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「思考」と「言語化」で世界の見え方がまるっきり変わった話

「何かトピックを見つけては考える、見つけては考える。そして言語化する。」これが最近の日課であり、趣味になりつつあります。

「思考」や「言語化」をしたからと言って何者かになれるわけではないし、そもそもその何者っていうのも何かは未だにわからない。ただ、何かを見て、考えて、学び、知り、さらに思考し、言語化する。それを元に世界がどんどん広がっていく感じがただ好き。新しい世界を見て、それがキラキラしているとわくわくする。

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つい最近までは、思考も言語化も一切行わない人間だった。

その頃の自分は、何かに対して考えや意見を持つことって「特別な人」だけのものと思っていた。
目に映るもの、友達との会話で出てくること、テレビやインターネットからの情報をそのまま(都合のいいところだけ)鵜呑みにし、人の意見に支配されていたけれど、そんな意識はもちろんなかった。むしろ、こんな簡単に生きていける・世の中にうまく順応していけるなんて、人生楽勝だなぁとさへ思っていた。このまま何も困ることもなく生きていけるものだと思っていた。

そのころにに出会った人たちも、自分と同じタイプの人たちだった。一緒にいて心地よかった。だから余計にそれが当たり前で、「思考をする」という考えさへなかった。考えることといえばどっちの服を買うか、夕飯は何にするか、このテレビが見たいけど時間間に合うかな、そんなところ。

もちろんそれが悪いわけではないし、それで自分が満足しているのであれば、むしろいいことだと思う。自分もその頃はそれで満足していると思っていた。というか、満足かどうかなんて感情もなく、ただただ何気なく毎日を過ごしていた。

なのに、何かに向かって真っすぐ努力している人を見るとキラキラしているように見えたし、みんなで力を合わせて何かを成し遂げている人を見るとうらやましかった。でもその感情が何なのかはわからなかった。ただただネガティブな感情だけがそこにあった。

だからそんなものは見ないようにしたし、自分とは住む世界が違う人だからだと思うようにした。もし間違ってそんなキラキラした存在を見てしまった場合は、粗を探したし、自分の方が幸せって思えることを一生懸命探して言い訳にしていた。
そんなことをしているなんて全く気付くこともなく。

人は自分とははるか遠くにいる全くかないそうにない相手には嫉妬することは少ないが、自分がそうなれたかもしれない姿をしている人に嫉妬しやすい

何かの本で読んだ一文だけど、おそらくこの時の自分はまさにこのまんまの姿だった。

今思えば、心の奥底では「何か」を求めていたのだけれども、その「何か」が何かわからないし、どのようにしたらわかるかもわからないから気づかないように自分をだまし続けた。

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その後の人生は紆余曲折があり、だいぶ変わった。今は思考をするし、言語化もする。それをすればするほど、自分のことがわかってきて、あの時のあの名前のない感情の答えがわかるし、やりたいこともどんどん出てくる。社会の色々な矛盾に気付けるし、意見交換もできる。それが楽しくてたまらない。

思考し、それを言語化すればするほど自分が形成されてくる感じがとても心地いい。今まで気づけていなかった自分がわかっていく感じがとても愛おしい。

「思考」し「言語化」する。ただそれだけで、世界の見え方がまるで違ってみえる。

これからも、もっと思考も言語化もできるように、そして見識を広げたり、色んな変え方ができるようになるように行動していければ、さらに毎日が楽しくなるのかと思うと、ワクワクしてたまらない☺️

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