王国のあさ(2)
わたしの家は、鉄工場をしています。
ギイギイとおそろしげな音をたてて、毎日青や赤の火花を散らしています。
きれいだけど、じっとみてはいけません。
眼球が、やけどをしてしまうから。
父は、お面をつけています。
ロボットみたいなお面とつなぎの服や手袋は、父を月面探査者みたいにみせています。
知っていますか。
お面のガラスのところは、黒いガラスがはまっているんです。
でも、よくみると黒じゃないの。
うすーい緑で、日光に透かすときれいなんですよ。
わたしはそれを、そっと持ってみたことがあります。
父のいないときにね。
溶接はしません、こわいから。
工場はホコリっぽくて、鉄くずがたくさん転がっています。
たくさんの機械や工具が、てきとうに置かれています。
転ばないように、足もとを確かめながら探検します。
壁が赤茶色に汚れているのは、血じゃないの。
鉄に、ペンキを塗るからです。
いいえ、ペンキではありませんでした。
さび止め、っていうんですね。
鉄がそれ以上変色しないよう、父が完成させた製品に吹きつけるんです。
それは、母の仕事です。
シャチョーフジンに、なるはずだったのに。
せっかくイチリューキギョウにつとめていたヒトをつかまえて、ケッコンしたはずなのに。
プリプリ怒りながら、母はさび上めをぬるトリガーをにぎります。
イチリューじゃないのは、悪いことなのかしら。
シャチョーフジンは、ステキなのかしら。
わたしには、わかりません。
母が、シャチョーフジンだというのなら。
母のきらいなわたしは、シャチョーレイジョウ、ってことになってしまいます。
そんなの、おかしいですよね。
…シャチョーフジンとレイジョウたちは、しらないひとのおはかへいって、くだものをぬすみました。
それは、ももでした。
うちにもってかえって、たべました。
わたしは、いいました。
おかーさん。ひとのおうちのおはかから、かってにもっていっていいの、って。
母は「いいんだよ」といいました。
…おそなえは、おろして食べていいんだよ。死んだ人は、食べられないんだから。
わたしは、あとでおもいました。
うちのおはかだったら、いいとおもう。
でも、ひとのうちのはどうかなあ。いけないんじゃないかなあ。
そうおもったけど、おそすぎです。
わたしはかんがえるのがおそくて、いつもしかられます。
ことばにするのは、もっとおそいです。
はなすことを、ようやくおもいついたときには。みんなはもう、そのことをわすれてしまっているのです。
…のろま。うすらばか。
それが、わたしのなまえです。
わたしのなまえは、だれもちゃんとよびません。
つけたひとも、おぼえていないんだもの。
おまえなんか、どうでもいい。
せなかで、そういわれているみたいです。
ねえ、おとーさん。
わたし、なんのためにいるの。
なんで、うまれたのかな。
ねえ、おかーさん。
いらないのに、わたしをうんだの?
…ああ、よけいなことをたくさん。たくさん思いだしてしまいました。
また、しかられるでしょうか?
黙っているほうがいいですよね。もう。
言いかけたから、桃の話だけさせてくださいね。
…わたしたちは、くらやみで、桃を食べました。
食べているとちゅうで、電気がきえたからです。
ちゃんとしたおうちの人は、知らないことです。お金をはらえないと、電気も電話もつかえなくなるのです。
暗がりのなか、母がロウソクをもってきました。
まっくらやみのまんなかに、ほとけさまにあげるロウソクがいっぽん。
ももを食べる音だけが、くらやみにひびきます。
しゃくしゃく、じゅるり…。
なんだか、ヒトの頭を食べてるみたい。
へんなの。
シャチョーフジンとレイジョウのすることじゃ、ないとおもうけどなあ。
わたしたちは、まるでオバケみたいです。
ほんとうはとっくに死んでいるのに、じぶんたちはそのことに、ぜんぜん気がついていないみたい。
いつも、ひっしなんです。
お腹がすいてくるしくて、食べものをぬすんできます。
もらった食べものがあるとき、母はとてもうれしそうにしています。
でも、わたしはイヤでした。
いたんでいても、おいしいおいしいって食べなきゃいけません。
涙を流すぐらい、よろこんでみせないといけないのです。
…ねえ、ほんとうに。
死んでるんだったら、いいのにな。
だけど、ほんとうはいきてるから。
目をあけて、ふとんのなかで毎日がっかりします。
「…何なんですか、殺しの理由は」
「…ああ」
吉澤保による事情聴取は、翌日以降も続けられている。
藤原アケヲの様子は、淡々として平静だという。
狸と言われる吉澤さんの名人芸を、近くでずっと見ていたかったのに。
並木陽斗は、現場で拾った紙片の分析に回された。
参考人と同席するには、冷静さがたりないと判断されたのかもしれなかった。
同じ捜査班の仲間であるから、情報の共有は可能だ。
「――肉、だと」
「なんですか、それ」
「藤原アケヲが、言ったんだよ」
…どういうこと、だろう。
健全な家庭に育った並木陽斗の頭脳は、奇怪なことを聞かされたせいで軌んだ音を立てる。油がたりないように、うまく回転しない。
「…飯をとったんだ、蕎麦屋から」
参考人であるうちは、食事の希望を聞くことができるのだ。
逮捕者なら、留置所で冷えた弁当を食べるしかない。
北向きの取調室は、一日じゅうひんやりしている。
…あたたかいもの、と思ってな。
吉澤保は、スチールグレーの机の上に蕎麦屋のメニューをすべらせた。
藤原アケヲが、目を落とす。
『あいにく、自腹です。奢りは禁止されていまして』
『…ええ』
『蕎麦はあまり旨くない。カツ丼のほうがイケますよ』
アケヲの目の縁に、何かが滲んだ。
彼女は、低く言った。……肉……。
『…なんの、肉ですか』
『…豚でしょう。…嫌いですか』
その時の、藤原アケヲの狂気をはらんだ暗い目を。忘れまい、と吉澤は思った。
『…いいのかしら』
『…?』
『わたし、赦されているのかしら…』
――友達の、肉を食べても、よいのですか。おいしいと感じることを。赦され、ますか――?
「どうしたんです、それから」
「食ったさ、カツ丼を」
「彼女は、なんて」
…旨い、とさ。
――わたし――。豚じゃ、なかった……。
…でも、わたしの肉は…、こんなに…おいしくないと思います。
並木は思わず口元を覆った。昼の牛丼が、逆流してきそうだ。
「それより、詩の分析はどうなってる」
「…あ」
吉澤にむかって説明をしようとしたところで、課長に呼ばれる。…おい、こっちでやれ。
…わたし…。
――まだ、いきてた。
きょうも、学校にいかなきゃいけない…。
…イヤだな。
…え?
そんな家にいるより、いいでしょうって?
…それはね。
給食はいい匂いがするから、すごく好き。
ぜんぶ、とってもおいしいし。あまった牛乳とか、もらえるし。
だけど、うちのことはなんにも話しちゃいけない。
それが、くるしいの。
ほんとうはわたしだって、みんなといっぱいお話ししたい。
あとはね、みんながわたしのことをヘンだとおもってるから。
たんにんの先生も、わたしみたいな子、うれしくないみたい。
めんどうくさそうに目の端でちらっとみて、すぐにどこかへいってしまうの。
…わかるけど。
自分が先生だったら、わたしみたいな子供、イヤだとおもうもの。
わたしだって、じぶんのこと…すきじゃない。すきになんて、なれないよ…。
どうやったら、ひとに嫌われなくなるのかな。
わたしはどこで、道をまちがったんだろう。
むかーしはね、おともだちがいたの。…ちゃんとした、ニンゲンのだよ?
毎日まいにち、だれかのおうちにあそびにいってた。男の子も女の子もいて、とってもたのしかった。
お父さんがおうちををたててひっこしてから、なんかおかしいんだ。
おれはイッコクイチジョーのあるじだ! って、まいばんいばってお酒をのんでるの。
ここは、おれの城だ。王国なんだ。
工場だって、じぶんの力でたてたんだ! って。
ゆめをかなえた、って。
とっても、しあわせなことじゃないのかな。
どうしていつも、こわい顔してるのかな。
だから、なのかな。
…男のひとって、ちかくにこられるとイヤなんだ。
男の子も、こわくてイヤ。
後ろからけったりされるの、いたいもの。
男の子の力って、すごーくつよい。
後ろの机と前のいすのあいだに胸がはさまれたとき、しばらく息ができなかったよ。
でも、わたしをみて、みんなおもしろそうに笑ってるの。
だから、わたしは、あんまりいたくないふりをした。せなか、まるくなっちゃったけど。
机のうえに、チョークのこなと牛乳をまぜたので、グルグルもようをかかれたり。
つくえのなかに、ゴミをいれられたりするの。
もようは定規でひっかいてもとれなくて、こまったよ。
じぶんがヘンなのは、わかってる。
だけど、どうしようもないよ。
住んでるうちが、ヘンなんだもん。
やっと学校が終わると、ほっとする。
とつぜん後ろからけられたり、しないから。
大学の国文科をでて警察学校に入った並木陽斗は、周囲から少し変わり者だと思われている。
物陰からホワイトボードをだしてきて、中央に据える。
右側に現場に残された紙片の書き写しを、左側に宮沢賢治の詩を並べた。
違いがみられる部分には赤で下線を引き、改変箇所が一目でわかるようにした。
「…その、紙切れ。藤原アケヲは、自分が書いたと認めているわけか」
「認めているなら、いまさら分析の必要もないんじゃないの」
「動機の解明の、一端になればと思います」
「…かまわんから、続けろ」
「出典は宮沢賢治の詩集「春と修羅」からで、おもに『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』の三篇からとられています。この詩の共通点は、二十四歳の若さで世を去った妹によせる詩だという点です。改変は最小限にとどめられ、入れ替えられた単語も音の近いもの、字面の似たものを選択しています」
「ということは、何? 藤原アケヲは、その詩が好きだったってこと?」
「少なくとも、尊重はしています。忠実なパロディと言い換えてもいいでしょう」
「パロディはパロディだろう。独創性もない模倣に、なんの意味がある?」
「その詩人も、亡くなっているわけだね」
並木は、手帳に目を落とした。…宮沢賢治は、三十七歳で病没しています。
「…死因は」
「一説には、栄養失調とも。肉食を拒み、晩年は徹底した菜食主義を貫いていたそうです」
「妹の…とし子の死因は」
「当時は不治の病とされた、結核です」
…藤原アケヲは、一体なにが言いたかったんだ。
…詩人に、自らをなぞらえたかった、とか。
一同のざわめきを割って、枯れた声がひとつの見解をしめす。
「――心境が、近かったんだろう」
視線が、吉澤保に集中する。
「…藤原アケヲは、泣きたかったのかもしれない。しかし、周囲の証言によれば、彼女は感情をあらわすことが極端に少ない性質だった」
「だから、自分の親を殺したと?」
「そんな、浅い動機で…」
…ちょっと失礼。
吉澤はざわめく一同を尻目にふらりと立ちあがり、外に出た。
懐をさぐり、手が止まる。…やめたんだった。
横合いから、紙箱が差しだされる。
並木陽斗だった。
「どうですか」
「若いモン向けの銘柄だな」
引っこめようとする手をつかまえ、一本だけ抜きとる。
煙は細く高くたなびき、空に吸いこまれて消えた。
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