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薄絹の朝 其の三


「…長く悔いておりました。幼いあなたを守れなかった事を」
 未亡人が唇を噛み締めて結髪の頭を垂れると、部屋には静寂が満ちた。
 黒白二色に彩られた室内――漆色に濡れた障子の縁は最暗部に沈み、一番明るきは障子紙の余白に残された陽光であった。
 竹を漉き込んだ繊維の着物に身を包んだ青年は、衣の粗さに反する柔らかな笑みを見せた。
「貴女は、私に母の香りを教えて下さった人。何の恨みがありましょう」
 艶のある結髪が、はらりと一筋解れて力なき肩に落ちた。
「…いいえ。どうか憎んで下さい」
「…何故、そのような事を仰るのです? 私に貴女を憎めと?」
「…あの人に連れられて来たあなたを見た時、わたくしは後の事態を予感しました。その上で、止める事ができなかった。…いいえ。母代わりだと自らに言い聞かせながら、罪なきあなたを憎んでさえいたのです」
 青年の唇に刻まれた柔和な笑みは消えることなく、品ある夫人を身悶えさせた。
「…知っていました」
「…!」
「…貴女は充分にお若い。枯れゆく己には過ぎた花だと、先生は独白しておられた。そう仰っしゃりながらも、決して手放そうとはされませんでした。美しきものを傍に留めることに心を砕かれる方でしたから」
「…知って、いたのね……」
「…はい」
 …主のおらぬ書斎に、微かな人の気配が蠢く。
 …翳に打ち負かされ衰退してゆく光の帯に、甘き声が取りすがる。
 割れた裾から覗く、足袋を着けたままの脛が幻のように光を弾いていた。
 乱雑に脱ぎ捨てられた大きな下駄が誰のものであるか、知っていた。
 京の別邸に籠もり制作に打ち込む間は、先生は周囲に人を近づけようとはなさらない。
 その間、本宅で留守を守る夫人の話し相手として、一人の書生が選ばれた。
 手遊びに炭を焼く造船所の御曹司に眉の辺りが似ていたところに、ぎくりとさせられたけれども。
 …彼でなければ、どうでも良いのだ。
 …そう考えることのできる、己の血は冷えている。
 陶土を取りに戻ったのは、秋の日である。夕暮れは、速やかに傾き地に伏せる。
 …先生。只今戻りました。
 …うむ。御苦労。
 それ以外に交わす言葉のない、平坦な鈍色の日常に愛着があった。
 壊したくはないから、何も語らず、何も見ないことにした。微笑みだけでやり過ごし、胸の裡ではただ一人の男を描き続けた。
 己は、狡い。
 他人を責める資格など、有りはしないのだと。
 そう伝えるために、一つの器を取り上げた。
 自分が初めて焼き上げた、拙い皿である。
 障子を開いて振りかぶり、庭石に向かって叩きつけた。
「何をなさるの」
「壊しているのです。過去を、自分を」
 …貴女もどうぞ。
 抛つに相応しい作品なら、履いて捨てるほど此処にあるのだ。
 震える手に茶碗を握らせ、庭へと誘う。
「……、わたくしは……」
「…先生が旅立たれたあの朝――私は男に抱かれていました。貴女を咎める資格など、有りはしない」
「……!」
 私達は、先生を間に挟んだ鏡。似た者同士であったのかもしれませぬ。
「……あなたは……」
「先生が手解きして下さった器は皆、この家に置いてゆきましょう。叩き壊すなり売るなり、貴女の良いように」
 青年は頭を掻きながら、縁側から庭に降りて黒く湿った土を踏んだ。腰を屈め、雪の如く散った欠片を拾った。
「庭を散らかしたこと、お詫び致します。箒をお借りしますよ」
 淡々と土を掃く青年に、夫人の手がゆるやかに持ち上げられて震えた。
 …あの端正な横顔に、怒りと不満を叩きつける瞬間を、夢にまで見た。
 取り澄ました表情を乱したいと、どんなにか願ったことか。
 良人からめったに求められぬこの身は、花の盛りを謳われながらも枯れゆくばかり。
 そんな折、書生の素朴な憧憬と熱き血潮は無聊を慰めてくれたけれど。
 閉じた眼裏を刺すのは、決まって凍れる月。怜悧に冴えた、青年の横顔だった。
「すべてを棄てるというのね、あなたは。あの人が見込んだ腕も作品も何もかも。…そして、何処へゆくの」
 青年は、この上もなく優しく微笑んだ。
 …あなたはいつも、そんな風にわたくしを無視するのです。何も答えずに、出てゆくつもりなのでしょう。
 夫人は華奢な肉体を駆り立てて土に降り、青年の胸に拳を打ち付けた。
「あなたは、忘れるでしょう。作品を忘れ、あの人を忘れ。…そして、わたくしは。誰にも…顧みらぬまま、ここで朽ちてゆくのです」
 夫人の髪に舞い降り始めた雪の欠片を、青年はそっと掌に取った。
 まろやかな肩を抱き寄せ、幼き頃に比して広くなった胸に迎え入れた。
 華やかな訪問着に散る梅の香りを、深く胸に吸い込んだ。
「…さようなら、お母さん。どうか、お元気で」

 …泣き崩れる夫人を冬の庭に残したまま立ち去った事を、その男はやんわりと責めるのだった。
「…いいじゃねえか。奥方の気の済むまで、傍にいてやりゃ良かったのによ」
「…妬いたりはしないのか」
「…あ?」
 この男に繊細な心の機微を悟れと言っても、無駄な事である。
 青年は嘆息し、低く呟いた。
「…奇妙な事だ」
「何がだ」
「…夫人を抱き締めた俺を、抱いているお前が。一番心が広いという結論に、至ってしまうではないか」
「…事実なんだから、仕方がねえだろう。何か、不満でもあるのか」
「…いや。特段ない」
 明日には出港が決まっている新造船は、真新しい鉄と機械油の匂いに塗れていた。
 その一等客室に、恭しく据えられているのは黒っぽい火鉢である。
「船室で、火を焚いて良いのか」
「いや、拙い。火事になれば逃げ場がねえ。あれは、置物だな。飾って置かれるのが嫌なら、新しいのを創ればいいだろう。信楽に着いたら、狸の置物でも焼くか?」
「俺を、なんだと思っている」
「あ? お前は、お前だろう。他に何かあるのか」
「…いいや。ない」
 日焼けした男の背に腕を回して、目を閉じた。 
 瞼の裏に映し出される景色が、白黒の濃淡のみで彩られた庭から、緑青色の無限の連なりに切り替わる。
 海は緩やかに上下しながら、潮の勢いに乗ろうと船を誘っている。
 早く出港しろと、急かしているのだ。
 誰かに似て、気の早い事だ。
 …判った、行くよ。
 諦めて吐く溜息に、甘さに似たものが混じり始めるのを、ようやく自覚した。
 …俺は俺で、あれば良い。
 …俺とお前で、居れば良い。
 長く胸に横たわっていた、白い凍土が緩みかけている。
 薫る春が。
 輝く夏が。
 滴る秋が。
 全ての季節が溢れ返り、喉と言わず肺と言わず全身を隈なく潤してゆく。
 …良い、のか。
 …っ、良い……。
 …初めて、言ったな。
 唇の端から溢れる呼気を優しく吸われ、新たな溜息が産まれる。
 肌と肌の重なり合いに安堵を覚える習性を心得ている男は、握った手を離そうとしない。
 …っ、あぁ……。
 波の昂ぶりに拉がれ、呑まれてゆく。
 母の胎とは、このように温かなものだろうか。
 そのような場所で大切に育まれた後、この世に産まれ出てきたのか、俺は。
 …たった今、産まれた気がした。
 未だぼんやりした頭でそう告げた時、友は大きな口を皮肉に歪めて見せた。
「俺は、産んでねえからな」
 一拍の空隙の後、ようやく笑いが生まれる。
「…相違ない」

 舳先に立って、釉薬に使いたい緑青色の見本帳を見た。
 全ての生命が産まれ出る故郷とされる、大いなる母の上に、手摺を掴んで半ば身を乗り出した。
 船員が気さくに声を掛けてくる。
「落ちねえでくだせえよ。見かけと違って
、春の水は冷たいんでさ。ところで、運び込む荷物はこれだけですかい?」
「…ああ。気をつけるよ。着替えもろくに持ってきていないからな」
「忘れ物を取りに戻るぐれえの時間は、まだありやすぜ」
「親切にありがとう。だが、もう良いのだ」
 …白い肌によく映える…と。
 あの人の好んだ暗色の、粗い生地の着物ならば、売るほどに持っていた。京の別邸の箪笥の底に、今も眠っているだろう。
 …対して、奴が朝に投げて寄越したものは、絹地のシャツだった。
『俺のだけどよ。それでも寝間着にしとけ』
 ぶっきらぼうに言う割に、仕立ても生地も上物で、新品である。
『洋装は良いぞ。なんせ動きやすくてな」
『着物の中に、着ても良いのか』
『そら、構わねーが。他に着る物はねえのか』
『…ない。新しい俺になるのだから、外皮から変わらねばな。無一文になったから、当面は一張羅で過ごさねばならん。これは、有り難く頂くぞ』
 …奴は今、部下に指示して忙しそうに甲板を駆け回っている。
 …そう、何も要らぬのだ。
 …想う相手と共に居れるのならば、それで良い。


 山の頂からでも、吹き飛ばされて来たのだろうか。
 羽の如き雪片が、別れを告げるかにひらひらと空を舞う。
 それらはやがて、柔らかな色をした海に吸い込まれ、何処かの世界へと消え去った。

            〈終〉

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