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それは屋根よりも高く:序

「あーっ!もうやだ!いやっ!こわいよー!!」
「大丈夫ですよー」

今、私はとてつもなく後悔している。今ここから逃げ出したい。手を繋ぎ、歩いている看護師さんの手を振り払って、ダッシュで病室に戻り、付き添いに来ている母に「逃げよう!」と言ったら、連れて帰ってもらえるんじゃないか。
「もう無理ー!!」
「はいはい。怖くない、怖くない」
多分、このアイデアを実行に移したら、いろんなものを失うと思う。でも、それでもいい。もう、なりふり構ってられない!!
「はい、着きましたよー」
「ヒィ!」
手術室の自動ドアが開く。中には衛生キャップを被り、マスクをした看護師さんが待ち構えていた。いや、まだ……まだワンチャンある。敵は二人か。よし、いける。自動ドアが閉まる前に、二人まとめて、なぎ倒して……。
「それでは、よろしくお願い致します。」
手術室まで連れて来てくれた看護師さんから、マスクをした看護師さんに、私の身柄が引き渡される。チクショウ、ここまでか……。

私を確保した看護師さんは、力強く手をひき、入口の奥にある自動ドアへ向かった。扉が開く。目の前には、ドラマでよく見る手術室の光景が広がっていた。あ、これガチな手術のやつ。
「こわいいい」
「はいはい!大丈夫、大丈夫!怖くない、怖くない!」

なぜ二回ずつ繰り返すのだ!私は大人だ、子どもみたいに扱うでない!!そう心で叫びながらも、怖じ気づき歩みを止める私を、看護師さんが無理やり手術台まで連れて行く。そして、あれよあれよという間に、私を手術台に寝かせた。
「あなたのために、暖かくしといたのよ」
「わあっ、ほんとだあ!」
寝転がった背中がぽかぽか温かい。そこは電気毛布が敷かれ、寒くないようになっていた。気遣いが沁みる。こういう些細なところにホスピタリティーみたいなところって現れてきますよね。素晴らしいです。……と、感動したのも、束の間。看護師さんは、私が手術台から転げ落ちないように、足や手を手際良く固定する。そして、手術着のマジックテープが剥がされ、胸にはいろんな器具が装着された。そう。今の私は、まな板の鯉。捌かれるのをただ待つのみ。

「それでは、麻酔の点滴を入れますねー。少し冷たくて、ヒリヒリしますよー。どうですかー?」
たしかに、ひんやりとした液体が左腕に流れて来ているのが分かる。

「はい、すこし、ヒリヒ……」

 ここで、私の記憶は途絶える。




【……A few months ago(数か月前)】




「痛み出したのはいつから?」
口腔外科の先生は、撮影した口内のレントゲン写真を見ながら、私に訊ねる。
「一週間くらい前ですかね」

1月の初め頃。私の口内左下にある親知らずに、激痛が走った。あまりの痛さに夜も眠れない。念入りに歯磨きしても、冷やしても、鎮痛剤を大量に飲んでも、まったく効果はなかった。

実は、親知らずが痛み出したのは、これが初めてではなかった。さかのぼること、数年前。まだうら若き乙女だった女子高生の私が、地元の小さな歯科医院を受診した時、親知らずが歯茎の中に埋まって、横向きに生えていることを知った。そして、それは歯科医院ではなく、口腔外科じゃないと処置できず、歯茎を切開し、埋まっている歯を削って抜かないと、どうしようもないらしい。
私は、いったん何も聞かなかったことにした。私には親知らずなんてない。そうよ、そんなもの、この私に生えているわけないじゃないの。さ、フレンチトーストでも焼いて食べましょう。爺や。
……と、放置したツケが今まわって来た。過去にあったものとは比べものにならない激痛。これは、いよいよやばい。そうして、私は市内で唯一、口腔外科のある病院を受診したのだった。

「この親知らず、かなり成長していて、根っこが神経のすぐ近くまで成長しているんだ」
先生は、ペンでレントゲンをすっとなぞり、耳の付け根と下顎の関節辺りから伸びている神経を指す。
「あー。8年くらい放置してたんで、それくらい育つでしょうね」
「神経と非情に近いので、もしかしたら、唇に痺れが残るかもしれない」
「えっ!」
「まあ、とにかく早く抜いた方がいいから、手術の日を決めましょう」

かくして、親知らずの手術が決まったのである。
横向きに生えた親知らずは、歯茎の中で、隣の歯を圧迫し、ぐいぐい押しているらしい。それが激痛の正体。
「今は左下の親知らずが痛いけど、多分右下の親知らずも痛み出してくるよ」
と、先生が恐ろしい予言をするので、左右の親知らず合計二本を抜くことになった。
私が受診した病院は、親知らずの抜歯手術には三泊四日の入院コースが義務付けられている。手術は全身麻酔で行われる。

「たかが、親知らずで?」、「私も手術したけど、そんなんじゃなかったよ!」という方もいらっしゃると思う。だがしかし、病院サイドが「三泊四日の入院です!」、「全身麻酔です!」、と言うんだから、仕方がない。私が「いやです!」と言ったところで、親知らずは痛いままなのだ。
ちなみに、私は今まで手術どころか入院もしたことがない。すべてが未知の体験で、予想もつかない。なかでも、一番わからないのが全身麻酔だった。どんな感覚なのだろう。一瞬で寝てしまうのだろうか。もし、手術中に目を覚ましたりしたら……。怖い。不安で仕方なかった。

 

◇入院当日

母と一緒に病院に向かう。ナースステーションで尋ねると、六人部屋の病室に通された。ルームメイトは、確実に60歳は超えているおばあちゃん5名だ。おばあちゃんたちは、夕食前の自由時間のようで、ベッドに腰掛けてテレビを見ていたり、ベッドに横になっていたり、のんびり過ごしていた。こちらを見て、一応会釈はしてくれるものの、私への警戒心が伝わってくる。

一番端の窓側が私のベッドだった。看護師さんが院内の説明をしてくれた後、翌日の手術について説明を行なうため、執刀医の先生のもとへ案内してくれた。ちなみに、その説明には、家族の立ち会いが必須だったため、仕事を早退した母が立ち会ってくれた。
先生は、頭蓋骨の模型と私の口内のレントゲン写真を使って、手術内容を説明する。ここにメスを入れて、歯を削り出します。全身麻酔による手術なので、鼻からの気管挿管を行います。手術時間は、約一時間の予定です……など。

説明が終わり、病室へ戻る途中で、手術への現実感が一気に増して、私はとても不安になる。そんな私に追い打ちをかけるように母が呟く。
「まさか挿管もするとは思ってなかったわ。でも、そうね、必要だね」
元看護師の母は、うんうんとひとり頷きながら、どこかアンニュイな雰囲気を醸し出している。
「なに!!挿管ってなに?!」
「鼻から管を通して、気道を確保するのよっ!」
キリッ!漫画ならそんな効果音が書かれていそうな面持ちで、母は言い放った。鼻から管を通す、だと……。
「ねえ、管を出す時、オエーってなる?ゲロゲローってなる?」
「大丈夫よ!麻酔で意識はないから!」
ええ、それって大丈夫なの?鼻から管を通されて、口の中をガリガリ削られて、全身麻酔で意識もなくて、私の体は一体どうなってしまうんだろう。でも、最早どうすることもできないのだ。

 病室に戻ると、夕食が置かれていた。明日は手術のため、朝から絶飲食。その翌日から食事が許可されるのだが、すべてミキサーにかけた流動食らしい。だから、固形物の食事は最初で最後だ。味わって食べよう。私は、ベッドに座り、箸を手に取る。

「じゃ、お母さんは帰ります」
「えっ、もう帰るの?もっと、いてもいいんだよ」
「大丈夫!ご飯つくらないといけないし、帰るね!」
そうして、母は帰った。私はひとり。夕食は、美味しくもまずくもなかった。THE無難。夕食を食べ終わって、手持無沙汰になった私は、テレビを見る。

「私は、八時から『ためしてガッテン』を見るんや」
突然、隣のベッドのおばあさんが口を開く。
「私は、野球の親善試合を見てるところ」
「私はサッカーに変えたわ」
病室のおばあさんが口々に、今まさに視聴しているテレビ番組の宣言しはじめる。
「じゃあ、私は『踊る!さんま御殿!!』」と、思いきって会話に参加する勇気もなかった。

その後、消灯時間になっても、おばあさんたちのお喋りは続く。
「田中さん、寝たんか」
「……寝とらんよ、横になってるだけ」
またしばらくして、「田中さん、寝たんか」、「寝とらんよ」という確認作業が行われていた。おかげで、その夜、私はまったく眠れなかった。


→『それは屋根よりも高く:歯』につづく


※2016年ごろに書いたものを加筆・修正。