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薄絹の朝 其の二

  …漆の壺に浸した、絹糸を束ねたごとき。
 洗い髪が打ち振られ、しなりつつ肩に滑り落ちる。
 うなじに唇を寄せ、黙って背中から掻き抱いた。
 …そうして、いてくれ…。
 珍しく、懇願のような奴の声を聞いたから。
 俺は驚きに開きかけた眼を伏せ、黙って体温を被せた。
 …ちっ。冬だな。
 …ああ。
 …人肌が恋しい季節だと言っている。温めてやるよ、暫く。
 互いの抑えた溜息は、撚り合わせられる綱のように絡み合って、冬の夜気に消えゆく。
 二つの呼気から、白い霧が立ち上る。
「お前の火鉢は、飾りものか」
 からかうと、奴の体にぐっと力が入る。背後から被せられた男の体を押し返そうと試み、思い留まったようだ。
「失敬な。ちゃんと使えるように出来ている」
 心なしか、その声は弱い。
 反射的に思い切り組み敷いてやりたい望みが頭をもたげるのを感じて、俺は喉に絡む声を低く押し出す。
「そうか。今度、使っているところを見せてくれよ」
 努めて平静を装っているのだが、一体何をしているのだ。
 気を使うことなどない、間柄ではないか。
 その上、何度も抱いている。
「寒いままでいるな。ちゃんと温かくしていろ。毎度文句を言ってやりてえが、それができねえからな」
「…ああ」
 奴の声は、やはりか細い。
 奴の寝起きする炭焼き小屋は、掘立小屋を少し見栄えを良くした程度の代物だ。
 広くもなく、温かくもない。
 小屋を貸してやった俺はと言えば、日参して顔を見る事が出来ずにいる。
 炭焼きは、作陶向きの炭を作ってやろうと遊び心で始めたもので、本業ではない。
 木こり姿が板についていると、奴に笑われようと。
 俺はただ、爺様から譲られた山林を持っているだけの身だ。
 見送りに立っていた奴の姿を思い出しながら、三揃いにネクタイを締めた。
 造船所の朝は、早い。
 御曹司とてもうかうか寝坊はしていられず、設計図を片手に指図に走り回る日々が続いていた。
 色々と、噂は聞こえて来る。
 あれほど世話になりながら、死に目にも現れない弟子は薄情だと。対照的に奥方の気丈と健気さを讃える声は高まり、奴の望みを静かに叶えた。
 …良いのだ、俺は。
 奴が半ば死んだような目で呟くのを聞いて、俺は盛大な溜息を吐きかけたけれども。
 山家の庵に引き篭り、世間の目から隔絶されて暮らす奴の前に。
 新聞記者どもが顔を出し、取材だの何だのと、姦しく喚き立てたという。
 奴は顔色も変えずに応対し、言ってのけたと聞く。
 …私を男妾だのなんだのと、勘繰るのはご自由に。ただし、先生と奥方への侮辱は赦しません。ご夫妻は、所縁もない孤児の私を立派に育てて下さった。その証が、歴然とあなた方の前に存在している事をお忘れなく。
 …俺は、低く言った。
「…なあ」
「…なんだ?」
「船が出来たら、乗ってみねえか」
「え?」
「一つところに縛られる必要は、ねえだろ。炭焼き小屋に居たけりゃ、いつまでいたって構わねえが」
 奴は、少し戸惑ったように黙っていた。それから、ようやく小さく答えたのだ。
「…ここには、良い土がある。水と、炭も。…不足はない、少しも」
「良い土なら、日本中にあるさ。あちこち巡ってみても構わねえんじゃねえか。お前、暇だろう」
「…何が言いたい?」
「出来上がった船に、いきなり客を乗せるわけにゃいかねえから。試験航海ってヤツだ」
「お前な。人を、実験台に…」
「いいじゃねえか。設計した俺も乗るんだから。…手始めは、どこがいいかな。信楽か、有田か…」
「…全く…」
 俺の腕の中で強張り、やがて嘆息して力を抜いた奴は、ひそりと言った。
 …ありがとう。
 聞こえるか聞こえぬかの声に、俺はわざとらしく耳をそばだてる。
 …聞こえねえな。もう一度、聞かせてくれよ。
 言葉にできぬ返事は、繰り返しその肌に聞く。
 薄い背中と接合したままの胸が、同じ温度に融ける合うまで。
 黒き大地を覆う絹の衣が溶けるよう、春に祈りを注いだ。

                                   〈続く〉



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