定型、発達、障害

自語りです。

自分の属性を語ったりすることなんてめったに無いのだけどこう胸が痛くなることがあると、今何を感じて、そういう人々に何を思うか、みたいなのは書き残しててもいい気がして書いている。発達障害持ちだよ。

私は高校2年のはじめに中退して、家を出た。16歳の夜だ。天気なんて覚えていないが、ただ視界に映るものすべてが暗く見えた。どんよりとした空気だけが肌に伝わって、胸に膿が溜まっているような気がして、梅田のバス停には数え切れないほどの人が待っていて、たくさんの人を乗せた夜行バスだったはずなのに、ずっと私一人だけだった気がした。社会は私を否定し続ける。そう思っていたが、当然社会が私を否定しているのではなく、ただ自分の無能さが自身を社会に順応すらさせなかっただけだ。社会が悪いのではない。ノリが悪い自分が悪い。信用してしまった自分が悪い。中卒なんだから暴力だって笑い話にしてやり過ごさなきゃいけないと思っていた。それができないなら、能力で示すしかない。追い込まれていくと終わらせたいと思うようになってくるのは、共通なんだろうね。どんだけ美しく楽しいことがあっても、夜道は寂しい。ずっとトンネルの中を走っているようで、反響し続ける音が嫌だと思うともうずっと憂鬱で、いいことがあっても、これを繰り返すなら止められる方を選んでしまうんだよな。

家を出てボロボロになりながら生きていて、ご飯を買うお金もないし、当然顔も痩せていくわけだ。飛び込み営業の仕事をしていたのだけど、お客からすれば家にいただけで悪臭漂う青年がインターホンを押して営業をしてくるのだ。どう転んでもゴミにしかならない人を相手にするほど人は暇ではないんだろう。でも、ある夫婦が優しくちぎった紙に連絡先を書いていつでも頼れと渡してくれたな。古びたアパートに住むタンクトップ姿で前髪を上げながらでてくる女性と、奥から睨みつけてくる男性。その夫婦は人生で交わるような風貌ではなかったし、自分の性格的にも裏と表ではあった。「突然だから食べさせてあげるものは今家に無い。そんないい人生を歩んでいないから説教するようなことだってできない。お金だって私達もない。でも、頑張って生きてるんなら、応援するよ。辛くなったらいつでもおいで」見ず知らずの私にそう声をかける彼女。

彼女は自分のことを説明しなかったけれど、もちろんどんな人生だったか未知なわけで、勝手に想像するのはおこがましいと思ったりもするのだけどね。対岸の人々も実は居場所なんて元は無くて、自分で自分の居場所を作って、ここだって決めてそこにいるだけなんだと思う。彼女はただ一方的に足を運んできた私を受け入れる形で、居場所を少し広げてくれた。そうやって広くなっていく。どういう意図だったかはわからないけど、こんな小さな出会いで居場所は量産されていく。SNSや、飲み屋、行きつけのラーメン屋が居場所だっていい。むしろ、開き直ってもいいんだよ。私はここにいるんだからそれでいいだろって。ここに決めたのだから、ここにいさせろって。発達障害だからなんだって。定型発達だったらできて当たり前のことが中心に考えられてる世の中だとしても、もちろん定形でもハゲるし胃に穴あくし、定形だから抜かり無くできるけど過労死ライン超えてましたって笑い話にもならない。定形発達だから陽キャってわけでもないし、人も事象もものすごく多面的なんだよ。生きていく中で、きっとたくさんの悩み事や痛い思いをしてきて、そうしてたくさんバイアスがかかって、自分勝手にこういう人はこうって分けてしまっているんだよな。

陽キャ陰キャ、満員電車に乗るサラリーマン、昼間に白い犬を散歩させる人、夜の新宿が好きな若い人、ハロウィンに渋谷へ向かう人、一人で牛丼を頬張る人。大工を想像したら男性が出てくるし、エンジニアを想像しても男性が出てくる。看護師や歯科助手なんかを想像すると女性が出てきて、栄養士を想像すると女性が出てくる。なんでもかんでもラベルをベタベタ貼りまくってる社会だから、自分の思い描く社会ができてしまうんだと思うよ。その延長線上で、だから発達障害は...って勝手に思い込んでないかしら。人はそんなに自分や他人を正しく測れるほど頭良くないと思うし、一人ひとりが知ってることなんてマジでミジンコサイズ。だから割り切って、仕方ねえなあくらいで、自分の居場所くらいは他人に決めさせないって思ったらいいと思うよ。発達障害だから鬱だから、居場所なんてないって、本来居たはずの場所から抜け出すことなんてしなくていいし、人の数だけ障害もあって、それを人は背負って生きている。

もちろんだからって絶望しなくていい理由になんてならないのは痛いほどわかるし、絶望ってのはまあ尺度は違えど多くの人の元に突然降り注いで来るものなんだよな。大事な家族を失った絶望も、ADHDだと診断された絶望も、みんなおんなじ絶望だよ。帰り道にきれいな夕日を見れてすこしいい気持ち担っている人の隣で、なにもできず一日が終わる虚しさにうずくまって動けなくなっている人がいる。自分にとっての絶望は隣の誰かにとっては日常だったりするもんじゃないかな。だったら、そういう人に少し肩を預けてもいいんじゃないかなって、今は思う。発達障害だからできないことがあるのは仕方ないと思うし、症状だってそれぞれの生活や性格で変わって無限にあると思う。そして解決の方法も無限にある。それを探らず、自ら解決の糸口を狭めてしまうのは愚行だね。生きた年数分の話があるんだから、それをたった一つが個性に名前がついたからって、全部かき消す必要はない。

発達障害とかそんなラベル貼って生きていくくらいなら、深呼吸してしらねえよクソがって振り払ってしまおう。当時の僕にとって彼女の手は絶望を振り払うに至らなかったが、社会の至る所に寄りかかるのも悪くは無い。いざ落ち着いてみると居場所は無数にあるような気がするし、見過ごしてた気もする。彼女がそうしてくれたように、思いがけない形で居場所を作ってくれる人もいる。たとえ絶望しても、全てを終わらせなくたっていい。終わらせるのは、嫌なことだけでいいんじゃないかな。


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