪は仲間外れにされていると感じていたのかもしれない。そもそもまだ小さな女の子だ。母親に会えないことを寂しいと思わない訳がないのだ。
 だから、家族が欲しかった。
 今になって初めて知る、俺を救ってくれた彼女の弱さ。
「あの、さ。俺は一緒だからな」
「え?」
「俺は、ずっと一緒にいるから」
 俺がいるから寂しくない、とは言えなかった。母親と会えない彼女の寂しさを埋められる、なんて自惚れてはいない。でも、傍にいたいと思った。出来ることなんてないけれど、せめて一緒に悲しんでやりたかった。
「なにそれ」
「笑うなよ」
「だって」
 楽しそうな白雪に、顔が熱くなる。我ながら恥ずかしいことを言ってしまった。
 だけど撤回はしない。本音を嘘にするような真似は、もっと恥ずかしい。
「甚太」
 白雪が真っ直ぐに俺の目を見詰める。
 どきりと心臓が脈打つ。黒い透き通った瞳に心を見透かされたような気がした。
「ありがとね」
 儚げな彼女の佇まいは、揺らいで消えてしまいそうな淡い灯火のようだ。普段は活発な印象を抱かせる白雪の見せた頼りなさ。何か言わなくちゃ。誘われるように俺は彼女へ。
「なあ、白雪。俺……」
「にいちゃん?」
「うわっ!?」
 慰めの言葉は口に出来なかった。右目に包帯を巻いた、赤茶がかった髪をした少女。いつの間に起きてきたのか、気付いたら鈴音が隣にいた。
「す、鈴音」
「おはよー、にいちゃん」
 にっこりと朗らかに朝の挨拶。でも、こちらは心臓がばくばくと鳴っている。
 危なかった。危うく妹の前で恥ずかしい台詞を吐くところだった。
「どうしたの?」
 なんだか白雪がにまにまとしている。
 多分、何を言おうとしていたのか勘付いているのだろう。
「なんでもないっ!」
 照れ臭さから語気が荒くなる。
 毎回毎回、元治さんに負けている俺は、なんだかんだで白雪にも勝てないのだ。
「にいちゃん、どうしたんだろ?」
 俺がなんで怒った表情をしているのか分からないみたいで、妹は人差し指を自分の唇に当てて考え込んでいる。その様子がおかしかったらしく、白雪はますます笑った。
「いいからいいから。さ、まずはご飯食べて、その後はみんなで遊ぼ」
「ん、うん! 今日は何するの?」
「そうだなぁ、『いらずの森』へ探検とか」
 わやわやと会話する姿は、容姿は似ていないのに姉妹のようにも見える。
 それが嬉しいようで、少し寂しくもある。寂しいのはどちらのことを思ってだろうか。
「甚太もいいよね?」
「ちなみに無理って言ったら」
「え、連れてくよ?」
 端から俺の意見を聞く気はないらしい。まあ、いつものことだからいいけど。
 頷くと、示し合わせたように白雪たちは顔をほころばせた。
「じゃ、行こ?」
「いこー」
 二人が手を差し出す。
 俺を救ってくれた二つの笑顔、伸ばされた二つの手。木刀を持っているから片方しか取れなかった。
 だから、自然と一つの手を選ぶ。
 握り締めた掌は小さくて、あたたかくて。離さないように、でも壊してしまわぬようほんの少しだけ力を込める。
「ああ、行こうか」
 一緒になって笑って、三人で走る。
 いつもと何一つ変わらない、当たり前の朝だった。
 握った手のあたたかさを知っていた。いつか離れると知らずにいた。
 まだ俺が甚太で、彼女が白雪で、鈴音が鈴音だった頃の話である。

 ……今も、思い出す。
 幼い頃、俺は元治さんに剣の稽古をつけてもらっていた。あの人は強くて、最後まで一太刀も入れられなかった。それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも俺が負けて、その度に慰めてくれた。
 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日はなにをしようかなんて、いつも三人で走り回った。
 俺達は、確かに本当の家族だった。
 けれど目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に流れる。
 かつて当たり前にあったはずの日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。背は高くなり、声は低くなり。背負ったものが増えた分、無邪気に駆け回ることも出来なくなって。いつまでも子供のままではいられないと、いつしか「俺」は「私」になった。
 しかし、今も私は幼かった頃を、ぬるま湯に浸かるような幸福を、時折、本当に時折だが思い出す。
 そして、ほんの少しだけ考えるのだ。
 差し出された二つの手、木刀を持ったままでは片方しか握れない。
 だから何も考えずに選んだ。繋げる手は一つしかなかった。
 だが、もしもあの時に逆の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。
 あるいは、もう少し違った今があったのではないか。
 不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き、切って捨てる。
 選んだ道に後悔はあれど、今更生き方を曲げるなぞ認められぬ。
 ならばこそ夢想の答えに意味はなく、仮定はここで棄却される。
 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残り。

 ぱちんと。
 みなわのひびは、はじけてきえた。

鬼と人と

 風の薫る夜のことだった。
 春の終わり。舞い散る花弁で季節を彩ったかと思えば、芽吹く若葉で街道を翠に染め上げる。初夏の葉桜は、時に神秘ささえ醸し出す景物である。新緑が薄紅の花にとって代わり、ほのかに夏の気配を漂わせる夜。空は僅かながら重くなった。だというのに、青葉の隙間を抜ける風は春の名残かいやに冷たい。
 揺れる梢、流れる緑香、見上げれば星の天幕。心地よいはずの夜に寒気を感じたのは、風の冷たさのせいばかりではないだろう。今宵はどこか金属質で、触れる感触が硬く冷え切っている。
 そんな鉄製の夜に青年は佇む。江戸から続く街道の一里塚のひとつ。植えられた桜の木にもたれ掛かり、鋭い目付きで宵闇を睨み付けている。
 青年の名は甚太という。
 齢十八にして六尺近い巨躯。浅葱の着物の下には練磨を重ねた体。腰には鉄造りの鞘に収められた二尺六寸の刀を差し、まとう気配はそれこそ刃のようだ。
「もし」
 不意に呼び掛けられた。
 横目でちらりと見れば、そこには妙齢の女が。
「貴方様は葛野をご存知でしょうか」
 女はゆるりと笑う。
 年若い娘には似合わぬ、妖艶な、見る者を惑わす笑みだった。
「そこは私の住む集落だ」
 返すのは感情の乗らない、硬く冷たい金属の声音。
 しかし、女は安堵したように瞼を伏せる。
「ああ、やはり。もしよろしければ案内を頼みたいのですが」
「ほう。何か用向きでも?」
 問いながら一歩前へ出る。気付かれぬほどに緩慢な所作で、僅かに腰を落とし半身。左手は既に腰のものへと添えられている。
「ええ。葛野には嫁に出た妹がおりまして。挨拶に行こうと思っていたところなのです」
「……そうか」
 その一言を皮切りに甚太は動いた。
 右足で大きく踏み込む。女との距離が詰まる。両の足が地を噛む。淀みなく鯉口を切り抜刀、逆袈裟、僅かな躊躇も見せず女の体を斬り裂く。
「か……」
 口から空気が漏れ、鮮血が舞う。
 白刃が女の肢体を斬り裂いた。傍目には凶行に映るであろう一連の動作を終え、一切の動揺なく金属質の声のまま甚太は吐き捨てる。
「人に化けるのはいい。だが、肝心の瞳が赤いままだ……鬼よ」
 鬼と人を見分ける手段はいくつかあるが、もっとも単純なものが瞳の色である。鬼の瞳は総じて赤い。怪異としての格が高いものは人に化ければ目の色も隠せる。しかし、力を持たぬ鬼にとっては存外難しいらしく、人に化けても瞳だけが赤いまま残っていることも多い。
 つまり女は、人ならざるあやかしであった。
『き、さま』
 もはや形相は人のそれではなく、憎しみの籠った赤い目が甚太を捉える。
 女の体は隆起し、筋肉が異常に発達し、肌も青白く変化していく。鬼は元の姿に戻ろうとしているのだろう。
 それも遅い。
 残した左足を一気に引きつけ、さらに地を蹴る。掲げた刀を、絶殺の意を込め鬼の首へ。
 今度は、呻きすら上がらなかった。鬼は正体を見せることもできず、人と異形が混じり合った醜悪な姿を晒し地に伏せる。死骸からは白い煙が立ち昇る。いや、煙よりも蒸気の方が正しいか。消え往く鬼の体躯は溶ける氷だった。
 その光景に何かを感じることはない。ただ平静に鬼の最期を眺め、血払いに刀を振るい、ゆっくりと鞘に収める。
 ちんっ、とはばきの留まる軽い音が響く頃、鬼の死骸は完全に消え失せた。
 それを見届け、やはり何の感慨もないままに街道を歩き始める。
 葛野の集落までは、まだ少し距離があった。

 ────時は天保十一年(1840年)。
 洪水や冷害が相次ぎ、陸奥国や出羽国を中心として始まった大飢饉は、多数の死者を出すも冷害が治まったことにより取りあえずの終焉を迎えた。しかしながら日の本の民を長らく苦しめた年月、その間に荒んだ人心を癒すには少しばかり時が足らなかった。
 人心が乱れれば魔は跋扈するもの。
 鬼は時折人里へ姿を現し、戯れに人を誑かすようになっていた。

 江戸から百三十里ばかり離れた山間にある集落「葛野」。
 近隣を流れる戻川(もどりかわ)からは良質の砂鉄が採れるため、ここは古来よりたたら場として栄えていた。同時に葛野は高い鋳造技術を誇り、刀鍛冶においては「葛野の太刀は鬼をも断つ」と讃えられた、日の本有数の鉄師の集落である。
 集落の北側は高台になっており、川が氾濫しても被害が少ないことから、他の民家とは明らかに趣の違う朱塗りの社が建てられている。社には「いつきひめ」───葛野で信仰されている土着神に祈りを捧げる巫女が常在していた。
 葛野は産鉄によって成り立つ土地。鉄を打つに火は不可欠であり、自然と信仰の対象は火の神になる。この火を司る女神は「マヒルさま」と呼ばれ、火処(製鉄の炉)に消えることのない火を灯し、葛野に繁栄をもたらすと信じられていた。
 いつきひめはマヒルさまに祈りを捧げ、鉄を生み出す火を崇める巫女。即ち葛野において姫とは火女であった。火の神に畏敬を抱くのは産鉄民として至極当然の成り行きであり、日々の生活を支える鉄、その母たる火と通じ合う巫女の存在は、古い時代には神と同一視された。
 天保の時代ではそこまでの信仰はないが、それでもいつきひめは社に住み、俗人に姿を晒すことはない。火女は社から一歩も出ず、御簾の向こうに姿を隠し、ただ神聖なるものとして集落の中心にあり続けるのだ。
「甚太……此度も鬼切役、大儀でした」
 初夏だというのに、どこか寒々しく感じられる板張りの社殿。
 いつきひめは社殿の奥に掛けられた御簾の向こうに座している。
 板張りの間には集落の長、長の隣には若い男、そして鍛冶師の頭や鉄師の代表など集落の中でも権威を持つ数人の男が集まっていた。
 御簾越しに柔らかく語り掛けるのは当代のいつきひめ、白夜(びゃくや)である。御簾に隠れその顔を見ることはできないが、影は満足そうに頷いていた。
「は」
 鬼を斬り、その足で訪れた社。いつきひめや集落の長に結果を報告すれば、申し分ないと皆一様に甚太の働きを認める。
「悪鬼羅刹を前にしても決して退かぬ。貴方の献身、嬉しく思います」
「いえ、巫女守として為すべきを為したまでにございます」
 いつも通りの答えだ。いかな鬼を葬ったとしても、甚太の発言はさほど変わらない。謙遜とは違う。彼は心底、大したことではないと思っていた。甚太は産鉄の集落に住みながら製鉄には関わらない。彼は、この村で二人しかいない巫女守だった。
 巫女守とは文字通りいつきひめの守役──護衛である。本来、苗字帯刀は武士のみの特権だが、御料である葛野では巫女守に選ばれた者は帯刀が許され、いつきひめと御簾越しでなくとも話すことを認められた。
 また、巫女守には護衛以外に「鬼切役」が与えられる。古い時代、星や月の光だけが夜を照らしていた頃、怪異は現実的な脅威として存在していた。故に病気には医師がいるように、火事には火消しがいるように、怪異にもまた対処役というものが設けられた。鬼切役とは文字通り鬼を切る、つまり集落に仇なす怪異を払いのける役割である。
 いつきひめは葛野の繁栄のために祈りを捧げる巫女。それを守り集落に仇なす怪異を討つ巫女守は、取りも直さず葛野の守り人だった。
「まったく、我らが巫女守は謙虚でいかん。江戸にもぬし程の剣の使い手はおるまい、もっと誇ればいいじゃろうに」
 鍛冶師の頭は豪快に笑い飛ばす。巫女守の腕前を褒め称え、しかし返す甚太の顔は暗い。
「……私には葛野の民としての才がありませんので」
 巫女守の立場故に集落の主産業である産鉄や鍛冶には携わらない甚太だが、そもそも彼には職人としての才があまりにもなかった。
 幸いにして剣の腕が立ち、白夜の鶴の一声もあって今の地位についた。しかし、もしも巫女守になれなかったならば、おそらく集落のお荷物として生きることになっただろう。その様が簡単に想像できるからこそ、剣の腕を褒められても、どれだけ鬼を斬ろうとも、そこに価値を見出せないでいた。
 ───己に為せるはただ斬るのみ。葛野の同朋のように生み出す業を持たぬ。
 巫女守という役には無論誇りを持っている。だが、鍛冶や製鉄の業に憧れもあった。そのせいか、殺すしかできず何も生み出せない自分をどうしても低く見てしまう。それが甚太の根底にある劣等感だ。
「なぁに、甚太の使う刀はこっちで造ってやる」
「そうだ。儂らには鬼を斬る技はないが、鬼を斬る刀ならば打てる。お主には鬼を斬る刀は打てんが、鬼を斬る技がある。それでよかろうて」
 頭達の気遣いに甚太は素直な礼を述べ、深く頭を下げる。
 彼の深い感謝に嘘はなく、それが集落の男達の自尊心をくすぐった。
 巫女守は栄誉な役である。甚太自身が嫌うため集落の代表達が敬語で話すことはないが、本来、葛野における巫女守の権威は長やいつきひめに次いで高い。だから多くの者は巫女守である甚太に敬意をもって接し、敬称を付けて呼ぶ者も多い。
 同時に、それは妬心を掻きたてることにも繋がる。
 年齢が高くなればより顕著である。年若い、どこの馬の骨とも分からぬ小僧が集落の守り人として持て囃される。集落の権威達にとって、権威というものを持つからこそ、その事実は受け入れ難いものだった。
 しかしながら当の小僧は剣の腕が立ち、数多くの鬼を葬りながらも自分達の持つ鋳造や鍛冶の技術に羨望を抱き、礼節をもって接している。甚太の態度は集落の男達を満足させ、故に彼は巫女守として疎まれることなくあり続けている。奇妙ながら、劣等感こそが甚太を守っていた。
「此度の鬼はいかなものでしたか?」
 彼の胸中を察したのだろう、白夜が話を進める。
 その意を汲んだ甚太は、沈む心を無理矢理に引き上げ、堂々と問いに答えた。
「人に化けて葛野に侵入しようとしておりました」
 鬼、山姥(やまんば)、天狗、狒々(ひひ)。山間の民族にとって怪異は実存の脅威。男達はおしなべて表情を引き締め、真剣に耳を傾けている。
 一瞬の間を置いて、今まで一言も発さなかった集落の長が呻いた。
「ふぅむ……。おそらく狙いは姫様であろうな」
 息を呑む音。場に嫌な空気が流れた。
 鬼は元より千年を超える寿命を持つが、巫女の生き胆は喰らえば不老不死が得られるという。説話や伝承ではよく見られる記述だ。真実か否かは知る由もないが、中にはそれを信じ実行する鬼もいるだろう。事実、先代のいつきひめ「夜風」は数年前、鬼に食われ命を落としたという。
 当時の巫女守であった元治も、その鬼との戦いに殉じた。かつての惨劇が想起されたらしく、男達は狼狽えざわめき始める。
「姫様が……」
「やはり鬼は……」
 次々に不安の声が上がる。
 いつきひめはマヒルさまと繋がる巫女。葛野の民にとって火女は信仰の要、精神的な支柱だ。それが脅かされるという事実に心中穏やかではない。
「いえ、あるいは『夜来(やらい)』かもしれません」
 従容たる白夜の弁に、動揺も多少の落ち着きを見せる。
「いつきひめが代々受け継いできた宝刀。鬼にとっても価値があるものでしょうから」
「ほう……」
 怪訝そうに長が眉をひそめた。
「夜来」とは社に納められている御神刀である。戦国の頃から伝わるこの太刀は火の神の偶像であり、管理者に選ばれた者、即ちいつきひめは「夜」の文字の含んだ名に改名するのが習わしとなっている。当代の所有者である彼女も、本名とは別に「白夜」と名乗っていた。
「鬼が御神刀を……夜来は葛野の技術の粋を尽くして造られた太刀。千年の時を経てなおも朽ち果てぬ霊刀だという。鬼もその力を欲するかもしれぬ、ということですかな」
「ええ、可能性はあると思いますが」
 厳めしい顔が歪み、長の目がいやに鋭く変わった。そうして左手で顎をいじりながら「ふむ」と一つ頷く。
「ですが、姫様自身が狙われる理由となるのもまた事実。それはお忘れなきよう」
「そう、ですね」
 返答がほんの少しだけ強張る。襲撃への恐怖ではない。躊躇い、いや戸惑いが近いか。直接顔を見なくとも、甚太には彼女の硬さが感じ取れた。
 だが、長は気にも留めず話を続ける。老獪な彼ならば、気付かなかったのではなく、知りつつも見ぬふりをしたのだろう。
「御理解いただけて幸いです。姫様は葛野になくてはならぬお方、我らの支柱。そして、いつきひめを、葛野の未来を慮るのは集落の長たる私の責務。ならばこそ、時には諫言を口にせねばならぬ場合もございます。何卒ご容赦を」
「……ええ、分かっています」
 白夜の返答に、長は恭しくかしずく。
 慇懃無礼に見えるが、その忠心に疑いはない。長は本心から葛野の安寧と繁栄を望んでいる。それは集落の誰もが知るところ。だからこそ白夜も諌めはしなかった。
「甚太よ」
 一呼吸を置いてから、長が甚太を見据えた。
「以後も葛野の宝、姫様と夜来を狙う鬼は出てくるだろう。巫女守としての責、身命を賭し果たすように」
「御意」
 白夜を責めるような物言いに反感はあったが、彼女自身が認めた以上、食って掛かっても仕方がない。短く答えれば、従順な態度に満足したのか、長はゆっくりと頷いた。
 これで発言する者は誰もいなくなり、そろそろ解散かと思われた時、場違いなくらいに悪意を帯びた揶揄が飛ぶ。
「そうだよな、お前にはそれしかできねぇからな?」
 嘲りは長の隣に座っていた若い男から。細面で顔立ちは良いが、嫌らしいにやつきのせいで凛々しさはあまりない。甚太よりも一回り小さい背格好の青年、名を清正(きよまさ)といった。
 彼は甚太にとって同僚に当たる、この集落に二人しかいない巫女守の片割れだ。といっても白夜が選んだ訳ではなく、半年程前に長が無理矢理ねじ込んだ人物である。
 清正は長の一人息子だった。
 集落のまとめ役、その後継として教養を身につけてはいるが、剣の腕はさほどでもない。その為、彼は巫女守でありながらも鬼切役は受けない。主に甚太が葛野を離れる時、または何らかの理由で護衛に付けない場合、代わりに社の守を務めるのがせいぜい。
 果たしてそれで巫女守と言えるのか。老いてから生まれた子供、我が子可愛さで長が選んだのでは。
 疑問も多く上がったが、表だって長に反抗出来る訳もなく現状は続いている。
「何が言いたい」
 甚太が射るような視線を向けても、清正はどこ吹く風と軽薄なまま。同じ役に就く二人だが、お世辞にも仲が良いとは言い難い。巫女守に就いた当初から清正は棘のある態度をとっており、甚太も明らかに長の権力で巫女守となったこの男には含むところがあった。
「そのまんま、お前は刀を振るうしか能がないって話だよ」
 厭味ったらしい物言い。しかし否定する気にはなれないし、出来なかった。その罵倒は、同時に自己評価でもあった。どれだけ取り繕おうと所詮は斬るしか能のない男、指摘されたとて今更だろう。
 甚太は眼をつむり、こくりと首を縦に振った。
「成程、確かにその通りだ。ならばこそ、刀をもって姫様に尽くそう」
「……ちっ、つまんねぇ奴だな」
 挑発を平坦に返され、腹立たしいと、清正は露骨に眉根を寄せる。
 顔色こそ変えないが、甚太もまたこの男を不愉快に思っている。険悪な雰囲気は続き、誰も口を挟めずにいた。
「神前での諍いは褒められたものではありません」
 それを打ち破ったのは、白夜の静かな叱責だ。
「甚太、そして清正。巫女守はいつきひめの、ひいては集落の守り人。貴方達が争っていては集落の民も不安を抱くでしょう」
「……は、申し訳ありません」
 いつきひめに窘められては反論もない。甚太はぐっと頭を下げる。
 素直な応対を快く思ったのか、御簾の向こうで微かに影が揺れた。
「貴方もです、清正」
「俺もかよ」
「当然です。貴方も巫女守でしょう」
「巫女守っつっても、俺はお前の護衛くらいしかしねぇんだけどな」
 こちらは内心の不満を一切隠さない。あまりの乱雑さに白夜も小さく溜息を漏らした。
「相変わらずですね」
「今更喋り方を変えろって言われても無理だぜ?」
「ええ、期待はしていません。ただ今回の諍いは貴方の不要な発言が招いたこと。以後は」
「へいへい、分かってますよ」
 清正は面倒くさそうに言い捨て雑に話を切り上げる。長の息子だからか、あんまりな応対を咎める者は誰もいない。
 ただ、白夜自身も疎ましくは感じていない。それどころか楽しげでさえある。強張っていた彼女の声はいつの間にか柔らかさを取り戻していた。
 二人の遣り取りに甚太は微かな痛みを覚える。白夜と清正の間に、少なからず親しみというものが感じられたからだ。奴も巫女守、いつきひめと近しくなって当然。十分に理解しながらも痛みは消せなかった。
「清正の態度には罰を与えるべきですが、姫様が認められたならば私からは言うことはありませんな」
 杓子定規な考え方をする長も息子には甘く、叱り付けはせず、どころか頬は僅かに緩んでいる。僅かの間の後、長は一転表情を引き締め、周りの男達に厳しい視線を送った。
「では、今回のところはこれで終わりとする。甚太、お前はそのまま姫様の護衛を。他の者は各々の持ち場へ戻るように」
 それに従いほとんどの者は白夜へ一礼をした後、社から出て行く。
 清正も一瞬こちらを睨め付けるが、何も言わず長に従い、本殿には甚太だけが残された。
「今この場にいるのは貴方だけですか」
「は。皆、本殿から離れました」
 人がいなくなり静けさを取り戻した社殿では白夜の声もよく響く。甚太が答えると、何やら御簾の向こうで音がした。影を見るにどうやら立ち上がったらしい。一度二度と辺りを見回すように首を振り、確認し終えれば御簾がはらりと揺れる。
「なら、もう大丈夫ですね」
 言いながら一人の少女が姿を見せた。
 腰まである艶やかな黒髪がなびく。少したれた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。社で長く生活をしているせいだろう、日に当たらない肌は白く、細身の体は触れれば壊れる白磁を思わせた。緋袴に白の羽織、あしらい程度の金細工を身に付けた少女はゆっくりと歩き始める。
「姫様?」
 呼びかけるも何も返さない。
 いったいどうしたのだろうか。疑問を投げかけるより早く彼女はこちらへ近付き、目の前で立ち止まる。そして体を屈め、甚太の両の頬をつねった。
「ふぃめはま?」
 数多の鬼を葬ってきた剣士とは思えぬ間抜けな反応だった。とはいえ護衛対象であるいつきひめには逆らえず、されるがまま。しばらく白夜はおもちゃのように頬をいじり、最後にぐっと引っ張ってようやく手を離した。
「ねぇ、甚太。何回も言ってるけど、なんでそんな喋り方なの?」
 先程までの清廉とした巫女の姿はどこにもない。
 そこいらの娘となんら変わらぬ少女がそこにはいた。
「いえ、ですが。やはり立場というものが……それに姫様、今のはさすがによろしくないかと。その、巫女としてというより、淑女として」
「また姫様って言った。誰もいない時は昔みたいに呼んでって言ったよね?」
「ですが」
 いつきひめは現在でこそ神性も薄れてきたが、古くは神と同一視された存在。巫女守とはいえ、決して気安く接していい相手ではない。しかし、それこそが不満だと白夜は言う。
「……そりゃあ、抵抗があるのは分かるけど。せめて二人の時くらいは名前を呼んでほしいな。今はもう、そう呼んでくれるのは甚太だけなんだから」
 反論しようとして、白夜の表情に止められた。笑顔のままだというのに、隠した寂寞を抑えきれないのか瞳が揺らぐ。それは以前にも見た覚えがあって、だから向かい合うならば巫女守のままではいけないと思った。
「白雪」
 そうして口にする、使われなくなって久しい幼馴染の名。
 一瞬呆け、しかしゆっくりと染み渡り、白夜は次第に顔をほころばせる。
「済まなかった、白雪。もう少し気遣うべきだった」
「ううん。私こそごめんね? 我がまま言って」
 抑揚のない、淡々とした甚太の喋り方。素っ気なく聞こえるはずなのに、白夜は満足そうに頷いている。
 巫女守となって「俺」から「私」に変わり、口調も今のように堅苦しくなった。だが言葉遣いは変わっても、甚太は昔と変わらず彼女の我がままを当たり前のように受け入れる。それが嬉しかったようで、白夜は懐かしむように目を細めた。
「もう一回、呼んで?」
「白雪」
「……うん」
 意味のないやりとりに、まとう空気が和らぐ。
 先程見た寂しげな色はなく、こぼれた笑みは郷愁に似た何かを帯びていた。
 今から十三年前のことである。
 当時五歳であった甚太は、ある事情で妹と家を出て江戸から離れた後、先代の巫女守である元治に拾われ葛野へ移り住んだ。行く当てのなかった兄妹はそのまま元治の家で暮らすようになり、そこで出会ったのが彼の娘、白雪だった。幼い頃の二人はどこへ行くのも一緒で、そのうえ住む場所も同じだから、離れている方が珍しかった。
 しかし八年前、先代の巫女・夜風が命を落としたことにより、その娘である白雪はいつきひめを継ぎ、同時に宝刀「夜来」の管理者となった彼女は習わしによりかつての名を捨てた。無邪気にはしゃいでいた幼馴染の白雪は、葛野の繁栄を祈るいつきひめとして、「白夜」として生きる道を選んだのだ。
「駄目だね。いつきひめになるって決めたくせに、いつまでも甚太に頼って」
「何を。私は巫女守だ。巫女守はいつきひめを守るものだろう」
「……うん、ありがと」
 けれどはにかむ姿は、懐かしい、あの頃の少女のままだ。
 白雪はいつきひめとなった。それでも幼かった日々は、白雪であった頃は、彼女にとって捨てきれるものではないらしい。
 だからだろう、白夜は甚太と二人きりの時だけは「いつきひめ」ではなく「甚太の幼馴染」であろうとした。俗世から切り離されてしまった彼女にとって、かつての自分を知る者との会話は数少ない慰めだった。
「今回もご苦労様。いつも無理をさせちゃうね」
「あの程度の鬼ならば無理の内には入らない。元より私は」
「私は?」
「いや、なんでもない」
 こぼれそうになった本音を途中で止める。さすがに「私は白夜を守るため巫女守になった」などとは、恥ずかし過ぎて口には出せない。
「もう、仕方ないなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから」
 だが、言葉にせずとも想いは伝わるらしい。白夜は溢れんばかりの喜びを隠そうともせず、ぐしゃぐしゃと甚太の頭を撫でる。
「誰が姉だ。お前の方が年下だろう。あと、撫ですぎだ」
「一つしか違わないでしょ。それに私の方がしっかりしてるからお姉ちゃんなの」
「しっかり、している? 自分も巫女守になると言って親を困らせ、魚を捕まえようと川に入り溺れ。ああ、そう言えば鈴音と一緒になって『いらずの森』へ探索に行き、迷子になって泣いていたこともあったな。ほう、しっかりしている、か」
「嫌なことばっかり覚えてるね……」
「この手の思い出はいくらでもあるからな」
 触れる懐かしさに自然と目尻は下がる。
 遠い昔、まだ立場に縛られず甚太と白雪でいられた頃、二人は確かに幸せだった。
 辿り着いた現在を不幸と呼ぶつもりはない。だが、それでも時折には夢想する。
 あの幼い日のまま変わらずにあれたなら。今もまだ甚太と白雪であったとすれば、二人はどうなっていたのだろうかと。
 ふと思索に耽り、意味がないと気付き考えるのを止めた。
 白雪は己の意思でいつきひめとなった。甚太もまた、それを守ろうと巫女守になると決めた。ならば別の可能性を描くのは、彼女の、そして自身の決意を汚すことだ。だからその答えは出ないままでいい。
「そう言えば。今日はすずちゃんも来てるよ?」
 思考を現実に引き戻し、しかし一瞬何を言われたのか分からなかった。
 白夜は思い出したように後ろを振り返り、御簾の方へ近付いていく。
「……ちょっと待て。社殿は立ち入りが禁じられているはずだろう」
「本当に、どうやって入ったんだろうね? 表には人もいるのに」
 言いながら白夜は座敷へと戻り、こちらへと手招きしている。誘われるがままに足を踏み入れれば、まず目に入ったのは小さな祭壇だった。左右に榊立てを配置し、灯明を配しただけの簡素な造り。その中心には一振りの刀が納められていた。
 御神刀。先程話題にも出た「夜来」である。
 鉄造りの鞘に収められた二尺八寸程の大刀。曰く千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀。信仰の対象という位置づけではあるが余計な装飾は一切なく、鉄鞘のせいで無骨な印象を受ける。だが、葛野の太刀の特徴は肉厚の刀身とこの鉄鞘であり、夜来の無骨さはマヒルさまの偶像としてはむしろ相応しいのかもしれない。安置された刀には、そう思わせるだけの厳かさがあった。
「ん……」
 しかし厳かな空気をまとう御神刀を前に、そもそも先程まで集落の権威が集まっていたというのに、そんなものは知らぬとばかりに座敷の端で寝息も立てず熟睡している馬鹿が一人。赤茶がかった髪をした、右目を包帯で押さえた六、七歳ばかりの少女が、実に気持ちよさそうな寝顔を見せている。
 鈴音。かつて一緒に江戸を出た、甚太の妹である。
 その寝顔はあまりにも穏やかで、思わず呆れ交じりの溜息が漏れる。
「……こいつは」
 なんと言おう、よくぞ誰にも気付かれなかった。
 本来いつきひめに直接対面することが出来るのは、集落の長と巫女守のみ。もしも誰かに見咎められれば「いつきひめに不敬を働いた」と、斬って捨てられても文句が言えない状況だ。この子の迂闊さには頭が痛くなってくる。
「そう言わないの。すずちゃん、甚太に会いに来たんだよ?」
「私に?」
「二日もいなかったから、早く会いたかったんじゃないかな」
 指摘され、少しだけ心を落ち着ける。
 此度の鬼切役で、二日程葛野を離れていた。かつてはいつきひめになる前の白雪と、彼女の父親の元治とともに暮らしていたが、今は兄妹での二人暮らしだ。甚太が集落を離れている間、どうしても鈴音は一人で過ごすことになる。まだ幼いままの妹が、寂しいと思わない訳がなかった。
「すずちゃん、まだ小さいから。甚太が家に帰ってくるまで我慢しきれなかったんだと思う」
「しかし、掟は守らねばならん」
「私としては、こうやって気軽に来てくれる方が嬉しいんだけどなぁ」
 無理と分かっていながら白夜がぼやく。
 甚太と白雪と鈴音。幼い頃、三人はいつでも一緒だった。
 けれど懐かしい日々はもはや記憶の中にしか存在せず、今の彼女は社の中で一人。
 自ら選んだ道だ。嘆くことはなく、白夜もやり直したいとは思っていないだろう。それでも、ちらと覗き見た彼女の瞳は、処理しきれない感情に微かながら揺れていた。
「なんてね、冗談」
 こぼれ落ちた弱音をすぐさま冗談に変え、ぺろりと舌を出す。その様子は、聞かなかったことにしてほしいと言外に示していた。だから甚太は、誤魔化しきれなかった彼女の寂寞に気付かぬふりをした。
「そろそろ起こすか」
「うん、ありがとね」
 噛みあわないようでぴたりと嵌ったやりとり。その距離感が心地よい。けれど、これ以上は引き摺らないよう話題を終わらせ、甚太は屈んで鈴音の肩を掴み揺り起こした。
「鈴音、起きろ」
 少し揺すると寝返りを打ちながら小さく呻く。眠りは浅かったらしく、それだけで十分に目が覚めたようだ。
「……ん。あっ、にいちゃんおはよ」
 うっすらと瞼を開いた鈴音は、甚太の姿を見ると、すぐさまふんわりとした笑みを咲かせた。
 甘えるように瞳を潤ませ、上目遣いのまま、のっそりと起き上がる。
「それと、おかえりなさい!」
 おかえりという言葉がすぐ出る辺りに、たった二日でも、この子にとっては長かったのだと否応なく理解させられる。そんな態度で迎えられては、怒るなどできそうもなかった。
「ああ、ただいま」
 ふわりと鈴音の頭を撫でれば、くすぐったそうに身をよじる。無邪気な妹に、一時、ここが社であることも忘れる。普段ならば鉄のように硬い甚太の表情も和らいだ。
「甚太は、すずちゃんにだけは甘いよね」
「そんなつもりはないが」
「そう思ってるのは、多分本人だけだと思うよ。甘いのは昔っからだし」
 からかいを否定しながらも、しきれないところが辛い。お互い唯一の家族、自然と甘くなってしまうところはあると自覚している。
「いいことだとは思うけどね。でも、もうちょっと私にも優しくしてくれたらいいと思います」
「あー、なんだ。気を付けよう」
「それでよろしい」
 おどけた調子で頷く白夜が妙に幼く見えて、自然と目尻が下がる。
 今度は鈴音に向き直り、まっすぐに見据える。怒る気は失せた。それでも、今後、社に忍び込むことのないようにちゃんと教えておかなければならない。
「さて、鈴音。何度も言っているが、ここはみだりに近付いてはいけない禁域だ。基本的に立ち入りが許される場所ではない」
「えー、でも、にいちゃんだって来てるのに」
「それは巫女守のお役目だからだ」
「またまた、知ってるんだよ。にいちゃんがひめさまを……」
 それ以上はいけないと、とっさに鈴音の口を塞ぐ。
 危なかった。もう少し遅かったら、致命的な発言が飛び出るところだった。
「ね、私がどうしたの?」
 しかし白夜は頬を染め、甚太のすぐ隣で喜色満面といったご様子。隠したところでこちらの気持ちなど完全に筒抜けらしいが、だからといって改めて口にするのはさすがに気恥ずかしい。
「いや、なんでもない」
 顔が熱い。その時点で内心など透けているが、せめてもの強がりに憮然と返す。それがおかしかったようで、白夜は堪え切れず吹き出した。
「もう、仕方ないなぁ甚太は」
「にいちゃんは照れ屋さんだね」
「ほんとだね」
 いつの間に結託したのか、白夜と鈴音は顔を見合わせてくすくすと。
 叱ろうと思ったはずが、何故かからかわれる立場になっていた。恥ずかしさに一度咳払いし、どうにか説教を続ける。
「ともかく! 以後は気を付けるように。これはお前の為でもあるんだ」
「はーい!」
 返事はいいのだが、果たしてどれだけ効果があったのかは分からない。多分、いけないと分かっていても、すぐに来てしまうのだろう。その様がありありと想像できる。
 内心が顔に出ていたのか、やはり白夜は面白そうにしていた。
「お兄ちゃんは大変だね」
 ああ、全くままならぬものだ。
 苦笑を落とし、しかしそれも悪くないと甚太は小さく息を吐いた。
 社殿には、本来あるべきではない明るさが満ちていた。白夜と鈴音の遣り取りを眺めれば、甚太の顔付きも自然と柔らかくなる。まるで幼い頃に戻ったような温かい景色だった。
 なのに言い様のない寂寞が胸を過る。今はこうやって笑い合っているが、いつきひめとなった白夜が、外に出て年頃の娘のように振る舞うことは許されない。神聖なものは神聖なものであらねばならず、社に閉じ込められ、只人ではいられなくなった少女。その孤独は一体どれほどのものだろうか。
 想像しようとして、一太刀の下に思考を斬って捨てる。憐れみはしない。してはいけない。白夜は、白雪は、葛野の民を守るために自らその道を選んだ。

 ───おかあさんの守った葛野が好きだから。
 私が礎になれるなら、それでいいって思えたんだ。

 遠い昔。儚げで力強い、いつかの誓いを覚えている。それを美しいと感じ、だからこそ守りたいと願った。ならば憐れんでいいはずがない。安易な憐憫は彼女の決意を、その地続きである今を軽んずるに等しい。
 だが、せめて心安らかであって欲しいとも思う。
 巫女守になった理由を今更ながらに噛み締める。他が為に己が幸福を捨てた幼馴染。その幼くも気高い決意を守る為に。彼女が描く景色を尊いと信じたからこそ、刀を振るうと決めたのだ。
「……にいちゃん、ひめさま。そろそろ帰るね」
 甚太の横顔を見る鈴音の声が、何故か少しだけ陰った。
「もう? 折角だから、もう少しいればいいのに」
「ううん。見つかったら大変だし。にいちゃんにも会えたから」
 穏やかに目尻を下げる様は、あどけない外見とは裏腹に落ち着いている。かと思えば破顔して、無邪気さを振りまく。
「じゃね、にいちゃん。早く帰ってきてね!」
「いや、一人で行って見つかっては」
「ちゃんと抜け道を使ってきたから大丈夫! ひめさまも、またね」
 右目の包帯を直し、鈴音は小走りで出口へと向かう。
 どうやら社には、あの娘しか知らない抜け道があるらしい。誰にも見つからず座敷へ辿り着けた理由はそれか。甚太は少しばかり安心して小さな背中を見送る。
 鈴音は最後に一度だけ振り返り、大きく手を振って、そのまま社殿から出て行った。
「気を遣わせたか」
 鈴音のやり様はあからさまだった。大方、白夜と二人きりになれるようにという、あの子なりの配慮だろう。幼いままの妹にまで胸の内は筒抜け、そのうえ気を遣わせてしまうとは我ながら情けない。
「はぁ……ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」
 しみじみと、感心したように白夜は息を漏らした。
 それについては同感だが、褒めきれないところもある。
「私としては、もう少し我がままになってほしい」
「いい子過ぎるのも心配?」
「あいつは自分を抑え過ぎるからな」
 その出自故か、鈴音は普段から周りに対して引け目のようなものを感じている。
 だからだろう。鈴音は甚太と白夜以外の人間とは上手く話せず、特別な用事がない限りほとんど家の中で過ごしていた。そういう現状が、兄としては気がかりでならない。
「掟だから叱りはしたが、できるなら社に遊びに来るくらいは認めてやりたい。そちらの方が鈴音の為だ」
 甚太はいずれ鈴音よりも早く死ぬ。そうなれば、あの娘は一人になってしまう。それを考えれば自ら外へ出てくるのはむしろ好ましく、しかし掟に背いている以上、肯定はしてやれない。正直、複雑な気分ではあった。
「結構、考えてるんだね。なんていうか、ちょっと意外」
「兄だからな。妹の幸せを願うのは当たり前だろう」
「ふふっ、そっか。ほんと、お兄ちゃんは大変だ」
 年上ぶるのはいつもだが、慈しむような優しい響きは、それこそ姉のようだ。
 なんとなくこそばゆくて、ふいと視線を逃がす。そんな照れ隠しも見抜かれていて、白夜は楽しげに笑っていた。
 目の端に涙を溜めるくらいひとしきり笑うと、白夜がようやく落ち着きを取り戻した。そのまま二人は、ゆったりとしばらく雑談に興じる。けれど、すぐに和やかさを遮るような、板張りの床が軋む音が聞こえてきた。
「静かに。人が来た」
 先程の気安さは一瞬で消え去る。白夜は慌てた様子で居住まいを正し、甚太も板張りの間へ戻って襟を正す。社には静寂が戻り、幼馴染だった二人はいつきひめと巫女守になった。
 しばらくすると本殿の外、高床の廊下から声がかけられた。
「姫様、少しよろしいですか」
 先程帰ったはずの長だ。
 助かった、もう少し鈴音を帰すのが遅ければ鉢合わせになっていた。すんでのところで最悪の事態は回避できたようだ。
「何かありましたか?」
 冷静で、威厳を感じさせる態度。
 先程まで戯れていた幼馴染の姿はなく、ただ一個の火女がそこにはあった。
「いえ、以前の件を少し煮詰めたいと思いましてな」
「……そう、ですか」
 御簾の向こうで白夜が固くなったのが分かる。以前の件が何かは分からないが、あまり楽しい話題ではないのだろう。
「失礼いたします」
 返答も聞かずに長は本殿へと踏み入ってくる。
 最低限の礼節を忘れる程に重要な話なのか、長にしては珍しい不作法だ。その重さはこちらを一瞥する目の鋭さからも感じ取れた。
「甚太。少しの間、外へ出ていてくれんか」
「ですが、私は巫女守。鬼切役を承っているなら兎も角、平時に離れることは」
 白夜のまとう雰囲気に、傍を離れるのは躊躇われる。
 自身の役職を使って精一杯の抵抗を試みるが、否定は予想外のところから出てきた。
「甚太、貴方は下がりなさい」
 声は冷たい。いや、冷たく聞こえるよう意識した硬質な物言いだ。
 彼女との付き合いは長く、だから分かる。今から行われる話は聞かれたくない類のもの。それも白夜ではなく白雪にとって、である。
「……御意。ならば、私は社の外で控えます」
「ええ」
 短い返答を受け一礼、背を向け本殿の外へと向かう。止めるものは、この場にはいない。
 白雪ならば「ごめんね」とでも付け加えただろう。しかし、白夜は謝らない。神と繋がる火女が俗人に謝罪すれば、その神聖さを貶めることに繋がる。だから内心がどうであったとしても、白夜は甚太を自分よりも下位の存在として扱わねばならない。彼女がいつきひめである以上、幼馴染であってはならないのだ。
「甚太」
 呼び止められ振り返る。
 御簾の向こうにいる少女が、どのような顔をしているのかは分からない。声音にも抑揚はなく、そこから感情を読み取ることは出来なかった。
「葛野を、これからも頼みます」
 こぼれ落ちたのは幼馴染の白雪ではなく、いつきひめたる白夜の願い。
 同時に「頼む」という、彼女に許された精一杯の謝罪だ。
「は。巫女守として為すべきを為しましょう」
 ならば幼馴染ではなく巫女守として返さねばならない。
 御簾までは約三間。だというのに、たったそれだけの距離がやけに遠く感じられる。表情を鉄のように硬くし、努めて平静を装い、再び歩みを進める。
 踏み締めた床がぎしりと鳴った。
 その音に、冷たい社殿はさらに冷え込んだような気がした。

 歳月を重ねれば記憶も薄れる。
 ただあの夜、雨が降っていたことだけは今も覚えている。

 いつきひめへの報告を終え、二日ぶりに家へ帰り、一夜が明けた。
 社のある高台の下、それほど遠くない場所に甚太の家はある。
 藁を敷き詰めた屋根に周囲には土壁と杉の皮を張った、昔ながらの造りの家だ。玄関兼台所の土間と、いろりのある板の間と畳敷きの座敷が二つある。さほど大きいという訳でもないが、妹と二人で住むには十分すぎる。この家は巫女守となった十五の時、正式に与えられたもの。かつては元治や白雪と共に暮らした場所だ。
「鈴音、もう朝だぞ」
 すうすうと寝息を立てる鈴音を揺さぶる。
 しかし目を覚ますどころか、寝足りないとますます体を丸めてしまう。
 幼げな仕種に心が温まる。二人暮らしをするようになって随分経つが、寝起きの良くない妹を起こすのは日課であり、一種の道楽になりつつあった。
 まだ起きようとしない鈴音を眺めながら、ふと昔のことを思い出す。
 甚太と鈴音が生まれたのは江戸のそれなりに裕福な商家で、幼い頃は何不自由のない生活をしていた。母は妹を産んだ時に死んだらしい。以降は、父が男手一つで生活を支えてきた。商売で忙しいだろうに、時折好物の磯辺餅を焼いてくれて、遊びにも連れて行ってくれる。仕事に関しては真面目で厳しいが、甚太にとっては優しい父だった。そんな父親に感謝し慕ってもいたが、どうしても我慢ならないことが一つだけあった。
 父は、妹の鈴音には風当たりが強かった。
 ──これは私の娘などではない。
 嫌うどころか憎しみと呼べるほどの悪意を向け、虐待していたのである。
 幼心に甚太は、妹が生まれたから母が死んだ、父はそう思っているのだろうと考えた。だから責めはしなかった。代わりに、少しでも妹が安らかに過ごせるよう心を砕いた。
 鈴音は、唯一自分に優しくしてくれる兄に大層懐いた。父はそんな甚太を戒めたが、それでも止める気は起きなかった。妹がさらなる虐待を受けないように、いつも鈴音の傍にいた。
 甚太は妹も父も好きだった。子供ながら必死に家族の形を守ろうとしたのだ。
 もっとも、その努力も意味はなかったが。
 ──あの化け物ならば、もう戻ってくることはない。
 嫌悪に満ちた目は、普段の厳めしくも優しい表情からは程遠い。あの遠い雨の夜、父はいとも容易く鈴音を捨てた。殴り、蹴飛ばし、暴言をぶつけて。最後まであの人は、鈴音を娘とは認めなかった。
 父を慕っていたのは事実だが、その所業を受け入れられず、甚太も鈴音を追いかけて家を出た。雨に濡れ、行く当てもなく立ち尽くす妹の姿に、傍にいてやりたいと思った。
 こうして兄妹は生まれ故郷を捨て、葛野の集落へ流れついた。
 それが十三年も前の話である。
「まだねむい……」
 当時に比べれば、ここでの暮らしは穏やかなものだ。体を揺すっても起きようとしない鈴音に、それが許される現状に、小さく笑みがこぼれる。ほとんど衝動的に江戸を離れたが、葛野に移り住んだのはこの子にとっては幸いだった。
 ただ、安眠に浸り切る妹の姿を見ていると、ほんの僅かな不安を覚えもする。
「お前は、変わらないな」
 手櫛で赤茶がかった髪を梳きながら、思い出の中の姿と寝ている今の姿を見比べる。この娘は葛野へ移り住んでから、ほとんど変わっていない。ここで十三年の月日が経ったにもかかわらず、容姿は七歳程で止まったままだ。
 あの頃から僅かしか成長していない。相変わらず、幼い妹のままで鈴音は眠っていた。
「いい加減起きないか」
「ん、おはよう……にいちゃん」
 強く揺さ振ると、ようやく目を開き、ゆっくりと体を起こす。
 しかし、まだ完全に目が覚めた訳ではないらしく、頭はゆらゆらと揺れていた。
「起きたなら顔を洗え。食事は用意してある」
「はーい……」
 額を人差し指でぴんと弾くと、鈴音が頭をふらつかせながらも布団から抜け出て、のたのたと土間へ向かう。思わず甚太の口から温かな息がこぼれた。
 いつも通りの朝だった。

「にいちゃん、今日はゆっくりだね」
「ああ。社に向かうのは昼頃でいいそうだ」
「そうなの? へへ、やった」
 麦飯と漬物だけの質素な朝食を終え、出かける準備を整える。
 朝方、社の使いが訪れ、今日はいつもの時間ではなく、日が真上になる頃に来ればいいと通達があった。おかげで大分のんびりとした朝の時間を過ごしている。
 それが嬉しいのだろう、鈴音は甚太の膝に乗って甘えるように背を預けていた。
 その様がことさら愛おしい。時折、目の前にある赤茶がかった髪を撫で、上機嫌な幼い妹をただじっと眺める。
「んー? なにかついてる?」
 頬を緩ませて、鈴音がこちらを振り返る。しっかりと巻いていなかったのか、右目を隠す包帯が少しばかり緩んでいた。
「包帯、ずれているぞ」
「あ……」
 指摘され慌てて包帯を直す。
 この子は、江戸にいた頃から右目を隠している。当時は気付きもしなかった。だが遠い雨の夜に、甚太はようやくその意味を理解した。
 今でも忘れることはない。
 父に捨てられ、降りしきる雨の中、どこにも行けず立ち尽くす幼い妹。
 ──ううん。にいちゃんがいてくれるなら、それでいいの。
 耐えがたい痛苦の中、それでも微笑みを向けてくれた。
 けれど濡れて重くなり、ずり下がる包帯に虐待の理由を知る。
 あの時、甚太は確かに見たのだ。
 鈴音の右目は、赤かった。
「これで、大丈夫?」
「ああ」
 包帯を整えて、不安そうに甚太を見上げる。
 赤眼は鬼の証。そのせいで父に疎んじられていたのだと知った鈴音は、決して他人に赤い右目を見せず、江戸を離れてからも隠し続けていた。
 とはいえ、今はそこまでする意味もないのだが。
 甚太達が葛野の地に住み着いて長い年月が過ぎた。しかし、鈴音はいまだ六、七歳の幼子にしか見えない。そして、隠した右目。これだけの要素があれば、誰もが答えに辿り着けるだろう。
 だが、葛野の民は誰一人として、そのことに触れようとはしなかった。長も、決して好意的ではないが、鈴音の秘密を敢えて問い質しはしない。清正でさえ、なじるような言葉は口にしなかった。
「私達は幸せだな」
 今では故郷と呼べる場所になった葛野。流れ者である甚太を、鬼の血を引く鈴音をこの集落は受け入れてくれた。ここへ連れて来てくれた元治、そして迎え入れてくれた夜風には感謝してもしきれない。
「すずはにいちゃんがいるなら、いつだって幸せだよ」
 赤茶がかった髪が揺れている。
 まっすぐ過ぎる好意に嘘はない。しかし、ふと重なったいたいけな瞳は、兄の心の奥を密やかに探っているようだった。
「……でも、きっと。にいちゃんは、ひめさまと一緒の方が嬉しいんだよね」
「む……」
 答え難い問いだ。どう返そうかと一瞬悩むが、鈴音の方がすぐに続ける。
「やっぱりにいちゃんは、ひめさまと結婚したい?」
「いいや」
 今度は迷いなくきっぱりと否定する。
 それは立場を気にしてではなく、素直な気持ちだった。
「それって、ひめさまがひめさまだから?」
「そうではない。……今更隠しても仕方ないな。私は、白雪を好いている。だが、あいつと夫婦になりたいと望んでいる訳ではないんだ」
「好きなのに?」
「だからこそ、だな」
 煙に巻かれたような気分なのか、鈴音が不満そうに頬を膨らませる。そんな妹がことさら幼く見えて、甚太は窘めるように頭を撫でた。
「私は白雪を好いている。だがそれ以上に、白夜を尊いと思う。そういうことだ」
「分かんないよ。だって、好きな人とはずっと一緒にいたいって思うもん」
「そうだな。だが私には、それが上手くできないんだ」
「にいちゃんは、ひめさまが好きなんだよね?」
「ああ。……我ながら、ままならない」
 噛み合わない会話は、ずれて途切れた。
 しばらく無言の時が続き、小さく肩を震わせた鈴音が縋りつくように擦り寄る。甘えているのではなく、怯えているのだ。
「にいちゃん」
 触れ合える距離、温もりを感じて。
 だというのに鈴音が迷子のように見える。
 この娘は何をそんなに怖がっているのだろう。それが甚太には分からなかった。

 砂鉄と炭を同時に火にかけると、砂鉄は燃え上がる炭の隙間を落下する間に鉄へと変化する。この時使用する炭のことを俗に「たたら炭」と呼び、楢や椚を完全に炭化しないよう焼いたものを使うのが一般的であった。これは製鉄の工程において重要な要素であるため、葛野の地でも定期的にたたら炭作りが行われている。
 その時期には住居の立ち並ぶ区域からも見えるほどに煙が朦々と立ち込め、同時に鉄を加工する鍛冶師達の奏でる槌の音と混ざり合い、葛野は得も言われぬ雰囲気に包まれる。
 製鉄には携わらない甚太であるが、騒々しい集落の様子は気に入っていた。
 立ち上る煙を横目に見ながら、愛刀を腰に差し社へと向かう。
 そろそろ日が真上に来る。時間としてはちょうどいいだろう。
 遠くからは、かぁん、と何度も鉄を打つ音が響いている。それを心地よく感じながら歩いていたのだが、道の途中で嫌な顔と出くわした。
「よう、甚太じゃねえか」
 清正は相変わらず不愉快なにやけ面を引っさげ、右手には何か包みを持っている。それをぶらぶらと揺らしながら、小馬鹿にしたような態度で絡んできた。
「今から白夜のところか? ああ、朝はお前だけ呼ばれなかったみたいだしな」
「清正、せめて社の外では言動に気を配れ。姫様が軽んじられる」
 どこに人目があるか分からない。自分のことはいったん棚に上げて、巫女を貶めるような真似は慎むべきだと窘めるも、当の相手はどこ吹く風だ。
「いいんだよ、別に。本人がそう呼べって言ったんだからな」
 睨みつけても怯まず、にたにたとしている。
 随分と機嫌が良さそうだが、機嫌が良かろうが悪かろうが鬱陶しいことには変わりない。
「……どういうことだ」
「おぉ怖い怖い、そんなんじゃ女にもてねぇぜ」
 この男は、初めて会った時からこちらを見下した振る舞いで接してくる。理由は分からないが、あからさまな敵意を向けられることもあった。正直に言えば付き合いたくない手合いである。
「用がないならもう行くが」
 巫女守という立場故に冷静さを演じてはいるが、元々甚太は沸点が低い。表情こそ取り繕っているものの、内心かなり苛立っていた。
「っと、忘れるところだった。ほらよ」
 こちらに向けて、清正が包みを投げ渡す。意味が分からず、甚太は訝しむ。
「なんだこれは」
「饅頭だよ、行商が来てたから買っといた」
 思わず思考が止まった。
 何故、この男が自分に饅頭など渡すのだろうか。脈絡のなさに本気で頭を悩ませる。それに気付いたのか、清正が顔を歪めて付け加えた。
「お前にじゃねえ、鈴音ちゃんにだ。あの娘はほとんど外に出ねぇからな」
 その発言もまた意外だ。友人同士でもあるまいに、妹を気遣われる理由がない。裏を読もうとじっと観察していると、ふいと清正が視線を逸らす。
「鈴音ちゃんだって、たまにゃ甘いもんでも食べてぇだろ」
 ぶっきらぼうだが、他意はないように見える。どうやら純粋に鈴音の為らしい。
 思ってもみなかった行動に未だ動揺を隠せないが、とにかく頭を下げる。言いたくはないが、礼を返さない訳にもいかない。
「すまん、感謝する」
「ちっ、お前からの礼なんて虫唾が走る。そんなもんいらねぇからちゃんと渡せ」
「ああ、そうさせてもらおう。だが、何故お前が鈴音を気遣う?」
 そもそも二人の間に交流などまるでない。彼の意図を探りたかった。
「……そりゃ、似た者同士だからな、俺もあの娘も。だから苦しみも分かるさ。俺は鈴音ちゃんほど強くなれねーけどよ」
 明確な答えは返さず、意味の分からない言葉を吐き捨てて、清正は横を通り過ぎていった。
 残ったのは預けられた饅頭だけ。
 離れていく背中は力がなく、どこか悲しそうにも見えた。

「おお、来たか」
 社殿に顔を出した瞬間、長が安堵したように息を漏らした。他にも集落の権威たちが揃って顔を突き合わせている。
 いったい何事か。不思議に思いながらもまずは御簾の前でひざまずき、白夜へと礼をとる。
「巫女守、甚太。参じました」
「……貴方を待っていました」
 御簾越しでは表情は見えない。しかし硬い響きに、白夜の緊張が伝わってくる。不穏な空気から、なにやら逼迫した状況なのだと察した。
「本来ならば、このまま社の守を務めてもらうはずだったのですが……」
「そういう訳にもいかなくなった。つい先刻、集落の娘から聞いた話だ。『いらずの森』へ薬草を採りに行った時、微かながら木陰に蠢く二つの影を見たそうだ。その影のうちの一つは、とてもではないが人とは思えぬような巨躯をしていたらしい」
 白雪が濁した先を長が継いで説明する。
 二つの影。成程、そういう話かと甚太は表情を引き締める。
 そもそも、巫女守がいつきひめの護衛よりも優先しなければならない事態など多くはない。山間の集落において怪異は実存の脅威。それを祓うために、巫女守はあるのだ。
「護衛は清正を呼び戻します」
「では」
「ええ、鬼切役です。甚太よ、貴方はいらずの森へ行き、異形の正体を探りなさい。そして、それが葛野に仇なすものならば討つのです」
 背筋が伸びる。
 与えられた命を自身の内に刻み込めば、自然眼光は鋭く変わった。
 答えなど初めから決まっている。甚太は静かに、けれど力強く白夜に応えた。
「御意。鬼切役、ここに承りました」

「いらずの森」は葛野を囲うように広がる森林、特に社の北側一帯を指す俗称である。
 鬱蒼と生い茂る草木の中には、山菜や煎じれば薬となる草花もある為、集落の女が踏み入っては籠一杯の野草を持って出てくることも珍しくない。名前から受ける印象とは裏腹に、この森は葛野の民にとって生活の一部と言っていいほど近しいもので、一体どのような謂れをもって「いらずの森」と呼ばれているのか、それを知る者はほとんどいない。説話では、マヒルさまは元々この森に棲んでいた狐だったとも言われているが、事実かどうかは定かでない。
 結局のところいらずの森は、葛野の民にしてみれば「山菜や野草の採れる場所」以上の意味はなかった。
「じ、甚太様、こっちですっ!」
 異形の影を見たという娘、ちとせに案内されて森へ足を踏み入れる。
 顔を顰めてしまうほどに濃い緑の匂いは近付く夏のせいだろうか。青々と茂る森は、そこだけが切り取られてしまったかのような錯覚を覚える。
「随分と深くまで来たな」
 ちとせは白雪よりもいくらか年下だが、それでもたたら場の女。体力はあるらしく、かなりの距離を進んで森の奥まで来たが、息は少しも乱れていない。変わらぬ足取りで獣道をひょいひょいと歩いていく。
「この辺りは繁縷(はこべ)がよく採れるん……ますので」
 繁縷は小さな花だが、煎じれば胃腸薬となる。薬売りなど滅多に来ない山間の集落では、自生する薬草を定期的に収穫するのは必須であり、大抵の場合それは女の仕事だった。
「今日の朝、です。ここに繁縷を採りに来たら甚太に……様よりも一回りはおっきい影が見えて、それで、その……」
 緊張のせいか、まだ年若い娘であることを差し引いても、説明は要領を得ない。しかし、それよりも気になるのは、彼女の口調だ。
「ちとせ……別に様はいらんし、話しにくいなら普通でいい」
「いえっ、巫女守様にそんな無礼は」
 少女の態度に思わず溜息を吐く。巫女守は本来いつきひめの護衛だが、巫女に関わらぬ者達にとっては、それ以上に集落の守り人である。そのため、長や集落の権威達はともかくとして、住人のほとんどは葛野の守護者たる巫女守に敬意をもって接する。分かっているが、ちとせの様付けはどうにも違和感があった。
「『甚太にい』で構わんのだがな」
「そ、それは……」
 にやりと口角を吊り上げれば、ちとせの頬が真っ赤に染まる。
 今でこそ様付けで呼んでいるが、以前のちとせは甚太のことを「甚太にい」と呼んでいた。彼女は、いつも周囲に引け目を感じていた鈴音の初めての友達だった。その縁で甚太とも知り合い、幼い頃はそれなりに親しくしていた。鈴音は初めて出来た友達に大層喜び、一時期は甚太達といるよりもちとせと遊ぶことを優先していた時期もあった。
 二人で辺りを走り回っていた、その姿を今でも覚えている。少しだけ寂しさを感じながらも、甚太はそんな妹を微笑ましく思っていた。
「こうやって話すのも久しぶりだ」
「……はい」
「元気でやっていたか」
「はい。それだけが取り柄、ですから」
 けれど、いつの頃からか二人は一緒に遊ばなくなってしまった。
 何故だったろう。思索を巡らせてすぐに思い至り、眉をひそめる。
 ──鈴音ちゃんは小っちゃいね。
 ああ、そうだった。
 段々と成長するちとせ。変わらずに幼子であり続ける鈴音。見せつけられた、鬼の血を引いているという事実。
 思い出した。
 初めて出来た友達を失いたくなかった鈴音は、自分から離れてしまったのだ。
「嫌われたということか」
 機嫌が悪いと思われないよう冗談めかしてそう言えば、慌てたちとせが食って掛かる。
「そんなわけなっ……ありま、せん。でも……」
 勢いは最初だけ、すぐ尻すぼみになり口ごもってしまう。やはり、以前のように話すことは難しいらしい。
 ちとせと鈴音が疎遠になり、自然と甚太とも話す機会はなくなった。それから長い年月が過ぎた今、ちとせにとって甚太は「甚太にい」である以上に「巫女守様」なのだ。彼女の畏まった態度に、今更ながら白夜の気持ちが分かる。
「成程、それまでの自分ではないというのは、中々に窮屈なものだ」
「え?」
「いや、独り言だ。案内はここまででいい」
 左手を愛刀に添え、親指で鍔に触れる。静かに息を吐き、周囲に意識を飛ばす。
 森の中に音はない。
 虫の音どころか葉擦れさえ聞こえぬ、全くの無音となっていた。
「大丈夫……ですか?」
「ああ。お前は暗くなる前に帰れ」
「分かりました。それでは、失礼します」
 甚太の雰囲気が変わったのを察したのか、単に言われたからなのか、ちとせが素直に集落の方へと向かう。が、二歩三歩踏み出したところで足を止めた。
「どうした」
 声をかけると彼女は振り返り、遠慮がちに、おずおずと口を開いた。
「……あの、鈴音ちゃん、元気?」
 懐かしい景色が目の前にある。それは、まだ幼かった〝ちとせ〟からの問いだった。だから、返すのは〝甚太〟でないといけない。
「……元気だよ。相変わらず寝坊助だけど」
 その態度が意外だったのか、ちとせは驚きに目を見開き、歳よりもさらに幼く見える満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございますっ、それじゃ今度こそ失礼、しますね!」
「気を付けてな」
「はいっ、甚太に……様もお気を付けて!」
 元気よく手を振りながら走り去っていく姿に口元が緩んだ。ちとせの後ろ姿が、遠い昔、「甚太にい」と自分を慕ってくれた頃の彼女を思い起こさせる。だから嬉しく……その傍らに、誰もいないことがほんの少しだけ悲しかった。
 甚太と白雪、そして鈴音の三人は、いつも一緒にいた。改めて振り返ってみれば、鈴音が甚太達の傍を離れようとしなくなったのは、ちとせと疎遠になってからだ。
 あの幼い妹は、初めての友達と離れ、いったい何を思ったのだろう。
 寂しさ。孤独感。
 言葉にすれば簡単だが、鈴音が抱えているそれは想像以上に根が深いのかもしれない。
「情けないな、私は」
 遠い雨の夜から歳月を経て、少しくらいは強くなって。だというのに、何一つ救えぬ己の無様さに辟易する。
 随分と昔、元治は「変わらないものなんてない」と言っていた。しかし、今ここにいるのはあの頃から少しも変わらない自分だ。いつだって、守りたいものをこそ守れない。
 沈み込む思考。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
 頭を振り余計な考えを追い出す。
 ふと見上げれば、生い茂る初夏の若々しい葉が空を隠している。僅かに差している木漏れ日がやけに眩しく映り、濃い樹木の香りに胸が詰まる。
 音は相変わらずなかった。
 虫の声も、葉擦れさえ聞こえない、静かの森。
 場所は変わっていないのに、まるで異界へ迷い込んでしまったような錯覚。違和感に親指は自然と鯉口を切っていた。
 突如、空気が唸る。
 静寂の森に音が戻ったかと思えば、七尺を超える巨躯が姿を現し、上から下へ叩き付けるように拳を振り下ろしていた。
 だが、大した動揺はない。甚太は無表情のまま後ろへ大きく飛ぶ。
 どごん、と鈍い音に地が揺れた。ただの一撃が、地震に近い振動を起こす。見れば先程まで立っていた場所は、見事に陥没していた。
 土煙が上がる中、襲撃者は膝を突き、まじまじと地面を眺めている。
『不意を打ったつもりだったのだがな』
 土煙が晴れると、拳をゆっくりと引き、おもむろに立ち上がる。
 赤黒い皮膚。ざんばら髪に二本の角。筋骨隆々とした体躯は、四肢を持ちながらも人では辿り着けぬ、異形と呼ぶに相応しい規格外の代物。そして、瞳は、赤い。
 そこには屈強な鬼が悠然と佇んでいた。
「昼間からご苦労なことだ」
 鬼のあまりにも分かり易い容貌に、こんな状況でも微かに笑みがこぼれた。
 しかしそれも一瞬、直ぐに鋭く睨め付ける。
『成程、あやかしが動くのは夜だと相場が決まっている。が、別に夜しか動けん訳ではない。有象無象どもならばともかく、高位の鬼は昼夜を問わず動く者がほとんどだ』
「つまり、自分は高位の存在だと? 鬼にも特権意識があるとは驚きだ」
 鼻で嗤う。視線は逸らさぬ。敵の一挙手一投足に注意を払う。
 向こうも戦い慣れているのだろう。無造作に見えて甚太を警戒し、間合いを一定に保っていた。
『鬼探しにおなごを連れてくる貴様よりはまともだろう』
 小さく舌を打つ。どうやら随分前から見られていたようだ。
「見ていたならば、その時に襲えばいいものを」
 ちとせと共にいる瞬間を狙われていれば、ああも上手く避けられはしなかった。だというのに、何故鬼はわざわざ好機をふいにしたのか。素朴な疑問に対して、鬼は不快そうに顔を顰めた。
『趣味ではない』
 こちらの様子を覗き見ていたのは、何か腹があってではないらしい。馬鹿にするな、とでも言いたげに歪む表情。鬼の反応は実に理性的で、真っ当な怒りを感じさせるものだった。
 不意打ちはしても女を狙うような真似はしない、ということか。
 鬼は千年近い寿命を持ち、生まれながらにして人よりも強い。脆弱な人の放つ侮りが、この鬼の矜持に傷をつけたのかもしれない。
「さて、鬼よ。ここから先は我らが領地だ。立ち去れ」
 言葉を交わしながらも構えは解かず、僅かに腰を落とす。呼応して鬼が拳を握りしめる。
『聞くと思うのか?』
「いいや」
 鬼が甚太の背後、その先の景色を見遣る。
 やはり、鬼は葛野へと向かっていたらしい。
 巫女守は集落に仇なす怪異を討つ。ならば取るべき態度も一つである。
「聞かなくても別に構わん。今この場で斬り伏せれば同じことだ」
 一歩を進み抜刀。脇構え。右足を引き、剣先を後ろに回す。
 元から話し合いで済むとは思っていない。鬼は何かしらの目的をもって葛野へ侵入しようとした。ならば口で言ったところで止まる訳がないし、こちらはそれを見逃せない。衝突は自明の理だった。
『そちらの方が俺の好みだ』
 木々の生い茂る森の中。とはいえ幸いにもこの辺りは多少開けている為、動きが制限されることもない。
 眼光鋭く見据えれば、対峙する鬼も既に構えている。
 お互い軽口はここまで。
 合図もなく甚太は左足で地を蹴り距離を詰める。流れるように上段へ。勢いを殺さぬままに跳躍、峰が背中に付くほどに振り上げ、全力を持って脳天に叩き落とす。
 対人の術理としては下の下。飛び上がっての大振りなど殺してくれと言わんばかりだ。しかし、固い表皮を持つ鬼は生半な刀では傷一つ付かず、小手先の剣術では打倒できない。鬼を討つには、一太刀一太刀が必殺でなければ意味がない。それ故の一刀だった。
 敵が静かに息を吐いた。腕を交差し、真っ向から受けて立つつもりらしい。
 舐めるな。己が振るうは葛野の業をもって練り上げた太刀。生半な武器では通さぬ鬼の皮膚さえ裂くぞ。
 揺らぎない絶対の自信に気付いたのか、鬼が防御の体勢を途中で解き後ろに下がる。
 遅い。切っ先、僅かに一寸ながら太刀は鬼を捉え、胸板に傷を負わせた。刀傷から流れる血は赤い。鬼の血も赤いとは何の冗談だろうか。
『……なかなかにやる』
 大した痛みは感じていないらしい。斬られておきながら、愉快だとでも言わんばかりだ。
 その余裕が気に食わない。
 さらに詰め寄るが、阻むように繰り出される拳。体の動かし方など知らぬ児戯、迫り来る甚太に向けて、ただ突き出しただけのものだ。だとしても侮ることは出来ない。相手は鬼、ただ振るわれただけの拳だが、そもそも人とは膂力が違う。術理など一切を無視した、力任せの拳さえ致死の一撃となる。
 踏み込んだ右足を軸にして上体を揺らし、突き出された鬼の右腕を掻い潜る。避けた先は、伸び切って動かなくなった腕の外側。刀を返しもう一度横薙ぎ、ただし今度は逆からの剣閃だ。畳んだ腕では力が乗り切らない。不足は腰の回転で補う。伸び切った腕の下を平行に白刃は流れ、狙うは右腕の付け根。この一撃で腕の自由を奪う。
『させないわよ』
 突如、女の姿が目の端に映る。
 甚太は体を無理に引っこ抜き左方へと流した。当然、白刃は鬼の体から離れ、狙った場所を斬り裂くことは叶わなかった。
 嘆いてばかりもいられない。すぐさま体勢を立て直し、大きく後ろに下がり距離を取った。勿論、こんな行動を取ったことには理由がある。
『危なかったわね』
 いつの間に現れたのか。三又の槍を構えた着物姿の女が現れ、突進する甚太の顔を目掛けて刺突を繰り出していたのだ。避けるためには、軌道を無理矢理変更するしかなかった。
「二匹目、か」
 女の肌は青白く、その瞳はやはり赤い。
 軽い舌打ち。初めに「二つの影を見た」と聞いていた。けれど現れた鬼は一匹。ならば、もう片方がどこかに潜んでいると想定してしかるべきだった。だというのに周囲への警戒を怠り、折角の好機をふいにしたのは己の未熟。自身の迂闊さに腹が立つ。
 結局、今の攻防で手傷を負わせることは叶わず鬼達は悠々と立ち並んでいた。
『助かった……ということにしておこう。しかしあの動き。あれは本当に人か?』
 どうやら鬼達はそれなりに親しい仲らしい。傍目には友人か何かのように見える。
『さあ? でも、あの男の子は……確か、鈴音ちゃんだっけ? あたし達の同朋と長く一緒にいたみたいだし、案外あやかしに近付いているのかもね』
 耳障りな声に血が逆流した。鬼どもの不愉快な会話を遮り、甚太は乱暴に吐き捨てる。
「そうか。ならば死んでおけ」
 何故、鈴音を知っている、などとは疑問にさえ思わなかった。言い切るよりも早く踏み込み、濃密な殺意を持って繰り出す剣撃。
 だが、鬼女の首を狙ったその一刀は、あまりにも無様な大振りだった。
『ふん』
 当然その剣は、間に割り込んだもう一方の鬼によっていとも容易く防がれる。羽虫でも払う様に腕が振るわれる。それだけで刀は軌道を変えた。
 甚太は奥歯を強く噛んだ。
 あの鬼女を斬り殺せなかった。苛立ちが募り、そこで冷静さを失っている自分に気付き、もう一度間合いを離す。激情に飲み込まれぬよう深く呼吸をしても、落ち着きはまだ戻らない。視線は知らず、憎々しい鬼女を捉えていた。
「鈴音が、貴様らの同朋だと? 取り消せ。あの娘は私の妹だ」
『おおこわ。私達より鬼らしいんじゃない? でも、妹想いってところは評価できるわ』
 平然と殺気を受け流す鬼女。
 巨躯の鬼も、甚太の怒りなどどうでもいいとばかりに振る舞う。
『首尾は?』
『上々よ、ちゃんとこの目で確認できたからね。間違いない、あの顔は私が見たまんま。でもよかったわ、本当にいて。自分の力だけど、さすがに荒唐無稽過ぎて信じられなかったのよね』
『お前の〈遠見〉が間違っているなどという心配はしておらん。この地にいるのが見えたなら、間違いなかろう。俺が心配しているのは、遊んで目的を忘れて帰ってきたのではないか、ということだ』
『……何、そのお父さん発言。チョーキモいんですけど』
 敵を前にして、無防備に二匹の鬼は雑談を交わす。
 いや、無防備は鬼女の方だけ。巨躯の鬼はこちらの動向を警戒し、視線と細かな立ち位置の調整で甚太を牽制していた。
『ちょうきもい……? なんだそれは』
『この前〈遠見〉で見た景色の中にいた鬼の言葉よ。浅黒い肌で白く眼の周りを縁取りした、えらく派手な服装をした山姥っていう鬼女のね。すごく気持ち悪いって意味らしいわ』
『ほう、その鬼は独特の言葉を持つのか。興味深いな』
『ええ、そいつも昼間でも動ける鬼みたいだし、案外高位で知能も発達しているのかもしれないわね』
 鬼どもは甚太の存在を無視して盛り上がっていた。甚太はその様を眺めるしか出来なかったが、少し間が取れたのは幸いだった。
 落ち着け、激昂するままに斬り掛かって勝てる相手ではない。
 呼吸を整え、一歩前に出る。
「くだらない話はそこまでにしてもらおうか。貴様ら、目的は何だ。何の為に葛野へ向かう」
 刀を突き付けて問う。
 もっとも答えが返ってくるとは思っていない。どちらかと言えば、この行動も普段の自分を取り戻すための時間稼ぎだ。
 しかし、意外にも鬼は素直に答えた。
『目的……言うなれば未来、だな。我ら鬼の未来。その為だ』
 表情はいたって真剣。嘘を言っているようには見えず、だからこそ甚太は少なからず動揺する。
 さらに問い詰めようとするが、いかにも退屈そうに鬼女が欠伸をした。
『取りあえずの目的は達成したんだし、そろそろ帰らない?』
 ぐっと伸びをして、三又の槍を肩に担ぐ。鬼女は返答も待たず甚太へと背を向けた。巨躯の鬼もそれに同意し頷いて見せる。
『そうだな。人よ、詳しいことが知りたいならば追って来い。今は森の奥の洞穴を根城にしている』
「そして罠を張って待ち構える、か?」
『さて。しかし一つ言っておこう。鬼は嘘を吐かん。人と違ってな』
 にたりと勝ち誇るような顔を見せると、鬼はその場を後にする。
 それを止めることはしないし、できない。さすがに、二匹を同時に相手取るのは無謀だ。去るというのならそちらの方がいい。
 奴らは何かの目的をもって葛野に侵入しようとしていた。おそらく長が言ったように、白夜か宝刀夜来のどちらか。ならば、もう一度相まみえることになる。そしてその時は、巫女守として身命を賭した戦いに挑まなければならないだろう。
 恐怖を感じはしない。元より自身が選んだ道。違えるつもりなど端からなかった。
「ままならぬものだ」
 それでも、自ら選んだ道の険しさを前に、甚太は小さく溜息を吐いた。

3

 甚太がまだ幼い頃、元治は鬼との戦いで命を落とした。
 家を捨て、父親との縁を切った甚太にとって、元治は剣の師であり義父でもあった。
 多分、憧れていたのだと思う。だからこそ余計に最期の瞬間が、強大な鬼に全霊をもって挑む元治の背中が、強く脳裏に焼き付いている。
 ──甚太。お前は、憎しみを大切にできる男になれ。
 それが義父の遺言だった。
 巫女守となり、研鑚を積んで、少しは強くなったつもりでいるけれど。
 あの言葉の意味は、今も分からないままだ。

「二匹の鬼ですか」
「は。鬼女の方は既に葛野へと入り込んだような口ぶりでした。偵察か、他に目的があったのかは分かりませんが」
 夕刻、いらずの森より戻った甚太は、その足で社を訪れた。
 既に日は落ちようとしていたが、報告を受けて集落の権威が集まり、頭を抱えている。
 いずれ、鬼がここに攻め入ってくるのか。
 浮足立つ男達が口々に不安をこぼす。その中で長だけが冷静だった。
「やはり目的は姫様か、あるいは夜来か」
 ふむ、と一度頷き顎を左手で軽くいじる。長はしばし考え込み、次いで御簾の向こうに視線を送った。
「もし、狙いが姫様だというのなら……今朝の件、考えていただけますね?」
「……ええ、分かっています」
 白夜は明らかに沈んだ声だった。
 今朝の話し合いには、甚太は呼ばれなかった。いかなる内容か把握してはいないが、その反応を見れば彼女にとって不都合なものだったことくらいは分かる。
「長、今朝の件とは」
「なに、鬼の襲来が頻繁ならば備えも必要だろう、という話だ」
「備え、ですか」
 うまく躱されてしまった。弁舌の未熟な甚太では、老獪な集落の長を突き崩すことなどできるはずもない。どのように聞いても望む答えは返ってこないだろう。
「今は、それよりも二匹の鬼への対策を考えるべきだな」
 その証拠に、長はあからさまに話題を変えようとしている。とはいえ発案自体は納得できるものなので、甚太も静かに頷いて応えた。
 巨躯の鬼の力量は脅威だ。一対一でも中々に骨が折れる。負けるつもりはないが、そこに鬼女が加われば、確実に勝てるとも言い切れなかった。だとしても、手をこまねいている訳にもいかない。
「私が鬼の探索に当たりましょう」
 勝ち目が薄くとも、この身が巫女守ならば挑まねばならぬ相手だ。覚悟をもって言い切るも、意見は即座に却下される。
「いや、甚太は葛野一の剣の使い手。鬼の存在が明確になった以上、出来れば集落にいてもらいたい。鬼が洞穴を根城にしているというのなら、まず男衆を募って調べさせるべきだ」
「おお、それはそうだ。お前がいない時に襲われたら一溜まりもないからな。もしも以前のようなことがあったら……」
 集落の男達は鬼の襲撃を恐れ、どうにか甚太を留めようとする。そこまで過敏に反応するのは、おそらく先代のいつきひめ、夜風の末路が脳裏を過ったからだろう。
 もう何年前になるか、まだ甚太が幼かった頃の話だ。ある日、突如として一匹の鬼が葛野に現れた。人の身の丈を遥かに上回る巨躯。皮膚がなく、筋肉や臓器が剥き出しになった、見るも醜悪な異形だった。あのような化け物が一体どこに潜んでいたのか。そいつは何の前触れもなく出現したかと思えば社の本殿を襲撃し、そのまま夜風を殺害し、死骸までも喰らったのだ。
 鬼はあまりにも強大。その力は尋常ではなく、集落一の剣の使い手である元治でさえ及ばなかった。
 ──惚れた女さえ守れない……ったく、情けねぇなぁ、俺は。
 守り人でありながら、いつきひめを守れず。夫でありながら、妻を救えず。けれどせめて集落を守ろうと、元治は全霊をもって鬼に挑んだ。比喩ではなく、全霊。鬼を討ち倒せるならば、死すらいとわぬと、一太刀に全てを込めた。
 結果、元治の命と引き換えに鬼は討伐され、どうにか葛野の平穏は保たれたのだ。
「申し訳ありません。私が軽率でした」
 あの時は元治が集落にいた為、最悪の事態は回避できた。それを考えれば、巫女守が軽々しく動くのは確かに得策ではない。
「ああ、うむ……」
「そう気にするな。あの件に関しては、甚太が一番、な」
 甚太が謝罪すると、男達は困惑した様子で互いに顔を見合わせた。
 彼等も知っているからだ。元治は鬼と相打ちになり命を落とした。その最後の戦いを、途中までとはいえ甚太は見ていた。
 ──後は任せた。白雪を頼む、んで鈴音と仲良くな。
 幼い自分を背にかばい、鬼へ挑む義父の姿を今でも覚えている。おそらく、元治が無謀な戦いを止めなかったのは、甚太を守る為でもあったのだろう。
「すまんな、嫌なことを思い出させて」
 古傷を抉るような真似をして申し訳ないと、男衆が頭を下げる。それが甚太には少しくすぐったい。彼らが、ちゃんと自分を元治の息子として扱ってくれることが嬉しかった。
「いえ、お気遣い感謝いたします。しかし今は……」
「おお、そうだ。まずは対策を練らねばな」
 昔話はここまでと、改めて現状に目を向ける。
 しかし有用な策もなく、男達はああでもないこうでもないと言い争っている。議論は長く続いたが、決定打となるような意見は出てこない。
「姫様はどうお考えで?」
 長の発言に、視線が一斉に御簾へと向かう。ざわめいていた社殿はいつの間にか静まり返り、誰もが巫女の指示を待っていた。
 緊迫した空気だが、白夜は動揺を見せない。
 ここでいつきひめが揺らいでは皆が不安になる。だからこそ彼女は堂々と、いっそ尊大とも思えるほどにはっきりと命じた。
「甚太は一日の休息を。いらずの森の探索は、集落の男を集めましょう。相手は巫女守と相まみえ、なおも生き延びたほどの鬼。探索は社の衛兵も使い、決して無理はせぬように」
「それがよろしいかもしれませんな」
 長が納得し深々と頷けば、男達も揃って賛同する。
 それが甚太には内心喜ばしく、込み上げてくる笑みを必死に押し殺す。白夜が、いつきひめとして皆をまとめあげて見せた。葛野の為に巫女となった彼女の毅然とした態度が、我が事のように誇らしかった。
「日も落ちました。今日のところは皆下がりなさい。ああ、甚太。貴方には聞きたいことがあります。しばし時間を」
「御意」
 白夜が場を取りまとめ、滞りなく会合は終わった。
 残された甚太はいつも通り周りの気配を探り、誰もいなくなったのを確認して立ち上がった。
 ではこちらに──促されるままに御簾を潜れば、先程の態度からは想像もできないほど物柔らかに迎えられる。
「ん、今日もご苦労様」
 既に彼女は白夜ではなく、白雪になっていた。
 相変わらずの変わり身に驚かされる。甚太は思わず感嘆の息を吐いた。
「何というか、見事だな」
「なにが?」
「そういうところがだ」
 小首を傾げながら聞き返してくる。どうやらよく分かっていないらしい。
 葛野の繁栄の為に、いつきひめとなった白夜。幼い頃を共に過ごした白雪。どちらも彼女の真実なのだとは重々理解しているが、この切り替えの早さは一種の才能だろう。
「よく分からないけど……とりあえず座って。疲れたでしょ?」
 言われた通りに腰を下ろすが、神前であぐらをかくのは気が引けて自然と正座になる。そういう融通の利かなさが面白かったようで、白夜はくすりと小さく笑う。
「もう少し寛げばいいのに」
「性分だ。勘弁してくれ」
 仕方がない人だとでも言いたげに白夜は肩を竦める。しかし一瞬の間を置くと、今度は心配そうに問うた。
「ね、大丈夫そう?」
 鬼のことを指しているのだろう。甚太の身を案じ、彼女の目は過る不安に潤んでいる。
「厄介ではあった。だが、手に負えないということもないさ」
 負けるつもりはないが、二匹の鬼を相手取って確実に勝てると言えるほど自惚れてもいない。次に相まみえた時、どう転がるかは正直なところ分からなかった。
 けれど気負いなく答える。
 見栄は多分に含まれていただろう。それでも、あまり情けない姿は見せたくない。
 強がりの甲斐はあったようだ。少しは安心できたようで、ほぅと白夜が安堵の息を吐く。
「そっか、なんか結構余裕あるね」
「相応の研鑚は積んできたつもりだ」
「……うん、知ってるよ。ずっと見てきたんだから」
 思い起こされる懐かしい記憶。彼女の父、元治に毎日のように稽古をつけてもらっていた幼い頃。白雪はいつも応援してくれた。それは今なお忘れ得ぬ幸福の日々、甚太の始まりの景色だった。
 ふと蘇る遠い昔に胸が温かくなる。彼女も同じだったようで、互いに顔を見合わせては、何とも言えない照れ笑いを浮かべた。
 そんな折、ちらりと畳の上を見ればいく冊かの本が無造作に置かれていることに気付く。
 あれはなんだろうか。
「あ、それ? 清正の本」
 清、正?
 一瞬息が止まる。温かかったはずの心が一気に凍りついた。
 何故、あの男の持ち物がこんなところに。
「ほら、私は外に出れないでしょ。だから、暇潰しに読本を持ってきてくれるの」
「そう、か」
 何気なく語る様に、ひどく動揺している自分がいた。
 普段から社を出られない暮らしが退屈なのは、考えればすぐに分かることだ。だが甚太は、そんなところにまで気が回らなかった。対して、清正は彼女の心を理解し配慮していた。その事実に言い様のない焦燥を感じる。
「清正は自分でも本を書いてるんだって。それも読みたいって言ったら恥ずかしがっちゃって、顔なんか真っ赤で……」
 甚太の知らないやりとりを語りながら、白い歯を覗かせる。はずむ明るさは、きっと今まで自分だけが見てきたものだ。
 ──お前にはそれしかできねぇからな?
 以前の嘲りが脳裏を過り、ちりちりと頭の奥が焦げる。
 ああ、もしかしたら。あの男がぶつけたそれは真実で。
 本当の意味で白雪を守ってきたのは───
「甚太?」
 意識が現実に引き戻される。奇妙な妄想に取りつかれ霧が立ち込めた頭の中を、不思議そうにしている白夜が晴らしてくれた。
「あ、ああ。なんだ?」
「ん、どうかしたのかなぁと思って。考え込んでるみたいだったから」
「何でもない。気にするな」
 そう、何でもない。わざわざ彼女の耳に入れるようなものではない。
 守ると誓った。白夜に安寧が与えられるのならば、誰の手からであっても喜ぶべきなのだ。
 心を落ち着け、自身に言い聞かせ、必死に平静を装う。
「……ね、明日どこかに遊びにいこっか?」
 今までの流れを無視して、白夜が唐突に話題を変えた。悪びれない様子は、細面の娘でありながら、どこか悪戯小僧を思わせる。
「待て、そんなこと」
「久しぶりにいらずの森とか、戻川に魚釣りとか。あ、甘いものも食べたい。ちとせちゃんとこって、確か茶屋だったよね? お団子食べながらゆっくりするのもいいなぁ」
 指折り数えながら「あそこへも……」と語り始める。
 社から出るなど許されないと、本人が一番理解しているだろうに。
「そうだ、集落も見て回ろう。私がここで暮らし始めてからもう何年も経つし、たまには自分の住む村を見てみたいから」
「待てと言っている」
 少し強めに彼女の夢みたいな話を止める。
 白夜は楽しそうな、違う、楽しそうに見えるよう作った表情を張り付けていた。
「……お前こそ、どうかしたのか」
 その問いに、一瞬だけ白夜の体が強張り、細い肩が震えた。
「なんで?」
 しかしすぐにいつもの彼女に戻り、不思議そうに小首を傾げる。幼げな仕草。可愛らしくはあるのだが、今は騙されてやることは出来ない。
「白雪」
「何でもない。気にするな」
 改めて問い詰めようとして、茶化したような物言いで遮られる。
 先程甚太は本心を隠したが、白夜はそれを慮り聞かなかった。だから、同じように聞いてくれるな。そう言いたいのだろう。だが、自分でも卑怯とは思うが、それは出来なかった。
「お前は昔から好奇心が強く、女だてらに男よりも行動的で慎みとは無縁だった」
「……なんで、いきなり罵倒されてるの私?」
「だが、周りに気を遣い、辛い時にこそ笑っていた。言いたくないことがある時、お前はいつもはしゃいでいたな」
「う……」
 図星だったらしく、ばつの悪そうな顔で言い淀む。
 白夜がはしゃいでいるのは、何か言いたくないことがあるから。そしておそらく、それは甚太にも言わなければならない大切な何かなのだろう。長い時間を共に過ごしたから理解できる。だからこそ聞かない訳にはいかない。先延ばしにすれば、後々苦しむのは彼女自身だ。
「甚太は、ずるいよね」
 先程の遣り取りを指しているのだろう。自分の嫉妬は隠しておいて、彼女の本心を聞き出そうとする。成程、確かにそれはずるいのかもしれない。
「それを言われると弱いな」
 肩を竦め、けれど視線は逸らさない。真剣さは心から慮ればこそ。それを分かっているから、たじろいだ彼女はしばしの逡巡の後、降参して溜息を吐いた。
「はぁ……隠し事出来ないな」
「すまん」
「ううん、ありがとう、だよ。だって、ちゃんと言わないといけないから。先延ばしにしようとした私が間違ってた」
 そう言った彼女には、どこか涼やかな趣がある。吹っ切ったのか、諦めたのか。いやに透明で、感情の乗り切らない微笑みだ。
「……あの、ね。伝えたいことがあるんだ。とっても大切なこと。だから、明日一日、私に付き合ってくれないかな?」
 絞り出すような、小さな願い。
 断ることなんて考えられず、ゆっくりと首を縦に振る。
 はにかんだ彼女は、まるで暗夜に灯火を得たような、なのに鮮やかな喜びは、瞬きのうちに消え失せる。
 背けた視線。白夜は一抹の寂寞を横顔に滲ませて、そっと目を伏せた。

4

 白雪の母、夜風は彼女が九つになった時に亡くなった。
 当時の巫女守であった父、元治はいつきひめを喰らったという鬼を命懸けで封じた。
 文字通り、命懸けで。
 こうして、白雪は一人になった。

 慎ましやかに終わった元治たちの葬儀の日の夜半、白雪と甚太は集落から離れ戻川を一望できる小高い丘に訪れた。
 川は星を映して流れ往く。
 たゆたうように水辺を舞う光は、蛍か、それとも鬼火か。
 見上げた空。月明かり。
 二人並んで眺めれば、ほんの少しだけくすぐったかった。
「甚太、私ね。いつきひめになるんだ」
 何気なく、何の気負いもなく、少女は告げる。
 そもそも、いつきひめは代々白雪の家系が担う役。彼女が火女(ひめ)となるのは当然の流れだ。
 だが、甚太には分からない。
 なんで、彼女はそんなことを。巫女であったが故に鬼に喰われた母、その仇を取るために命を落とした父。悲しい結末を知りながら、いつきひめになると。どうして平然と口に出来るのか。
 そう問いたかった。
 けれど少女に静かな決意を感じ取り、何も言えなくなった。
「おかあさんの守った葛野が好きだから。私が礎になれるなら、それでいいって思えたんだ」
 幼さの消えた横顔。その瞳は何を映しているのだろう。
 きっと流れる水ではなく、もっと美しい景色を見ている。そんな気がした。
「でも、もう会えなくなるね」
 白雪は知っている。いつきひめになれば、甚太や鈴音においそれと会えなくなる。けれど、それでいいのだと。白雪は生まれ育ったこの地、葛野と、そんな集落を支えた母のことを愛しているのだ。
 だから、その選択は当然だった。
 その為に、自分が色々なものを諦めるくらい、彼女には何でもないことだったのだろう。
「なら俺が会いに行くよ」
 自然と、そう口にしていた。
 甚太は幼馴染の少女を初めて美しいと感じた。
 出来れば、彼女には自身の幸福のために生きてほしいと思う。先代の顛末を知ればなおのことだ。しかし白雪は母の末路を知りながら、それでも同じ道を歩むと、他が為にあろうと、幼さに見合わぬ誓いを掲げた。
 美しい、と。
 そのあり方を美しいと感じ、だからこそ守りたかった。
「今はまだ弱いけど。俺、強くなる」
 子供の発想、けれど真剣に。
 強くなれば、どんなことからも彼女を守れると思った。
「強くなって、どんな鬼でも倒せるようになる。そうしたら巫女守になって会いに行くよ」
 紡ぐ言葉は祈りのように。
 強くなりたいと。彼女の強さに見合うだけの男でありたいと、心から願う。
「その時には、俺が、お前を守るから」
 何かに堪え切れず、白雪は涙をこぼした。濡れた瞳には先程までとは違う光が宿っている。流れる涙を拭うこともせず、ただ彼女は柔らかに笑った。
「ね、甚太。おかあさんは、いつきひめになってからおとうさんに会って、それで結婚したんだって」
 その笑顔に甚太は思う。
 大丈夫だ。二人なら、遥かな道もきっと越えていける。
「私はいつきひめになったら、甚太を巫女守に選ぶから──」
 風が吹いて、木々が微かにざわめく。
「甚太は、いつか私のことをお嫁さんに選んでね!」
 遠い夜空に言葉は溶けて、青白い月が薄らと揺れる。森を抜ける薫風は、するりと指からこぼれ落ちるように頼りなくて、ほんの少しだけ切なくもなった。
 だから二人はどちらからともなく手を繋ぎ、静かに空を眺めた。
 言葉と一緒に心まで溶けていきそうな、そんな夜だった。

「甚太、もう朝だよ。起きて」
 まどろむ意識がゆっくりと引き上げられる。
 揺さぶられる心地よさがより眠気を誘う、緩やかな朝のひととき。
「鈴、音……?」
 いつまでも寝ていたいと思う。しかし、そういう訳にもいかない。
 気怠さを噛み潰し、重い瞼をゆっくり開け、起こしてくれた妹に礼の一つも言おうとしたが、何やらおかしい。
「おはよ」
 艶やかな長い黒髪に、雪の如く白い肌。緩やかに下がった目尻。その甘やかさに呆け、段々とはっきりしてきた頭が違和感で停止した。
「もう、仕方無いなぁ、甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。ちゃんと一人で起きられるようにならないと駄目だよ?」
 そこにいたのは、そこにいないはずの人物。
「………白……雪?」
 口にして、そのあり得なさに思わず唖然となった。
 いやまて、おかしい。なんでこんなところにいる。
 寝ぼけていた意識は一気に覚醒し、だが目は覚めても状況が理解できない。何故か分からないが、社から出て来られないはずの白夜が自分を揺り起こしている。しかも着ているのは、いつもの巫女装束ではなく薄桃色の着物。長い黒髪も後ろでまとめている。
 なぜ彼女はそんな恰好をしているのか。
「そんな恰好、って酷いなぁ。可愛いでしょ?」
 口にしなかったこちらの内心を正確に読み取って、白夜は小さく笑う。
 随分と楽しそうだ。普段と違う衣装に浮かれているのか、くるりと一回転してみせる。
 確かに可愛らしくはあるのかもしれない。が、そんな場合ではないと気付き甚太は白夜に詰め寄る。
「お前は、なんで、ここに?」
 甚太の胸中は乱れに乱れていた。動揺しながらもどうにか言葉を絞り出すが、当の本人は平然としたものである。
「なんで、って。昨日言ったでしょ。だから約束通り抜け出してきたの」
 抜け出してきた?
 なんということを。いつきひめというのは姿を衆目に晒さない。それは単なる掟ではなく、巫女の神聖さを保つために必要だからだ。だというのに、彼女は何を普通に出歩いているのか。
「大丈夫、今の私の顔を知ってるのって、ええっと、社の人と長、甚太に清正、後はすずちゃんくらいだから。外を出歩いても、私だと気付かれないと思うよ」
 こちらの内心を正確に読み取り、安心させるように柔らかく窘める。
 何が大丈夫なのか全く伝わってこない。慌てる甚太をよそに、白雪はのん気に微笑んでいた。
「しかし、鬼がお前を狙っているというのに」
「それなら甚太の傍が一番安全でしょ?」
「私は鬼を探し出し、討たねばならん」
「昨日言った通り、鬼の居場所が分かるまで出番はないよ。少なくとも今日は待機になるかな」
「だが、長にばれたら」
「大丈夫、今日のことに関しては長も了承済み」
 それ以上は続けられなかった。
 何という根回しのよさ。最初から逃がす気はないらしい。
「他には何かある?」
 完全に勝利を確信しきった、得意げな顔だ。実際、反論はほぼ封じられている。
「……お前の強引さには敵わん」
 苦々しく眉間に皺を寄せる。吐き出せたのは負け惜しみくらいだった。

「せっかくひめさまが来たんだから、もっとおいしいものを出せばいいのに」
 起きてきた鈴音を含め三人で朝食を食べる。いつも通りの麦飯と漬物が不服なのか、鈴音は口をとがらせていた。
「そう言うな」
「にいちゃん、甲斐性なし?」
「殴るぞ」
 実際、甚太は料理などほとんどできず、麦飯も近所で一緒に炊いてもらっている始末。甲斐性なしと言えばそうなのだろうが、あまりにも直接的な鈴音の物言いに、応対は憮然としたものになってしまう。そんな兄妹のやりとりを見ていた白夜が、半目でぽそりと呟いた。
「できないくせに」
「何か言ったか」
「だって甚太は甘いし、すずちゃんを殴るなんて絶対無理でしょ?」
 そこで「なんでもない」と誤魔化さない辺りが白雪だった。どうやら彼女には、妹を叱ることもできない甘い兄だと思われているらしい。それは思い違いだと、甚太はむっつりとしたまま答える。
「百歩譲って、私がこいつに甘いのは認めよう。だが、兄として叱るべき時には叱るし、必要ならば手も上げる」
「ふぅん」
 気の乗らない返事、完全に信じていなかった。白夜はどうでもいいとでも言いたげにぽりぽりと漬物を齧っている。
「でも、絶対無理だよね……」
「あ、やっぱりすずちゃんも、そう思う?」
「うん、だってにいちゃんだもん」
「お前ら本気で殴るぞ」
 身を寄せあってちらちらと甚太を見ながら、ちゃんとこちらに聞こえる声の大きさで二人して内緒話をしている。
 懐かしい、というべきか。子供の頃にも似たような構図は何度もあった。勿論冗談だと分かっているので、腹を立てるようなことはない。とはいえ、いつまでも子供のままではない。毅然とした態度で甚太が食事を続けていると、鈴音が提案してきた。
「じゃあ、試しに殴ってみて? こつん、でいいから」
 思わず呆気にとられて視線を向ければ、妹が小さな頭を甚太の前に差し出す。白雪もその意見に案外乗り気のようで、なにやら期待を込めた目で観覧していた。
 いかん、本気で舐められている。いい加減ここらで、おしおきをしてやらないといけない。そう思い拳を軽く握り締めたところで、鈴音が真っ直ぐに甚太の目を見た。そしてゆるりと、絡まった紐が解けるように、柔らかく微笑む。
 ぐっ、と息が詰まり、それでおしまい。振り下ろす先を失った拳は解かれて、もう一度膝の上に戻ることになった。
「必要ならば、手も上げる?」
「……まあ、別に悪さをした訳でもないしな」
「うん、そうだね」
 白雪は見透かしたように、にまにまと。
 昔から、彼女には勝てなかった。しかし考えてみれば、鈴音にも勝てたことなどなかった。相も変わらぬ自分の弱さに思わず溜息がこぼれた。

「いってらっしゃーい!」
 朝食を終え、白雪に急かされて出かける準備を整える。玄関で見送るのはあまりにも元気な鈴音で、にこにこと笑顔を絶やさない。
「鈴音……何か嬉しそうだな」
 いつになく機嫌のいい妹に違和を感じて聞けば、朗らかに答える。
「うんっ! だって、にいちゃんは、今日一日ひめさまと一緒なんでしょ? だから、すずも嬉しいの」
「何故それが嬉しい」
「すずはにいちゃんが大好きだもん。だから、にいちゃんが幸せだと嬉しいの」
 それはつまり、白雪と一緒にいる時の自分は幸せそうにしている、ということだろうか。少しばかり問い詰めたくなったが、鈴音が楽しげだから突っ込むのも野暮と思い聞かなかった。
「そう、か。済まない、留守を頼む」
「うん、たのしんできてねー」
 ぶんぶんと大げさに手を振る鈴音に、こちらも軽く手を挙げて応える。
 まったく、あそこまで気合いを入れなくてもいいだろうに。
「ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」
 それには同意するが、やはりもう少し我がままになってほしいとも思う。
 まあ、今日のところは鈴音の言う通り、折角の機会を楽しむべきだろう。
 甚太と白雪の足取りは軽く、互いにくすりと小さく笑い合って家を後にした。
「たのしんで……きてね」
 だから、遠く寂しそうに呟いた鈴音の声を聞き逃した。

「お、甚太様。その娘は?」
 のんびりと道を歩いていると、すれ違う二人の男に呼び止められた。
 葛野の守り人たる巫女守が、見慣れぬ少女と手を繋いで歩いているのだ。集落の民は皆一様に驚き、珍しいものを見たとからかい交じりに話しかけてくる。道中、既に数度同じやりとりをしている為、いい加減面倒にもなってくるが、そこは顔には出さない。
「古い知り合いです」
「今日は久しぶりに来たので、集落を見せてもらっています」
 嘘は言っていない。以前は共に暮らしていたので古い知り合いには間違いないし、白夜が葛野の集落を見るのも久しぶりだ。
「巫女守様、いい人がいたんすねぇ。浮いた話の一つもないから、結構心配してたんですが」
「いやはや。甚太様もそういうお歳になりましたか。小さな頃を知っているだけに、感慨深いですなぁ」
 しみじみと頷く男達。狭い集落ゆえ住人のほとんどは親戚のようなもので、こういった話題はなんとなく照れが交じる。しかし、白夜はそうでないのか、甚太の腕を取り、見せつけるように体を寄せた。
「いいひと、だって」
 顔が熱くなる。驚いて視線を落とせば、彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。
 傍から見れば、まさしく恋仲だろう。仲睦まじく寄り添う姿を男達は生暖かく見守っている。
「おい」
「やだ」
 離れろ、と言う前に拒否された。
 さすがに人前で腕を組むというのは恥ずかしい。寄り添う体から彼女の温度を感じる。残念ながら胸の膨らみが致命的に足りていない為、触れる感触は申し訳程度というところだが。
「今、絶対失礼なこと考えたよね?」
「微妙につねってくるな」
 こちらの内心を察した白雪が脇腹をつねる。
 鍛えに鍛えた体を揺るがすほどではないが、精神的には痛かった。
「巫女守様も女性には弱いのですなぁ。もう尻に敷かれてるとは。よいかなよいかな、男は尻に敷かれてやるくらいが夫婦円満の秘訣です」
「いや、ちとせが泣くな。姫様も残念がるかもしれませんよ」
 他にも二言三言付け加え、散々からかって満足したのか男達は笑いながら去っていく。
 鬼を相手取るよりもよほど疲れた。人心地ついて胸を撫で下ろす。取り敢えず白雪の正体には気付かなかったようだ。
「……その姫様が横にいるのだが」
「ね、ばれないでしょ?」
 確かに意外と気付かれないものである。それでいいものなのだろうか、と思わなくもないが。
「まあ、深く考えても仕方ないか」
「そうそう、細かいことは気にしないの」
 白雪がさらに強く体を寄せた。鼻腔をくすぐる彼女の香に少しだけ鼓動が速くなる。それを、心地よいと思った。

「あ、甚太様! いらっしゃい……ませ?」
 訪れたのは葛野に一軒だけある茶屋。
 本来、たたら場に茶屋があること自体珍しい。しかし、この店は何代か前の巫女守が「せめてもの娯楽を」と建てさせたものらしい。所以はともあれ、今では集落の数少ない憩いの場となっていた。
「ちとせ、邪魔するぞ」
 茶屋の娘、ちとせが目を丸くしてこちらを見ている。前日、鬼の侵入の件の報告で随分久しぶりに会ったかと思えば、翌日、今度は店に訪ねてきたのだ。そもそも甚太は普段、茶屋を利用しない。鈴音とちとせが疎遠になってしまってから、自然と足が遠のいて、今では訪れる機会など滅多になかった。
 珍しさに加えて脇に彼女の見知らぬ女性がいるからか、ちとせは困惑しているようだ。
「あの、その方は?」
「知り合いだ。それ以上は聞いてくれるな」
「はぁ……。あ、と。すみません。ご注文は?」
 納得がいったのか、いかないのか、微妙な反応だ。けれど、いつまでも呆けていても仕方ないと思ったのだろう。思い出したようにちとせが注文を聞くと、勢いよく白夜が手を上げた。
「お団子を……ええと、十本!」
「二本でいい。あと、茶を」
「えー」
「また腹を壊すぞ」
 彼女は普段食べられないせいか、機会があると甘味を大食いする癖があった。しかし、元々多く食べる方ではなく、いつも食べ過ぎで苦しみ、繁縷を煎じた胃腸薬の世話になっている。既にその様を何度も見ているのだから、止めるのは当然だろう。
「はい、少し待って……てくださいね。おとーさん!」
「おう、聞こえてた!」
 父親と元気のいいやりとりをしながら、ちとせは店の奥へ引っ込む。
 その後ろ姿を眺めていた白夜がぽつりと呟いた。
「ちとせちゃんも気付かないかぁ」
 投げやりな、僅かに寂しさを含んだぼやき。ちとせは元々鈴音の友人で、幼い頃には白夜と遊ぶ機会もあった。気付いてもらえなかったのが、それなりに堪えたらしい。
「何年も顔を合わせてないんだ。仕方あるまい」
「分かってはいるんだけどね」
 理屈では分かっていても、感情までは納得出来ないといった様子だ。
 二人して店の前の長椅子に腰を下ろす。横目で盗み見たその表情は曇ったままで、まるで置いてけぼりをくらった子供みたいに足をぶらぶらとさせている。
「お待たせしましたー」
 しばらくすると、小さな盆を片手にちとせが戻ってきた。
 長椅子の上に置かれたのは、湯呑が二つと、団子とは別に注文していない小皿もある。
「これは?」
「磯辺餅。お好き、でしたよね?」
 餅など正月くらいしか食べる機会がない。滅多に食べられないせいもあるだろうが、何が食べたいと言われて最初に思い浮かぶのは餅だ。同じ餅なら磯辺餅がいい。思い出も色々とある。そう言えば随分と昔、彼女にそんな話をしたこともあった。
「覚えていてくれたのか」
 意外さに目を見開けば、ちとせはぎこちない照れ笑いを浮かべている。
 出された磯辺餅は、巫女守ではなく甚太への気遣いだった。
 驚いた顔が嬉しかったらしく、ちとせは元気よく首を縦に振った。
「はいっ。ちょうどあったんで、折角ですから」
「済まん、ありがたく頂こう」
「ゆっくりして、いってください」
 小さくお辞儀をしてまた店の中に戻っていく。
 甚太は少しだけ口元を緩めた。餅を出してくれたことよりも、餅が好きだと覚えていてくれたことが嬉しかった。
「甚太だけ特別扱いされてるー」
 白夜は団子を食べながら不満そうに頬を膨らませている。自分が忘れられているのに甚太のことはしっかり覚えているというのが、気に食わなかったらしい。
「だから仕方ないだろう」
「でも、複雑……というか、ちとせちゃん、なんか変じゃなかった? 妙に緊張してたみたいだけど」
 ちとせの拙い敬語には、白夜もやはり違和感を覚えたようだ。
 それに関しては甚太も同じだが、仕方のないことでもある。
「あの娘にとって、今の私は『甚太にい』ではなく『巫女守様』だということだ」
「あ……そっか」
 結局は、昔とは立場が違う。何もかも昔のままでなど、どだい無理な話だ。
 いつきひめ程ではないにしても、巫女守もまた畏敬の対象と成り得る。そしてちとせも、もはや小さな子供ではない。そこに思い至ったらしく、白夜はばつが悪そうに目を伏せた。
「今更ながらに、お前の苦労が分かるよ」
 冗談交じりにこぼしながら肩を竦める。
 ただの笑い話だから気にするな、と。
 こちらの気遣いの意を汲んだのだろう、白夜も敢えて茶化した物言いで返す。
「でしょ? いつきひめは大変なのですよ、巫女守様?」
「はは、やめてくれ」
 いつきひめ。巫女守。
 思えば、お互い自由な「自分」ではいられなくなってしまった。
 変わらないものなんてない。白夜の父、元治の口癖だ。歳月が経ち、あの頃のように無邪気ではいられなくなった今、彼の遺した言葉がことさら重くのしかかる。
「変わらずにはいられないものだな」
 周りも、自分自身も。
 白夜は何も返さなかった。彼女が、それを誰よりも知っているからだろう。

 集落で社の次に目立つのは高殿と呼ばれる建物である。
 高殿はたたら製鉄の要で、建物の中には大型の炉が設置されている。これに砂鉄とたたら炭を入れ、数日昼夜問わず鞴を踏み続けることで鉄は造られる。当然、高殿の中は尋常ではない程に室温が高まり、近付くだけでもその熱気が感じられた。
「入るか?」
「ううん、やめとく。邪魔したくないし。いこっか?」
 遠くから高殿を眺めていた白夜が反対方向に歩き始める。その表情はどこか嬉しそうだ。背後からは男達の声が聞こえてくる。内容までは聞き取れないが、炉の熱気にも負けない程の熱がそこにはあった。
「嬉しそうだな」
「うん。お母さんも、きっとこんな葛野を守りたかったんだろうな、と思って」
 足取りは軽く、とんとんと拍子をとるように二歩三歩進む。
 白夜は上機嫌で、放っておいたら鼻歌でも歌いそうなくらいだ。
「私ね、鉄を造るところって好きなんだ。いい鉄を造るために、皆が力を合わせてるのが分かるから。……いつきひめになったことで、少しでもあの人達の支えになれたなら、すごく嬉しいな」
 そう言った白夜は、いつもよりも大人びて見えて、いつもよりも綺麗に見えた。
 ──おかあさんの守った葛野が好きだから。私が礎になれるなら、それでいいって思えたんだ。
 いつか彼女が口にした想いは、今も変わらない。
 当たり前のように誰かの幸せを祈れる。白夜は昔からそういう娘で。だからこそ、守りたいと甚太は願った。
「集落の柱が謙虚だな。皆、お前がいるから安心して暮らせるんだ」
「ふふっ、ありがと。でも、それは甚太もだからね」
「私は、それほど大層な真似は」
「巫女守様がなに言ってるの。あ、もしかして照れてる?」
「放っておけ」
 のんびりと歩く、見慣れた景色。
 夜風が育み、元治が守ろうとしたもの。今なら少しだけ分かる気がする。彼等はきっと、昔ながらの葛野を守り続けたかったのだろう。特別なものなど何一つない、当たり前の、小さな小さな幸福。その眩しさに目を細める。
「なあ」
「うん、お母さん達にも挨拶しておこうか」
 同じように感じてくれているのか、ふと視線が合えば、白雪もまた微かに目尻を下げている。
 そんな二人だから、次の行先は自然と決まった。甚太達の足は、義父母の眠る場所へと向いていた。

 葛野では、亡骸は火葬するのが一般的だ。
 遺骨のいくつかは砕いて粉にして、いらずの森の奥に撒く。産鉄の集落において火は神聖なるもの。焼くことで死骸のケガレを祓い、灰となった後は土に還し、木々の養分とする。失われた民の命が森を育て、伐採された木はたたら炭となり、新たな鉄を産み出す。葛野の葬儀は、死者を弔うと共に、火を通して行われる死と新生の儀式でもある。
 それはいつきひめや巫女守でも変わらない。参る墓などありはせず、故人を偲ぶには、いらずの森を眺めるのがせいぜいだった。
「あまり、奥には入れないぞ」
「大丈夫、分かってる」
 普段ならともかく、今は白夜を森の奥へは近付けたくない。それは彼女も納得しており、二人して遠くから森を見詰める。
「でも、こんな機会なかなかないから。一度、来たかったんだ」
 この森の奥に、元治と夜風の遺灰は撒かれた。白夜にとっては父母の弔われた場所、特別な感慨があるのだろう。勿論、甚太にしてみても同じだ。もう何年も経っているのだから、遺灰も土に還っている。それでもやはり感傷的になってしまう。
「甚太は、ここに来たりする?」
「時折な」
「そっか」
 大袈裟に冥福を祈るほどではないが、たまにいらずの森へ足を運ぶこともある。
 元治に拾われ、夜風が葛野で暮らせるよう取り計らってくれた。甚太にとって彼等は恩人だ。特に元治は剣の師であり、巫女守としては先達でもある。今でも甚太は、飄々としながらも一本筋の通った義父を、心から尊敬していた。
「甚太、お父さんに懐いてたもんね」
「懐く、というか。剣の師だったしな、尊敬はしている」
 実の父が嫌いだった訳ではない。厳しくも優しい、良い父親だった。しかし鈴音への虐待を考えれば、手放しで肯定もできない。その分、元治のあり方に憧れを覚えた。
「変わらないものなんてない……」
「それ、お父さんがよく言ってた」
「ああ。元治さんの教えは難しくて、正直に言えばよく分からないものも多かった。だが、いつだってあの人は、大切なことを教えようとしてくれた」
 いつだったか、元治は言っていた。
 あらゆるものは歳月の中で姿を変える。季節も風景も、当たり前だったはずの日常も、変わらぬと誓った心さえ永遠に続くことはない。どんなに悲しくても、どんなに寂しくても、多分それは仕方ないことなんだろう、と。
 変わらないものなんてない。そう語った元治こそが、本当は誰よりも、歳月と共に変わりゆくものを厭忌していたのかもしれない。だからこそ、必死になって抗おうとした。その行いの尊さを理解できるのは、幼かった時分よりも少しは前に進めた証なのだろう。
「私は、あの人の背中を、今も追いかけているような気がするよ」
 しかし、まだ届かない。巫女守となり、研鑚を積んだ今でも、元治には敵わないと思う。それを悔しいと感じないくらい、甚太にはいつかの背中が大きく見えていた。
「ふふっ、そっか」
「どうした、いきなり笑って」
「そりゃあ、娘としては、父親が褒められたら嬉しいよ」
 心から嬉しそうな表情を見せた白夜が、いらずの森に背を向け、改めて集落を見回す。
「お父さん達みたいに、こういう、変わらない葛野を繋いでいけたらいいね」
 楽しそうに未来を語る白夜の様子に、甚太は小さく笑みをこぼした。同じ想いを共有できるというのは、むず痒くも心地よかった。
 ただ、義父の死に際を思い出したからか、その遺言が脳裏を過る。
 ──甚太。お前は、憎しみを大切にできる男になれ。
 あれは、いったい、どういう意味だったのだろう。

 義父母の思い出を語り合った後は、特に何をするでもなく、集落をただ歩き、時折くだらない話をした。目的などない。元々娯楽の少ない集落だ。見るべき場所などほとんどないが、久しぶりに外を歩くこと自体が嬉しいのだろう、白夜はいつになくはしゃいでいる。引き摺られるように、甚太もまた幼い頃に戻ったような心地で一日を楽しんでいた。
 ただ、一つだけ気にかかる。
 昔から彼女が必要以上にはしゃぐのは、何か言いたくないことがある時だった。

 日はゆっくりと落ち、空は夕暮れの色に染まっていた。
 散々歩き倒して火照った体を冷まそうと集落を離れる。辿り着いたのは、戻川を一望できる小高い丘。いつか、二人で遠い未来を夢見た場所だった。
「風が気持ちいい……」
 真っ白なその肌を夕暮れの風が撫でている。通り抜けるその優しさに黒髪は揺れて、ざぁ、とさざ波のように木々が鳴いた。
「今日はありがと」
「いや、私も楽しんだ」
「そっか、それならよかった。また、私の我がままに付き合わせちゃったから」
「それこそ、いつもだろう」
「あ、ひどい」
 表情が次第に曇っていく。先程までの無邪気な少女は消え、儚げな横顔に変わった。
 橙色の陽を映す川はまだらに輝いて、瞬く光が少し目に痛い。
「もう、いいのか?」
 何気なくこぼした言葉。その意を白夜は間違えなかった。
 隠しごとを話す為の心の準備はできたのか。
「う……ん」
 沈んだ声。空白が転がり込み、しかしようやく何かを決意したのか、戻川に向けられていた視線を甚太へと移す。
 まっすぐ、逸らさない。揺らがぬ決意が彼女の瞳に映り込む。
「ここで、甚太と話したかったんだ。ここは私の始まりの場所。だから、伝えるのはこの場所がいいと思ったの。ね、聞いてくれる?」
「……ああ」
「そっか、よかった」
 笑った。
 けれどその佇まいには色がなくて、そこに秘められたものまでは汲み取れない。
 風がまた一度強く吹き抜ける。木々に囲まれた小高い丘で、彼女は少しだけ近くなった空に溶け込んでしまいそうだ。
 いや、その姿は自ら溶け込もうとしているようにも見えた。
 そして空になった少女は。泣きそうな、けれど同時に強さも感じさせる笑みを浮かべて、
「私、清正と結婚するね」
 そう、言った。

この続きは「鬼人幻燈抄 葛野編水泡の日々」でお楽しみください。

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