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それは屋根よりも高く:歯

◇手術当日
起床の放送アナウンスで起こされ、看護師さんが朝の検温にやって来る。
「今日は絶飲食ですので、点滴で栄養を送りますね」

そう言って、私の左腕に刺さっている管を点滴パックに繋いだ。だからといって、お腹がいっぱいになるわけではない。そんなことおかまいなしに、おばあさんたちは、地元がテレビで紹介されていると、とても盛り上がっていた。空腹プラス睡眠不足で、私はとてもイライラしていた。思わず、母にラインする。

『朝から地元がテレビに紹介されてるみたいで、病室はとても盛り上がっています。朝食は、絶飲食で食べられません』
『おはよう♪ それはつらい』
……『♪』じゃねえんだよな。そうこうしている内に、朝食が運ばれてきたらしい。テレビの実況から朝食メニューの実況に移る。あの微妙な病院食でも、今の私からしたらご馳走だ。
『朝食を、襲って奪うかもしれない』

 12時になったら、大部屋から個室に移ることを看護師さんが教えてくれた。この時、私の不安と恐怖はピークに達していた。誰かに優しくされたい一心で、フェイスブックに記事を投稿する。これはとても浅はかな行為。浅はかだと分かりながらも、そうせずにいられなかった。多くはないが、数名がコメントしてくれた。私は、この人たちを大事にして生きて行こうと、心からそう思った。

『お母さん、まだ来ないの?いつ来るの?』
手術に立ち会ってくれる母に、精一杯のSOSを送る。
『14時くらいかな』
『そうか。もう会えないかもね。私の血液型は、A型だから。もし私の身に何かあったら、あとはよろしくね』
『外は、あられだよ』

突然の、天気の話……。ベッドから窓を見る。灰色の空が広がっているだけで、あられが降っているのか、あまりよくわからない。でもいい。あられが降ろうが、みぞれが降ろうが、何もかもどうだっていい。

どうして、こんなことになってしまったのか、とぼんやり考える。
なぜ手術を受けなければいけなくなったのか。それは、親知らずが痛くなったから。痛くなって、病院に行ったら先生に抜いた方がいいと言われたから。それに、私が同意したから。手術を決めたのは私。そう、ぜんぶ私。手術とか、親知らずが痛いとか、私のことなんだから私が決めたの。責めるなら、私を責めるべきなの、私。

ベッドのカーテンが開いて、看護師さんが顔を出す。
「予定より少し早いけど、個室に移りましょうか」
「……はい」
賑やかな大部屋ともお別れだ。朝はとても殺気立っていたけれど、今となっては、一抹の寂しささえも感じる。さよなら、おばあさんたち。そして、いってきます。

個室の窓からは、山が見えた。手術の準備に取り掛かるまで、その山をじっと見ていた。その風景だけは鮮明に覚えている。冬の山は、深い緑色をしていた。灰色の空に、深い緑色が広がっている。……あ、鳥だ。鳥が飛んでいる。

看護師さんが、手術着を持って来たので、着替える。手術着は、ワンピースのような形をしており、マジックテープを合せて、前を止めるタイプのものだ。ブラジャーは外し、パンツ一枚になって、それを着る。

もうすぐ14時30分になる。手術の開始予定時間だ。それでも、お母さん、まだ来ない。もう一生会えないかも知れないのに。
心細くなった時、側にいて欲しいと思うのは、やっぱり母だ。あらためて、母親の偉大さに気づく。お腹を痛めて、私を産んでくれた母。柔らかくて、優しい温もり、生命の源……。なんだかもう、よくわからないけれど、はっきりしているのは、私はマザコンなんだということ。

そんなことを考えていると、病室のドアが開く。私は、「お母さん!」と思い、ぱっと顔を上げる。しかし、看護師さんだった。
「遅くなってごめんねー!」
その後ろから、お母さん。
「遅い!もう手術の時間だよ!!」
怒ったように言ってしまったが、とても嬉しい。思わず、笑みがこぼれる。
「じゃあ手術室に移動しましょうか」
母との再会も束の間だった。看護師さんは、優しく微笑みを浮かべ、そう穏やかに私に告げる。
「えっ?もう??今ですか?」
「じゃあ、お母さんは病室で待ってるねー!」

行きましょうか、と看護師さんはドアを開けて、私が来るのを待っている。手術後は、ベッドに乗せられて病室まで帰って来るのだが、行きは手術室まで歩いて行く。そう、自分の足で、自分の意思で向かうのだ。手術台にも、自分で上がる。私は、振り返り、母に近づくと、その手を軽く握った。
「はいはい、いってらっしゃい」
完全に呆れている様子の母。
「……いってきます」

私は、母にゆっくりと手を振り、病室のドアを閉める。怖くて怖くて仕方がない。今世紀最大のナーバス。いやでも、体を良くして貰うために手術に行くんだから、そんな悪いことされるんじゃないだからさっ☆
そんなことを考えて落ち着こうとする。けれど、それには何の意味も無く、私の心がポキリと折れるまで、時間はかからなかった。



 

【……Let's turn back the clock(時を戻そう)】



バンバンバン!

「きいろさーん!起きて下さい!きいろさーん、聞こえますかー?」

バンバン!とすげえ音が聞こえてくる。何?!なにごと?!?!あ、これ?バンバンって思いっきり肩叩かれてる?私?私の肩?なに??すっげー叩かれてるね??……私は、ゆっくり目を開ける。

「きいろさーん! 終わりましたよー!」

バンバンバン!「はあい」。そう返事をしているつもりでも、ちゃんと声が出ない。気を抜くと、また意識を失いそうになる。バンバンバン!「起きて下さーい!」。「はあい」。徐々に、朦朧としていた頭が覚醒していく。鼻に違和感。何か入っている。あ、チューブだ。と気付いた瞬間、ズボボボッと勢いよく引っこ抜かれた。

「ゴホッ!ゲホッ!」
鼻が詰まった。息が出来ない。喉もすごく痛い。まずい、これ苦しい!
「いきができない!ゲホッ、ゲホッ!」
「大丈夫ですよ、ゆっくりしましょうね」
「いきがっ、いきがあ!」
「出来てますよー、吸ってー吐いてー」
「ぐっ、ぐるしい!」

鼻と喉の痛みに喘ぎながら、それとは別のことに気が付く。
「あっつい!」

体が暑くて暑くて堪らない。なんだこれは!!あれだ!!あの電気毛布と、掛けられた布団のせいだ!掛かっている布団を、思いきり蹴り上げる。体を冷まそうと、私は本能のままだ。
足をじたばた動かす度に、手術着がずれて、パンツが見える際どいラインまで、めくれ上がった。手術台の上で、私はあられもない姿になる。慌てて、看護師さんが隠す。
暴れ、叫び続けながら、私は手術台からベッドに移され、手術室を後にした。

何時間も口を開けっぱなしにしていたせいで、喉はガラガラだった。呼吸をする度に咳が出る。「ゲホゲホ」、「息が出来ない」を繰り返し叫びながら、病室に戻って来た私を、母は驚きと心配と、半笑いで迎えた。そして、ベッドを押して来た看護師さんに言う。

「まあ、もうこの子ったら! 本当にすみません。恥ずかしいわ、25歳にもなって!」
「息があっ、できないっ!」
「息しとるわな!」

なんで手術直後の病人の私が怒られなあかんねん!そう怒鳴り散らしたいが、喋ると喉が痛い。行き場のない気持ちを抱え、どうしようもない私は「ううん!」と唸るしかなかった。

「手術後、暑かったみたいで、布団を蹴って、ハレンチな姿になってしまって」と、看護師さんが笑いながら、母に余計な報告をする。そして、私の顎と頬を挟むようにアイスノンを巻き、左手の中指に血中酸素濃度を測る器具を装着した。

「やだわあ。本当に、すみません」
視界の隅で、ぺこぺこと頭を下げている母が見える。
ええやんか。そんな、謝らなくたってさ。それどころじゃなかってん。あの時は生きることに必死で、自分の姿がどうとか気にする余裕もなかってん。
なんだか疲れてしまった。頭がぼうっとする。麻酔がまだ体に残っているせいだろうか、私はそのまま眠ってしまった。



「きいろー」
カラカラカラカラ。名前を呼ばれ、重たい瞼を開ける。母が私に見えるように、何かを振っていた。カラカラ。喋る気力もなくて、じっとそれを見つめる。それは、透明な小さいケースだった。

「ほらっ!」
母は振っていた手を止めて、私の顔に近付けてくる。見ると、そのケースには、真っ赤な石のようなものがいくつか入っていた。

「さっき先生が持って来てくれたんだよ。手術で砕けちゃったけど、記念になるね」
その言葉を聞いて、私ははっと気が付く。もしかして、これは憎き親知らず。真っ赤なのは血。それをさっきからマラカスのようにカラカラ振ってたのか、このおばさん!
言いたいことは山ほどあるけど、体がとてもだるい。喋る気力すらない。

「じゃあ、きいろも起きたし、お母さんは帰るね」

その言葉に衝撃が走る。「え、行くの?」と、目で訴える。
ーーお母さん、私のこと見捨てるの?

「ははは、そんな目で見られても、お母さん、帰ってご飯作らないといけないし」
少なくとも、私の訴えは通じたらしい。私は、そっと母に向かって、手を伸ばす。母は、そっと私の手を握った。行かないでよう、お母さん。

「じゃあねー!なんかあったらラインしてねー」
そう言うと、母は手をほどき、代わりに私のスマホを握らせ、そそくさと逃げるように帰って行った。

ぴえん。……しん、と静まり返る病室。途端に心細くなる。スマホのホームボタンを押して、時間を確認する。17時過ぎか。……えっ、まだ17時過ぎなの。おいおい、嘘だろ。20時過ぎてると思ったわ。手術が終わってから、時間の経過がとてつもなく長く感じる。

眠っていたからといって、体の不調は何も変わっていなかった。喉はまだ痛く、鼻も詰まったまま。手術した場所を、舌で触ってみると、不自然にへこんでいて、縫われた跡が生々しかった。少し、血の味がする。口内炎も2か所ほど出来ているし、口の端は切れている。手術直後よりも、だるい気がする。

気持ちは落ち着いてきているのに、体が思うように動かない。精神と肉体が分離していて、私が私じゃないみたいだ。気を紛らわす何かが欲しいのだけど、テレビを見る気にもなれない。人の声を聞きたくない。手を動かすのも、しんどい。でも目はさえていて、眠たくもない。私は、しばらくの間、真っ白い天井をじっと見つめていた。

途端に、恐怖心が芽生える。私は、このまま動けず、眠れず、この天井を見つめて、夜を明かすのだろうか。大袈裟かも知れないが、その時の私には1分を1時間のように感じていた。時空の歪んだ、おかしな場所に閉じ込めれている気分だった。

 それから、いつの間にか少し眠っていたようだった。目が覚めて、1時間くらい経ったと思っていたが、たったの10分だった。
コンコン。病室にノック音が響く。どうやら、その音で起きたようだ。看護師さんが入って来る。
「ご気分はいかがですか」
どうやら点滴の様子を見に来たらしい。私は何も答えずに、彼女を見つめる。

「トイレしたいとか、ありませんか?」
今日は絶飲食だから、体に入れているのは点滴のみだ。でも……トイレ。私は、おずおずと口を開く。
「ちょっと、したい、気もします」

すると、看護師さんは、驚愕の事実を告げた!

「まだ体に麻酔が残っているので、2時間経って、先生の許可が出たら動けるようになるので、トイレにも行って貰えるんですが、今は絶対安静なので、動いてはいけないんです。我慢できそうにありませんか?」

にっ、2時間!1分を1時間くらいに感じている私に、2時間も待てと言うのか!

「もし我慢できそうになかったら、ここでしてもらいますので、教えてくださいね」
「こ、ここで?」

看護師さんは申し訳なさそうに私を見つめる。こことは、すなわちベッドの上。私は考える。ベッドの上でいたすのは、私にはまだハードルが高い。もちろん、止むを得ない状況なら仕方ないだろう。だけど、まだ止むを得たくない。

「がまんしてみます」
何かあったら呼んで下さい。そう言って、ナースコールを手に取りやすい場所に置くと、看護師さんは病室から出て行った。あと2時間。120分待てば、どうにかなる。いやあ、全然余裕、ディズニーでミッキーに会うために3時間待ったこともあるしね!それに比べたら、2時間でしょ。笑っちゃう!全然余裕じゃん!だから、それまでなんとか持ち堪えて、私の膀胱!!

しかし、1時間を経過したところで、私はナースコールを押す!

「どうされましたー?」
「あの、ちょっと、トイレが」
「我慢できそうにないですか」
「……はい」

少々お待ち下さいね、と言われ、ナースコールが切れる。すぐに病室のドアが空いて、看護師さんが、シリコンで出来た四角い洗面器のようなものを持ってきた。
「ちょっと失礼しますね」
そう言うと、看護師さんは、私のパンツを足首まで下げて、私のおしりの下に洗面器を設置する。周りに伝い漏れをすることないように、中心が凹んでおり、とても画期的な形をしていた。その洗面器をフィットするように置くと、何の優しさなのか、ハラリと、私の股間にテイッシュを一枚乗せた。
「終わりましたら、ナールコールで呼んでください」

……ああ、と私はぼんやり天井を見つめる。ベッドの上で、パンツを下げられ、股間にはティッシュ。いきなりパンツを脱がされるなんて、心の準備だってまだだったのに、何かを喪失した気持ち……。いやいや、そんな恥じらいはもうどうでもいい。いたすことに集中しよう。
……けれど、本当に悲しいことに出ない。いや、もうさあ、ここまでやったんだからさあ、パンツまで下げられたんだからさあ。これで出なかったら、何のために恥ずかしめにあったのよ!
……しかしながら、私の願いは空しく、膀胱まで届かなかった。仕方なく、ナースコールを押し、「だめでした」と報告する。看護師さんにズボンとパンツを履かせてもらった。

それから一時間後、歩いて良い許可が出た私は、無事にトイレに行くことに成功した。麻酔の副作用のせいか、立ち上がって歩くと、フラフラして、真っ直ぐ前に進めなかった。壁伝いにトイレに行くと、ちゃんとすっきりできた。
やはり、ベッドでするのは、私にはまだ難しい行為だったようだ。いくらか気楽になった私は、いつの間にかテレビを付けたまま眠ってしまった。

 
→『それは屋根よりも高く:休』につづく


※2016年ごろに書いたものを加筆・修正。