薄絹の朝 其の一
…今朝ほどからは、黒く濡れた土の上に紗を掛けたような雪が降り積もった。
…道理で、冷えるはずだ。
京の家には、暖を取る備えがない。奴の作品の一つである塗りの火鉢が、ぽつりと置かれているのみである。
白砂の上に置かれた備長炭は、あくまで部屋の空気を清浄に保つ為の仕掛けであり、置物である。
三本の炭は部屋の主の心を語るかに、頑なに配置を変えることがなかった。
その割には、埃を払っている気配が感じられるのがおかしいところだ。
俺が手遊びに山で焼く炭が、そんなに珍しいか。
全身炭に塗れる姿をわざわざ見物に来て、笑っていっただろうが。
俺が押し付けた炭を、さして嬉しくも無さそうにぶら下げて帰っていったお前のことだ。
納戸にでも放り込んで、きれいに忘れ去られるに違いない。
そう思って訪ねた時、真新しい火鉢に恭しく据えられている黒い物を発見したのである。
俺は言った。
『何だ、あれは』
『何だとは何だ。置き場所まで用意してやったというのに、文句など言われる筋合いはない』
『作ったのかよ、火鉢を』
『割れ鍋に綴じ蓋というだろう。不格好な炭に釣り合う火鉢が、そこらに見当たらんのでな』
『何だと』
憎まれ口ばかり叩く性分は、昔から変わっていない。
俺は奴を睨むのをやめて、口角を上げた。
『ありがとうよ。手間暇掛けて場所まで拵えてもらって、炭も本望だろうぜ』
奴はなぜか口籠もり、それ以上言い返しては来なかった。その、火鉢である。
何のための作陶だ。使うために作ったのではないのか。
「うう、冷える。使えばいいじゃないか、あれを」
俺が言うのに、奴は答えた。
「…嫌だ。指が動かなくなる寸前の緊張が、作品に出る。お前は俺に、生温いものを作れというのか」
俺は、低く舌打ちをした。
相変わらず、かわいくねえ。
「そうは言ってねえ。ただ…」
奴の目の奥に、昏い光が宿る。
同じ光を、俺も映しているのだろう。
奴の手が、白木の障子の縁に触れた。
先程俺が開け閉てし、亀石に積もる粉砂糖に声を上げた。その、同じ箇所を。
長い指が幾度も行き来し、ふと思い付いたかのように俺の目を捉えた。
「…温まってゆくか」
「…おう」
青さを残す畳の上に夜具が延べられ、敷布の白さが鈍く陽光を跳ね返す。
繊維だけ残した紙の表面にも弱々しい光が宿り、部屋をぼうっと明るませていた。
「…おい」
野暮は言うなと言いたげな切れ長の目に、唇を寄せる。
「…いいのか」
奴は笑って、俺の肩口に指を踊らせた。
「俺も、困っているのだ」
「あ?」
「先生はこの頃、傍にいるよう求めるのみで、それ以上の事はなさらん。若い俺は、体を持て余す始末さ。お前さえ良ければ、手伝ってくれ」
男にしては長過ぎる奴の睫毛に、雪解け水のごとき重みが加わる。
衣の前を開き、光を弾き返すほど白い肌を探りながら俺は言う。
「…馬鹿野郎」
…悲しんでいるのか?
…悲しんでいるのさ、薄情なりに。
先生は、身寄りのない子供を引き取って下さった。右も左もわからぬ者に作陶の才があると仰り、全てを教えて下さったのだ。感謝の念こそあれ、恨みなど。
教えの業は、体ごと。
精神のみならず肉体までも共振させるが故の、師弟なり。
…奴の目は、薄く光りながら俺を見ていた。
…俺の目も、また。
音もなく密やかに降りしきる、浄めの雪よ。
師は、その晩静かに旅立った。
立ち会えなかった事を、悔やみはせぬと奴は言う。
「…奥方は、ご存知であったのだと思う。俺など居らぬ方が良いのだよ」
「…お前、どうする? これから」
そうだな…と言葉尻を宙に泳がせたまま、奴の手は畳の目を静かに撫でていた。
その手を掴んで、己の掌の中心に巻き込んだまま言ってやった。
「…炭でも、焼くか」
…それも、良いかもしれぬ。
明け方には、折からの雪は止んでいた。白銀に彩られた庭に、奴は薄着で降り立つ。
「ああ。笹が綺麗だ」
白と黒、灰色の濃淡だけが支配する。
水墨に描かれたような眺めに、笹の青さと南天の朱が色を添える。
痩せた背中へ羽織を着せ掛けてやり、俺は言った。
「好きな場所へ行き、好きな事をしろ。お前は、自由なんだからな」
…そうだな。
差しあたっては、下手な炭焼きの女房役でも務めるとするか。
「誰が女房だ。男の嫁を娶った覚えはない」
…一声あげて、鳥が行く。置き去りにされた雪が、枝を離れて舞い落ちる。
朝の庭に、たわいない軽口が響き合う。
そんな、朝の出来事であった。
〈続く〉
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