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自分の証明~Billy Harperインタビュー記事(2014)

Billy Harperはテナーサックス奏者です。彼の特徴はその猛々しいブロウにあると思います。

今回訳した記事はインタビューをもとに構成された記事です。

それでは行きましょう。

翻訳元の記事↓


ステージ上、直立したBilly Harperはテナーサックスに唇をつけ、ホーンを通して歌を歌う。筋肉質に角ばった力強い音はフィジカルの様相を成す。彼の楽器からはエモーションを感じさせる表現を用い、努力を見せつけない。しかしHarperのクリエイティブ能力は注目を欲している。
近年、ステージ上では多大なエナジーがシーンを沸かし、彼の表現はリスペクトを集めてきた粒揃いのセプテットやCookerと共にあった。
Harperは彼の同志たちの中でも演奏している。Billy Hart, Eddie Henderson, George Cables, Cecil McBee, Donald Harrison, David Weiss、スタープレイヤーであり古くからの友人たちだ。
彼は多作な作曲家でもあり、教育者、何年にもわたって率いてるバンドもある。Gil Evans, Max Roach, Lee Morgan, Charles Tolliver, Randy Weston, the Thad Jones, Mel Lewis big band, Art Blakeyなど多くの人と渡り合ってきた。
オムツを履いていたときから彼のキャリアはスタートする。Harperは注目に値する苦境を体験していた。
最初は独学でサックスを学び、上手に吹けたという。最終的にNorth Texas State Universityの権威あるミュージックプログラムへ進むことになる。しかし当時は人種隔離の真っ最中であり、それらと対峙するのは困難なことであった。Harperは耐え忍んだ。
"おれは即興のジャズにどっぷり浸かってた。おれはこの方法で生きることを学んだんだ。" Harperは言う。思慮深く、真っ直ぐな彼とジャズはとても相性が良いみたいだ。
"いつだって前進さ。ただの音楽じゃなかった。これは道であり、おれの人生。口に出してしまうと可笑しく聞こえるかもしれない。でもおれ自身が音楽だと感じる。おれだけが音楽って意味じゃないよ。音楽がどれくらいおれの一部なのかってことであり、どれくらいおれが音楽の一部なのかってことだよ。他のミュージシャンも音楽を代表してるんだ。
批評家はときどきこんなことを言う 'ジャズは死んだ。' とね。そんなの迷信だと思う。ミュージシャンにその意識があれば音楽はそこに存在する。”
Harperは御年71歳。1973年にファーストアルバム「Capra Black」(Strata East)をリリースし、自身のカルテットも率いている。活動を収録したDVDは60人の合唱団と彼のバンドがフィーチャーされる。Houstonエリアの教会の歌唄隊を使うことは自然な成り行きである。サックスが彼を成長させる前はシンガーであり役者だっただったと考えられる。


The Cookersは4枚のアルバムをリリースしており今年リリースされた「Time and Time Again」は特に際立っている。このバンドはタイト、しかも作曲は力強く(Harperは3曲を手掛けている)、キャリア中ずっとソロイストは光り輝いている。


"素晴らしいグループだよ。みんなで集まって演奏して、また集まっての繰り返しさ。" Harperは言う。"みんなそれぞれ自分のグループを抱えていて、彼らはFreddie HubbardかLee Morganと演奏していた。そうやっておれらにはずっと昔から繋がりがあったんだ。” 
70年代、HendersonはHarperと8年もの間演奏していた。"おれが最初にNew Yorkに行ってから、おれらは親密になったんだ。当時おれは自分のバンドでBilly Hartにプレイさせたがっていた。HartはStan Getzから引き抜かれるまで少しの間おれのバンドにいた(笑)Stanは大金を支払えたからね。"
彼はグループがうまくやれてた理由の一つを語った。”おれらは同じ道筋で歴史を知るんだ。若者のほとんどはサウンドの歴史と目的を知らない。バンドの人間全員がHerbie Hancockみたいな誰かと演奏してた。”
Harperは何十年もサックス界でメジャーな存在であるが、歌こそが彼の原点だった。
"叔父曰く、おれがまだハイハイしてるころラジオから流れていたElla Fitzgeraldのなにかを歌おうとしていたらしい。歩き始める前に歌っていたんだ。その後親戚は歌わせるためにおれを教会に連れていった。歌うためにステージに突き出されたんだ。それがおれのメインになっていくのさ。おばあちゃんが牧師と結婚していたからいつも教会に行って素晴らしいコーラスを聴いてたんだ。みんなAretha Franklinとかを歌ってたな。当時、歌い手がコマーシャルなことに舵を切るのは罪だった。でもみんなAretha並みにすごかったよ。おれもそのど真ん中にいたんだ。すげぇ体験だったよ。それがおれの演奏や歌唱のスタイルを確立させたと思ってる。”
学校から帰ってるときHarperは楽器屋の店先で立ち止まって、ショーウィンドウの中を見つめていた。彼はそこにあった金ぴかのホーンが何かを知らなかった。しかしそのホーンはHarperのイマジネーションをがっちり掴んだ。
中でも最もミステリアスだったのがカーブがかったホーンだった。”おれはクリスマスプレセントとしてサックスを欲しがってたんだ。”Harperは笑う。
彼がサックスを手にしたとき、Harperは独学でサックスを学んだ。彼は音楽ファンだった叔父のレコードを聴いていたことだろう。そこにはボーカルの側面があった。
”彼はソロの歌を愛していた。” Harperは言う ”若いころから多くのジャズのことやコンセプトを学んだんだ。聴いて学ぶって感じ。演奏に関してはSonny RollinsやHorace Silver、最終的にはJohn Coltraneとかね。一緒に始める上で最も力強いプレイヤーはSonny Rollins。次にKenny Dorham, Max Roach, Horace Silver, Coltraneの順番だね。おれはいい環境にいたよ。”


彼は成長していくに従ってブルースを演奏するようになり16歳で金を受け取る仕事を働くようになった。高校でのジャムは彼を育てた。しかし彼はそれが長い道のりだということを知っていた。
”Don Wilkersonっていう怖い人がいたんだ。” 彼は回想する。"彼は「Texas Tornado」とか他にもレコードを遺している。みんな彼と一緒に座ることを恐れていた。高校時代に彼の演奏を聞けたのはとてもいいことだったよ。"


”大学でJames Clayと出会った。” 彼は言う。”Clayはホットなテナーサックス奏者だったよ。”
彼はその非凡なキャリア中にいくつもの良質なレコードを遺した。Don CherryやWes Montgomeryみたいな人たちとレコーディングや、 Ray Charles, Billy Higgins, Red Mitchellなどと演奏している。
”James ClayはおれにとってRichard Lily並ぶメンターだったんだ。奥さんはおれのドラマインストラクターだったよ。一時期おれは歌手や役者をやっていこうと思っていたんだ。”
高校卒業後、Harperの友人が彼ににNorth Texas State Universityのミュージックプログラムのことを話し、Harperはそれにチャレンジした。
”おれが大学いたころ、世の中は人種差別政策の真っ最中だった。当時は10,000人の生徒の内、黒人は100人だった。それによって生活区域や学生寮は黒人の男には開かれてなかった。女性は統合し始めたくらいの時期さ。大学時代は座り込みやありとあらゆるデモをやってたよ。おれらはキャンパスの隅っこに追いやられたんだ”
”組合があつた。多くのことを思い出すよ。おれの友達が夜遅くDallasからきたときにボコボコにされた。そんなことばっかりだったよ。” Harperは回想する。
このような忍耐がありながら、学生時代の彼は破壊活動に加担しなかった。"おれは完全に音楽にハマってた。音楽に走ったから他のことが発生したりね。ある晩寝てるときにおれが住んでたアパートに眩しい光が当てられたことを覚えている。外に出てみると道路の向かいが燃えていた。あの土地は絶対に忘れないよ。愛憎があるからね。"
高校時代のミュージシャンはクールだったと彼は言う。多くは大学出身でそのうちの何人かは既にWoody HermanやStan Kentonみたいなビッグバンドで演奏していた。Harperは学内のビッグバンドで活躍し、彼のスタンスを獲得していった。
”James ClayらへんとプロとしてDallasで演奏するようになったんだ。おれはある日決断した。NewYorkに行くんだ!ってね。意識せずとも目標にしてた場所なんだ。おれが聴いてた全員がNewYorkのプレイヤーさ。Blue Note, RCA, New Yorkのすべてのレコード会社のレコードを聴いていた。ただ音楽に身を置くためにNew Yorkにいなきゃならなかったんだ。おれの頭の中はそのことで一杯だった。後に世界中に行くことになるんだけどNew Yorkはハードだった。”
1966年彼はNew Yorkへ向かった。しかし最初は苦難が待ち受けていた。
"最初のうちは、起こることがなにもかも悪いことのように思えたよ。だんだん良いことも起こるんだけどね。New Yorkに行くために友達から100ドル借りたんだ、おれにはその100ドルしかなかった。New York最初の夜にホテルに泊まったら、100ドルのほとんどが飛んで行ってしまった。残ったわずかな金をサックスケースに入れたね。もっと安い場所を探したよ。Third AvenueとEighth StreetらへんでMonkが演奏してるのを見た。ちょっとの間おれは彼をチェックしなきゃいけなかった。そうこうしてるうちに道路挟んだとこでMcCoy Tynerが演奏してた。おれは道路を渡って彼を見に行った。Cedar Waltonもそこで見ちゃったんだ。おれはMcCoyを聴いてから自分のことをやるために階下に走って戻った。それがNew Yorkの二日目だった。"
Harperはうれしそうに笑って思い返す "知り合いなんていなかった。それがおれのスタートさ。しばらくそんな感じだったからおれは強くなれたし集中できた。おれは抜け出さなきゃいけなかったがその方法がわからなかった。おれは自分のやることなすことが酷いと感じてたんだよ。そういったことに囚われてた。でもそれは解放されるためには良いことだったんだよ。"
New Yorkに来てから最初のいいことの一つはGil Evansと会ったことである。Broadwayの出来事だった。”彼はいいやつ。Gilがレコード上でスーツを着ているみたいにちゃんとやってる「out of the Cool」みたいなレコード聴いたかよ?でも彼はスーツなんか絶対に着なかった(笑)彼はいつもジーンズで素朴な男さ。フレンドリーでソウルフルなやつ。おれはGilに言った ’もし何かでサックスが必要になったらおれを呼んでくれ’ 半年が経ち、彼から声がかかることは無いと予想して落ち込んでた。ベッドに寝転がってこんなことを考えてた ’おれは’ここに何しに来たんだ?’ そんなときにGilから電話がかかってきた。’リハーサルやるから’ つってね。”
Gilのリハーサルで火の洗礼があった。”簡単じゃなかった。” 彼は不満ではなくユーモア交じりに語った。”苦難だった。クラブで演奏していた多くの人間は新入りを求めてなかった。おれは彼らの仕事を奪おうとしていたからね。厳しい時期だった。”
若いHarperはElvin Jonesに会いにSlugのナイトクラブに行った。
”おれは少し緊張しつつ ‘Mr. Jones、おれはTexasから来たBilly Harperっていうんだけど、あなたと話したい。’ と言った。Jonesは ’Noooooo’って言ったんだ(笑)まるで喧嘩を売ってるみたいだった。 演奏できることを証明すれば仲良くできる人間だったんだ。後に気づいたんだけど彼は酔っぱらってたんだ。おれたちは仲良くなるんだけどね。次の日の夜も同じことを言われた。大学のバンドを経ておれは自分に実力があることを知っていた。嘘じゃないぜ。また次の日の夜に同じことを言う大胆さがおれにはあった。”
Harperは連夜通い詰めては追い返されていた。彼はリハーサルにてJonesのドラムの出し入れを手伝っていった。そしてある日の夜HarperはいつものようにJonesに話しかけると、彼は茶化すことなく座った。そしてHarperはステージに呼ばれた。
”おれは演奏するためにステージに上がったけど、ElvinやPhilly Joe Jonesはドラムで速い曲をけしかけてきた。おれは彼らが何をやろうとしてるのかわからなかった。Hank Mobleyも一緒にいた。彼のソロが終わって、おれの番が回ってきた。Phillyがスネアドラムを鳴らすと全員の演奏が止まった。Phillyはスネアドラムに肘を置いておれを見ていた。おれ以外の演奏が止まったんだよ。” Harperは笑う。


”何をすればいいのかわからなかったからおれは演奏し続けるしかなかった。目を閉じて自分のできることをやるしかなかった。じきに拍手が起こり、Phillyがフェードインしバンドの演奏が再開してみんな叫んだ。みんなおれを嵌めようとしてたんだ。オーディエンスは何も知らなかった。これがおれとElvinとPhillyとの出会いだよ。おれが演奏を終えたとき、Phillyは言った ’やるじゃん、でもちょっと長かったぞ。’ ってね(笑)彼はすべてに影響を与えたんだ。”
これが他のミュージシャンがHarperの名前を知る出来事になった。彼がNBCテレビのプログラム「The Big Apple」に出演するようになったとき、もう一つの幸運を呼び寄せる出来事があった。
”New Yorkの人間の最初の体験だった。おれもその一人。Kenny Dorhamはテレビの人間におれのことを話したから、彼らはジャズミュージシャンとしておれを向かい入れた。ボクサーのJerry Quarryがいたりした。他にもビジネスパーソンやオペラ歌手、モデルもいたっけ。だからおれがテレビに出演してたんだよ。当時おれは大きなことをやっているという自負があった。おれは生き残ろうとしていた。時々肉無しのチーズサンドウィッチを食べなきゃいけなかった。”
テレビはHarperのニューヨーク時代を満たし、Village Vanguardの伝記を制作したがっていた。”Vanguardはテレビに制作させなかった。彼らは言うんだ ’なぜ自分のバンドをやらないんだ?おれらにあんたをフィルムに収めさせてくれ’ ってね。おれは考えた結果、言ったんだ 'OK。やるよ。’ Elvinをドラム. Frddie Hubbardをトランペット, McCoy Tynerはピアノ, ベースはReggie Workman, だからおれらはやったんだ。ニューヨーク中で活動してたさ。Milesや他の人々も同じように見ていたはずだよ。 その後は細々やってた。Philly JoeとElvinと一緒にクラブで演奏してるという話が広まったりもしてさ。すべては現場から起こってたんだ。”
Blakeyによって、Evansと働くことになり、HarperはそこからThad Jones/Mel Lewisバンドと働くことになった。
”一緒にやる仕事はとてもいいものだ。Max RoachはおれがThad JonesやMel Lewisと一緒に演奏してるのを聴いた。だからRoachはおれを雇った。おれとコンスタントに仕事する人は誰もいなかった。だからおれは同時進行で4つくらいのバンドと仕事していた。Gilはまだヨーロッパに行ってなかったからね。もしBlakeyがこれらのことやらなかったら、多分Thad Jonesがやってただろうな。なにも喧嘩することなんかない。じきにGilがヨーロッパに行くことになり、おれもついていった。Donald ByrdとLee Morganとも仕事したな。いろんなことがあったよ。”
HarperはHouston時代に聴いてたレコードの中のプレイヤーと演奏していた。彼のレコーディングキャリアはどんどん形成され、自分のバンドを率いるようになった。ハシゴを上るように絶頂期へ突入していった。それは彼の演奏に表れている。ビッグバンドやジャズのベテランに従事する機会がない若いプレイヤーにいつも見られるものじゃない。
”今、多くの若いプレーヤーの演奏が聴けるだろ?確かに彼らは上手い。でもCookersの音楽のソウルへのコネクションはそこに無い。” Harperは言う。”彼らはアカデミックすぎたり実験的だったりするんだ。これがおれの感じてることだね。”
HarperはNew JerseyのRutgers Universityで教鞭をとっていたりもした。でもパフォーマンスが彼の好きなことだ。加えて彼が率いてるCookers(トランペット:Freddie Hendrix, ピアノ:Francesca Tanksley, ドラム:Aaron Scott, ベース:Clarence Seay)も同じである。
HarperはRandy Westonとのデュオとしても活動しており、2013年に「The Roots Of the Blues」をリリースしている。彼自身の次なるプロジェクトは合唱を伴ったDVDである。


彼は言う ”おれらは2012年12月31日にNew York, St, Petersの教会でレコーディングした。ヤバいのができたぜ。”
合唱をフィーチャーしたのはこれが最初ではない。数年前、彼はPolish choirと作品を制作している。(Billy Harper In Concert: Live from Poland Arkadia, 2007)
"あれが最初だったね。New YorkのPittsburghや海外でもやったりね。土地土地でやれることといえば地元の合唱隊を起用することなんだ。おれは小さなボーカルグループでスキャットもやってるよ。そのスキャットグループから60人編成の合唱隊まで共演するんだ。"

以上です。

New Yorkで試されたBilly Harper。自分だったら耐えられず地元に帰ってしまいそうです。

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