王国のあさ(7)完
大阪から飛行機で、妹が帰省してきました。
つい数か月前もあったばかりなのに、なんだかしょっちゅう帰ってくるみたい。
飛行機代だって、大変なのに。
そう言ったら、アゲハは怒りました。
「…そんなの、私の勝手でしょ。いつ帰って、どれだけ長く実家にいたって。お姉ちゃんに言われる筋合い、ないんだからね」
私は口をつぐみます。飛行機代を出しているのは、わたしではありませんから。
「…ホントにさ、知り合いもいなくてつまんないんだって。社宅に二人でいたら、息が詰まるよ。お姉ちゃんは結婚したことがないから、そんなこと言うけど。気晴らしだって、必要なんだからね」
母も、アゲハに同意します。
もともとこの二人は、性格も容貌も似通っています。
末っ子気質の甘えん坊であり、自分の容姿を上手に利用することをためらいません。
わたしは、アゲハの夫の聡さんが少し気の毒になります。
旅費や遊ぶお金を妻に渡して、ひとりでずっと仕事をしているなんて。
家族みんなで、遊びにくればいいのに。聡さんは、仕事の関係で、あとからやってくるそうですが。
わたしはアゲハにすすめます。
あまり遊び歩くということのないわたしの、知っている範囲ですけれど。
彼女がいない間にできたカフェや、田舎にはめずらしいおしゃれなバーのことなどです。
アゲハはすぐに乗ってきます。
「そこ、行きたーい! お姉ちゃん、連れて行ってよ!」
「…だって、夜のお店だよ。二人でデートするのにいい感じのお店だから、聡さんがきたら一緒に行きなよ」
「…ヤダ、聡となんか。毎日一緒にいるんだから、顔なんかもう見飽きたよ。私、どうしてもお姉ちゃんと行きたいの。おーねーがーい。連れて行って!」
彼女は、知っています。
わたしは妹に、お金をださせたことはありません。彼女の誕生日ケーキも、プレゼントも。自分で働いたお給料から、出してあげていました。
「…かなしい。誰もお祝いしてくれない!」と彼女が嘆きのメールを送ってくるから。
だってわたしは独身だし、結婚も子供を持つ予定もありません。
貯金はきっと、余るでしょう。
わたしが、死ぬときまでに。減らしておいても、かまわない…はずです…。
「…ちょっと待って。わたしにも予定があるし。しばらく忙しいから、もう少し後にさせて」
「ええー? 私、二週間ぐらいしかこっちにいないんだよ? せめてその間ぐらい、付き合ってよ」
私はため息を隠して、妹に従います。首に縄をつけて、どこかに曳かれていく家畜みたいですね。
実家に車もあるのだから、妹が自分で行けばいいのです。なんなら、仲のいいと母と二人で。
…母と、妹と。
二人のおしゃべりが充満する車の中は、なぜか息苦しいのです。
胃のあたりに鈍痛をおぼえながら、わたしはハンドルを握ります。
燃料代だって、だしてくれたことはありません。
そもそも、ありがとうと言われたことが、あるでしょうか。
作ったパンがおいしくなかったと、叱られたことはあっても。
…一体、なんなのでしょう。
わたくしという、存在は…。
視線はぶれ、わたしの存在は透明になって消えてゆきます。
わたしのあげたプレゼントは、母から祖母にリレーされます。触れることも、ないままに。
…これは、お義母さんにあげるわ。
…いらないのね。
…わたしが選んだものは、いらないのね…。
わたしが母にあげた時計は、いつの間にか妹が着けていました。
…だって、お母さんがそのへんに放っておくんだもん。いらないんだったら、誰が使ったっていいでしょ?
私の存在はかすみゆき、今や誰の目にも映らないほどに薄まってゆきます。
…そうです、空気のように。
いないような存在なら、ほんとうにいなくても、いいのではありませんか?
この家に、わたしが呼ばれる理由は、なんですか。
父が建てた王国には、余分な者はいらないのではないですか。
――…ああ。
…わかりました。
…王国には、奴隷が必要、なんですね……。
「なにさ? なんでそんなことでいちいち怒るの? 二週間から一か月いることに変えたんだってば。聡がいいって言ってるんだから。お姉ちゃんに迷惑なんか、かけてないでしょっ」
…ねえ。
なんだったんですか。
短い期間だから、つきあえと。
週末ごとに、わたしを運転手に駆りだしたことは。
「…だからさあ、言ってるじゃん。しつこいって! 夫婦のことに、口ださないで!」
妹の口調は、苛立ちを隠そうともしません。
わたしはさらに、食い下がります。
「…聡さんに悪いとか、思わないの? 帰って、家のことしてあげれば?」
妹の目が、ちかりと輝きを帯びます。誰かの弱点を上手に見つけたとき、彼女の目は豹のようにきらめくのでした。
「――あ。わかった! お姉ちゃん、聡が好きなんだ。私のコト、うらやましいんでしょ。だってさぁ…、お姉ちゃんってば、誰ともつきあったこと、ナイもんね!」
――ビシリ、と。
なにかがひび割れた、音がします。
はじめてのデートのときに。
生まれてはじめて男の人とつきあってみようと、無謀な挑戦をしてみたことがあります。
対人恐怖症だったのに、おかしいですね。接触試験をしてみようと思ったのです。
母と妹からの贈り物は、二人がかりの監視でした。
「どんな男か見てあげる!」と息巻いた妹の興奮した目の色を、わたしは忘れることができません。
母は、笑って言いました。…いいじゃないの、それぐらい。ちょっと、見てやろうと思っただけだよ。…オマエミタイナ、ツマラナイオンナニヒッカカル、オトコノカオッテヤツヲ。
わたしはその人と、すぐに別れました。そして、二度と会いませんでした。
この先も二人による監視が続くのだと、さとったからです。
…あれは監視では、ないのですか。
…見世物ですか。世にも楽しいショーなのです。母と妹にとっては。
…奴隷ごときが、おままごとの恋愛を楽しむ。ちょっと覗いて、潰してやろうかね。
妹はけたたましく笑います。
「あやしーと思ってたんだぁ。だってお姉ちゃん、やけに聡の肩ばっかり持つし。私より、あいつのこと好きみたいじゃん。…イイヨー。隠すこと、ないから。…そんなに好きならさあ」
ぱくぱくと、華やかな唇が動きます。――貸してあげるよ。
「そんでコドモが生まれたらさあ、私にくれればいいよ? 育ててあげるよ? でも、お金チョーダイね。たくさんチョーダイね。私、周りに黙っててあげるからさあ」
「シキュウなんてね、使わないと腐っていくんだから。お姉ちゃんはもう、使うあてなんてナイでしょ。私が、借りてア・ゲ・ル――」
…子宮。しきゅう。シキュウ。
手のひら大の丸い肉塊は、てろんと艶めいたピンク色をしています。
とってもきれいな桃色なの。
…なぜ、知っているかですって?
お母さんが私に、見せてくれたから。
…これが、コブクロだよ。子袋。…おまえのカラダにも、ひとつ入ってるだろ?
…私は、吐きました。
…いいえ、吐きませんでした。
…いいえ、いいえ、いいえ、いいえ!
…知っていました。
わたしたちが食べていたお肉は、人間のものでは、ありませんでした。
猪、だったんです。
イノシシ。いのしし。
新しい事業を探していた父が、県外から飼っている人をたずねて、譲ってもらったんです。
赤ちゃんのうちは、縞々で。目も鼻も真っ黒で、つやつやしていて。
とってもかわいいんですよ。
とっとことっとこ、成長するとすごいスピートで走ります。
トウモロコシなんで、皮ごとぼりんと砕きます。丈夫な歯をもっています。
青い草をどっさり摘んでもっていくと、緑のうんちをするんです。
うれしそうに、食べてくれます。だいじなわたしの、友達…。
人間のオトモダチ…いなくても、いいの。
だって、ミソちゃんがいるもん。穴掘り上手のスコップがいるもん。
鼻筋に白い毛が一筋ある子は、シロっていうの。
ちょっと痩せてて、おじいさんっぽいの。オスだけど静かで、おとなしい子だよ。
わたしが行くと、柵に足をかけて待っていてくれるの。
…ねえ、シロ…。シロは殺さないよって、お母さんは言ってた。…だから、大丈夫。大人になったオスは、肉が固くて食べられないんだって。
…だからね、ずっといっしょ…。
『あんたの食べたの――シロの肉、だから。…やっぱり、オスの肉は臭いわ。食えたもんじゃない』
…ガッコウが終わると、わたしは家に、帰りました。
イツモノ、ヨウニ。
家の中はへんに、しんとしている、のだ。
台所の天袋から、なにかがぶら下げられています。
――ぶらぁり、ぶらり。
子供が下げた、てるてる坊主でしょうか。
いいえ、いいえ。
あれは、あれは、赤い肝臓。
殺されたシロの、おおきな肝臓。
したたる血の音が、わたしに時間の経過を教えます。
…たん、たたたん、たんっ…。
ぼとっ。ぼっ、ぼっ。
鈍い輝きを放つステンレスに、重さのある液体が広がり、排水溝へ呑みこまれてゆきます…。
…こうしていては、いけません。
…わたくしはもう、ゆかなくては…。
しあわせな王国の王さまと王妃さまは、いびきをかいて眠っています。
毎晩欠かさない大量のアルコールが、王さまを生きた屍にかえてゆくのです。
せっかく王国を…お城を建てたのに。
ちじょうのえいがは、はかないものね。
わたしは荷物の中から、磨きあげた肉切り包丁をとりだしました。
屠殺に続く解体作業に慣れた今では、体になじんだ大切な相棒です。
肉にはロースやモモなど部位ごとに名称がつけられていますが、単に値段を付けるためのものではありません。
父が呼んできた肉屋さんの手際は、実に見事なものでした。あらかじめパーツごとに分けられていたかのように、大きな半身から肉の塊が切り出されてゆきました。
彼がテコの原理で包丁を入れるたびに、ぼりん、と音を立てながら腿が外れ、ヒレが取り出され、おもちゃのパーツのごとく確実に積み上げられてゆくのです。
それに対して、おっかなびっくり真似ただけの父の仕事の痕は、実に無様なものでした、
無理やり引きちぎった肉片が垂れ下がり、青白い骨を汚していました。
構造さえ正しく理解すれば、解体作業は非力な人間にも可能です。持ち運ぶ仕事は機械や人手に頼りますけれど。
私は肉屋の職人技を、基準と定めて就職先を決めたのです。
私なりの美を、完遂するのみです。
人を殴り殺せる鈍器や工具なら、いくらでも隣の工場に転がっているのですけれど。
自分の商売道具が、凶器になる。それも少しは愉快な気がしますけれど、正しき解体には及ぶまいと思えます。
無知。無理解。無能。無頓着。
四拍子も揃った父の欠点を、正しく積み上げてあげましょう。
滑り止めのついた手袋と、帽子つきのレインコートが、跳ね飛ぶ血を防いでくれるでしょう。
――さあ、解体ショーのはじまりです。
父のやすむ寝室は、とても臭い。アルコールと口臭と、人間の脂のにおいが入り混じっています。
息が止まりそうになりますが、ここでためらってはいけません。
思い切って、布団を持ちあげます。
一応はヒトのカタチをした、豚より劣る存在が二つあり、ぶうぶうぐうぐう寝ています。
いち、に、のさんっ!
わたしは刃をふるいます。
リズミカルに飛びかかり、スナップをきかせ、ひと打ちにします。
あとから王冠を飾るので、額を傷つけてはいけません。
耳の下にある、乳様突起を狙います。
なにも、すぐに命を奪う必要は、ないのです。
新鮮なお肉は、生きたまま血を抜くことがなによりも肝要ですから。
…ぶぐう、ぐむっ、……。
変な音をたてて、父は動かなくなりました。
実にみっともない、死にざまです。
豚のほうが、よっぽどかわいく鳴くのにね。
さあ、王妃さまもご一緒に。
ぶぎゅう、ぐむむむ、ごわあわぁ。
さあさあ、みなさんご一緒に。
吊るして血抜きをいたしませう。
牽引ロープだって、台車だって、なんだってここには、ありますからね。
お父さん、ありがとう。
生まれてはじめてもった、感謝の気持ちね。
居間のすぐ前まで、クレーンが来てくれるようになっているなんて。
とってもステキなマイホーム。
ぶうらりぶらり、揺れながら。
クレーンで吊るす、死体大サーカスのはじまりです。
残念ねえ。観客がわたしひとりしかいないなんて。
ぐいんぐいんと振り回し、大いに輝くスペクタクル。眩しき血の幻影をば、周りに花火と散らしませう。
…あッ、いけない。わたしったら。
そこらじゅう、血だらけになってしまうわ。家の白壁にも、どす黒い赤さの花模様が。
クレーンをさっそく、工場の中に移動します。リモコンひとつで、とっても便利!
わくわく震えながら作業を進めていたら、二階に寝ていた妹が、ようやく起きてきたみたい。
「…お姉ちゃん、朝からなにやってるの。…――ひっ!」
――黙れ、と。ぎらりと陽光に輝く刃をかざして、私は言いました。
「これが、見えないの? あんたの目は、節穴?」
彼女は豚のように叫びました。
「ぎいいいいい、ひいいいいっ!」
「いいから、その口を早く閉じなさい。…コロスよ?」
わたしは妹を、縛ります。
…最初から、こうすればよかったのね。
あんたのしゃべるところ…ただの一瞬でも、不快だったわ。
ガムテープで口をふさぎ、目と鼻はやさしく開けておいてあげます。死んでもらっては困るもの。
観客はひとりでも、必要よ。
手首をぐるぐる巻きに、足首も同様に。念を入れて、ロープも使いましょうか。
「血抜きを終えたら、解体作業があるのよ。しっかり見るのね、その目で。あとで、食べさせてあげるから。楽しみにしてて」
輝く作業台に、半身に割った肉塊を横たえます。
腹膜を傷つけては、いけません。
すうっと縦に血一条。走ればあとは、手開きで。
やつらの臓物を、掴みとれ。
でろんと剥き身に致しませう。
…ああ、いい。
さつぱりした。
まるで血海の中さ、およぐよだ。
おらァおらで、ひとりでやるも。
ちつともかなしまなァで、まっててけれ。
「…俺はおまえを、殺す権利をもってるんだ。おまえのちっぽけな命なんか、どうにでもなるんだ。…殺して、いいんだ。俺には、その権利がある!」
自らの建てた王国で暮らすうちに、父の考えは自らに都合のいいよう横滑りしていったのでしょう。
盗んだうさぎを捨て、犬を捨て――食べるためではなく、たわむれに猪の命を奪ううちに。
自分は、神のごとき王位に就いたのだと。
気分ひとつで、他者の生命を奪う、資格があるのだと。
わたしは王国を、憎みます。
わたしを肉塊のように見下し、ナイフのような視線で刺した、母を憎みます。
わたしを踏み台にして、王国の春を満喫しようとする妹を、憎みます。
死ねエエエッ、死ねっ、死ね死ねシネシネシネシネ……
ゆる、さない――……。
死んで楽になることは、ゆるさない…。
…ああ。
もうじき殺戮の夜が明け、朝日が顔をのぞかせる。
…王国の、真の姿があらわれるときです。
わたくしどもを生んだ両親も、ただの内塊にすぎないということを。
今こそ妹に、教えてあげようと思うのです。
それが、わたくしにできる…姉としてのさいごのつとめなのですから。
…それは、王国。
かつてその地を支配せし者の、夢の痕。
すべてを吐きだした藤原アケヲは、操り糸が切れたように目を閉じた。
並木陽斗が最後に彼女をみたのは、留置所から刑務所へと移送される日のことだった。
藤原アケヲは血色のない唇にうっすらと笑みを結んで、かるく頭をさげる。
首筋に滑りおちた髪に、白いものが混じっている。
「…充分すぎるほど、生きた気がします。…もしかしたら、わたしは五歳で死んでいて…。ずっと生きたふりをしていた、幽霊だったのかもしれません。…お世話になりました」
空っぽの取調室に、座る者のない椅子が並んでいる。
空気を吸いに、外にでた。
ごま塩頭の男と、若い男は無言でタバコを受け渡す。
(…あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から、やがて本降りにかわりそうな雨つぶが落ちてくる。
並木陽斗は、煙を吐いた。
閉じた瞼の奥に、みぞれはびちよびちよと降りそそいだ。
【完】
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