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孤独ってなんだろうか

孤独を好む人は年々増えているように思える。
それと同時に孤独を感じる人も増えている。
これはどういう意味なのだろうか。

孤独を好む人が増えた理由としては自己投資への時間を欲している場合や、人間関係の疲れを癒すためとしている人が多い気がする。
内省と自己理解の機会が孤独を求める大きな動機なのではないのだろうか。
では孤独を感じる人が増えているとはどのようなことなのだろうか?
これは孤独がどのように生まれるかを考えると整理しやすい。

孤独には社会的孤独と実存的孤独という二つの別々の動機に生まれる孤独の種類がある。

社会的孤独とはなんなのだろうか。
これは一言で言うと人とのつながりが希薄な状態。
職場で疎外感を感じている状況やコロナ禍でのソーシャルディスタンスによる孤立などが挙げられる。

実存的孤独とは人間存在の根本的な条件としての孤独感で、より深い哲学的な概念として考えるこができる。
人生に意味が見出せない、自己の内面を完全に他者と共有できないということによる生まれる空虚感がこれにあたる。
さらに実在的孤独は社会的孤独と違い人間関係の改善などで解決することは簡単にできないことは感覚的にも納得できるのではないのだろうか。
つまり孤独を感じる状況とは主に、人との繋がりが少ない状態、そして人生に意味を見出せいない状況である。

そう考えると孤独こそが人類の原動力であるかのようにも見えてくる。
つまりなぜかわからないが今の状態では何かが満たされない。
その何かを満たすために、理由を付けて何かに必死に取り組む。
人間の人生そのものでもあるような気がするのだ。
さらに人はその孤独を解消できない場合死にやすくなる。

しかし孤独には良い点もある。
脳の活動パターンの変化(デフォルトモードネットワークの活性化)である。
仕事や勉強に集中しているときよりも、実は人間の脳というのは「ボーっとしているときや何も考えていないとき」のほうがエネルギーを多く使っています。
この「ボーっとしてるときや何も考えてないとき」に活性化する脳のネットワークのことをデフォルトモードネットワーク(DMN) である。
デフォルトモードネットワーク(DMN)が活性化することで、情報を整理したり、ストレスや疲労に強くなるといわれています。
デフォルトモードネットワーク(DMN)でとくに重要となる脳の部位は「内側前頭前野」と「後部帯状回」であるがこの脳の部位は例えば人と会話している時などには活性化されないのである。

こう考えてみると結論はやはり、健康的に孤独と付き合いましょうとなるのだろうか
私はそう思わない。

そもそも人の言葉はとても美しく繊細で正確なものありながらもかなり大雑把なものである。
孤独である状況とは様々な状況を含む。
孤独という言葉を使い自身の状況を説明することはできても、孤独の解消を目的として孤独という言葉を主語に用いることは孤独の解消には訳に立たないのではと私は思うのだ。
それは人生を人生という言葉をもって切り開いていこうとするようなものだ。

さらに私達の行動へ大きな影響を与えるものとして社会がある。
私たちの社会において一番意味を持っていることは合理的であることだ。
私たちは自身の存在が合理的であるということを高らかに発言することができても、自身を合理性を持って説明できない場合存在意義を社会から与えられることはないのである。
現代の社会においては、合理的であることは生きることそのものである。

別に表立って強制されているわけではない、言ってしまえば国家も金も人間関係も一個人の視点から見ればどう生きていくかについて考えた時行き当たる一つの道でしかないのだ。
しかし国を持たず生きることは難しく、人権を自ら確保することは自身のみで確立できることでない。
お金があっては初めてスマホという魔法がすべての人の手に低価格で行き渡ることができるのでり、お金なしでスマホと吊り合う価値を自身で作り出すことはとても難しい。
幅のある人生を生きたい、移動範囲を広くしたい、美味しいものを食べたいという要求、さらに生き続けたいという思いがある状況においての合理的判断、最適に見える生き方が私達の社会を作り上げているともみることができる。
私達の人生において選択肢は実はとても限られたものとしてあるのではないかと思うのだ。
和達は自身の価値を合理性の中において証明しなければいけない。
もちろん世の中の人は合理的な思考だけで生きているわけではない、実際に人と喋るとどのような人も自分と変わらない人間だと分かる。
しかし長期的に見て、人は合理的であると思われる考えを理想として自身の生き方を決めるように思える。
合理的だるとは筋が通っていると捉えることもできる。
どう生きるか考える上で筋が遠ている、納得ことができるはとても重要なことである。

筋の通らない、ただ個人の妄想を喋っていると社会から見られるとどうだろうか?
きっと人々は、そんな生き方もいいねと言いながら合理性の中において貴方との積極的な関わりへのコミットを避けるだろう。
しかし、だからと言ってこれを合理性だけで判断することは荒すぎる気がする。

ではどのような場面において合理性が最も重要視されるのだろか?
それは明確な目的がある状況であり、その目的にコミットしなければいけないインセインティブがあるときである。
詰まるところ、余裕がない状態である。
さらに私達はどのような状況でも完璧な余裕を享受することはない。
数字に終わりがないように、求める限り求めていては終わりに辿り着くことはできない。
では余裕とは何を指すのだろうか?

私が思うに余裕とは未来の可能性Aに対してどれほどの影響力を持っているかである。
可能性Aの考え方は人それぞれである、ある人は100年を当てはめある人は数秒後の世界を当てはめている。
現代社会においての可能性Aは主に、自分の行動により結果が変わる可能性があるものとそうでないものに分けられる。
自分の行動により結果がかわるものは、お金であり、人間関係であり、住む場所でありだ。
逆に自分の行動により結果が変わらないものは、言うなれば人生そのものである。
例えば車に撥ねられたとしよう。
この時、撥ねられた理由は貴方の意思による影響も受けている。数十秒家を出るのを遅らせれば貴方は車に撥ねられなかったからだ。
しかし数十秒家を遅れて出た貴方はスナイパーに撃ち殺される。
では逆に30分早く家を出たらどうだろう、、、貴方はきっとバナナの皮を踏みこけ病院へと搬送されるのだ。
このようにある選択をしたから望む結果や、ある特定の結果に確実に行き着くということは言えないのである。
しかし、私達はどのような世界においても未来に可能性を持っている。
その可能性の中において望む結果へと行き着きたいという動機が、お金であり、人間関係であり、住む場所を変えることの希望を生み出すのだ。
未来に対し絶対に言えることはない、だけど強いて言えばお金は役に立つんじゃないかな,,とみんなが考えることができる土台が現代社会にはある。
免罪符は死後の世界にたいての補償でり心に安心感を生み出すものであったが、お金は人生への補償であり、安心感なのだ。
では安心感を求めることはいけないのだろうか?
安心感を得られるのであればお金を第一の目的として追い求めることはとても理にかなっているように思える。
少なくとも最も効果的な道である,,
このような思考回路が私達がお金に重きを置く一つの構造なのではないのだるか

人生において価値や意味とはどのようなものなのだろうか
そしてそのようなものが実際に存在するのかを考えたい。
まず押さえておきたいのは、人にとって価値とは相対的にしか見出すことができないものであるということである。
ある対象がある目的を基準としたとき、どれほど役に立つのかが価値であり、どれほどであるかは同じ目的、軸を持って相対的にあるものとあるものを比べたときに現れる要素だ。
そのような状況である場合、人にとって未来とは限りなく価値を持つ。
なぜなら未来とは可能性そのものであり、現在の価値以上の価値を常に持っている可能性があるのである。
しかしときに人は残り50年の時間より残り1週間の時間により価値を見出している。

これは可能性において人生への価値を見出していると捉えるより、可能性以外の軸によって人生の評価軸の変化が起こっているように思える。
つまり一見すると人生ベストな瞬間とは相対的な価値できまるように見えるものの、突き詰めると価値は存在として現れてくる。
では新たに起こった評価軸の変化とはなんなのだろうか。
まず大きいな違いは残り1週間という時間のみしか人生にないとわかっている状況において人生の未来には大きな可能性が残されていないということである。
つまり条件を達成していない場合ある条件、例えばエレベストに登ったり、大金持ちになったりすることが現実となる可能性が限りなく少ない状況であり、無視されていると捉えることもできる状態である。
そもそもお金とは未来があることにより価値が生まれるもので、残り1週間の人生の中でお金を追い求めたいと思ったありはしないはずなのである。
限りなく義務がなく、やらなければいけないことが無い状態であると言える。
何か特定の味方により世界を見る必要がない状況である。
貴方は目の前の木を自由にみることができる。

さらに残り一週間の命においてどのように木を見るかは重要ではない。
全ての見方は現実として存在したものであり、それ以上でもそれ以外でも無いからである。
未来に想いを馳せる必要もない。
期待は消え、それなのに全てが意思をこえ知覚に飛び込んでくる、驚きと感動に満ちたそんな新鮮な世界であると思うのだ。
無論貴方の思考も実際には貴方が動かしているものではない、、
それは今見ている鳥が貴方の意思とは関係なく視界の中で動いているのと同じように、近くの中で自動的に自分の意思とは関係なく、まるで風が吹いているように現れるものなのである。
そのような状況において不安はない。
そもそも、予想という概念がない。
個人的にはこれは安心感と言っていいのではないかと思うのだ。
人生の価値は、人生が長ければ可能性を広げることに置かれる
なぜなら未来は相対的にとてつもない可能性を秘めているからだ。
しかし人生が短くなると価値という概念それ自体が消えるということが起こる。
さらに価値が相対的に測れるという考えも、価値が何かを考える成り立たなくなる。

しかし私達は価値がない世界を生きることを望まない。
僕は人から尊敬されたいし、人が集まっているところへいき、そこで自分の価値を証明し評価を上げたい。

では現代社会において問題となっているの、自分の価値を証明し評価を上げることが難しいことによるものなのだろうか?
私はこれは半分正解だと思う。
まず評価のされ方はとても多様なものになっている。
特にインターネットの広がりにより、人と違ったことができるとそれが人からの評価のみでなく実際に職業として成り立つようになった。
しかし、人との違いを明確に作り出すことは意外と難しいのでないのだろうか
きっと多くの人は人との違いを聞かれると口ごもってしまう。
では多数の一人として人生を歩んでいくのはどうだろうか?
私が思うに多数の一人として生きていくことをかっこいいと思う人は少なくなってきている。
好きなことで生きていくことが憧れの対象になっているのではないのだろうか
しかし問われてみると他人との違いなどないように思える。
そもそも他人というものを詳細にイメージすることができるだろうか?
私達が思う他人とは大雑把な社会という概念である気がする。
私達が評価を求めている先は社会であるのだが、私達は好きなことをしたいという考えが一つのギャップを生み出している気がする。
好きなことで生きていくとは合理化の結論であると捉えことができる。
まず好きなことでお金を稼げるのはなぜなのだろうか?
一番大きいのはインターネットの普及だ。
例えば人類は毎日4時間自由な時間があるとしょう。
この4時間をどのように使いたいか,,そう考えた時に行き当たるのがゲームであったり、SNSであったりすると思うのだ。
現代の無料のコンテンツはこの4時間により回っていると言えるような気がする。
私達はその4時間を支払う代わりにゲームをしながらネットフリックスを見て娯楽を得ているわけだ。
人々は各々が興味を持つことにその時間を充てる。
例えば、音楽であったり、ゲームであったり映画であったりだ。
もしくはどう人生を生きるかとうい話でもあったりする。
その興味の対象となり得ること、話の輪が存在している、存在できることにより成り立っているのが好きなことで生きていくことなのだと思う。

ではこのようなことがなぜ可能なのだろうか。
その一つの理由として私達は自身の行動に理由を求めるようになったことがあげられる。
一番わかりやす変化が現れるのは人間関係なのでは何のだろうか
私たちは人と密接な関係性を持つ理由を持っていない。
厳密には多くの選択肢がある中で他人と関係を持つときに必要となるのはコミットする関係性を選択することであり、合理的な判断なのである。
そのため私達は浅いく広い関係を発展させる。
関係性を保つことは将来訳に立つかもしれないが、関係性にコミットすることはそこまで重要なのではないのだ。
私達は間関係への強力なコミットなしに生きることができる。
そして人間関係へコミットする理由を失ったこの現状が行動を起こすことに意思が要求され、行動の絶対性を肯定できない私達は行動を起こすこともできず、それゆえに孤独をより感じるようになっている気がするのだ。
理由を求めながらも確固たる理由がない状況において人は選択しない状況を望む。
確実な理由なしに選択をするということは確固たる理由なしに人生の選択をすることになるからである。
確固たる理由なしで選択をするのであれば、選択を先延ばしにする方が頭がいいように思える。
可能性の最大化である。
これはお金を貯めることや、貯金することと似ている。

ちなみに私は大学に行っていない。
大学に行かずに人生を切り開けるのかと聞かれると、全く自信はない。
しかし大学に行ったからと行って何かできる自信も全くないのである。
可能性の最大化のために大学にすら行かないそんな優柔不断な人間が私なのである。

話を戻そう。
こう考えると私達が理由を求めるのは可能性の最大化を壊す確固たる理由が欲しいからなのではということが見えてくる。
理由なくして選択をしても、それに意味は見出されない。
では意味となんなのだろうか?
私が思うに意味とは人生において価値がある瞬間と同じことを主語としている気がする。
つまり、一見すると相対的な価値であるように思えるが、突き詰めると意味は存在として現れてくる。
では意味が存在である状況において相対的に導き出される、選択肢やその可能性の最大化にはどのような意味があるのだろうか。
これはとても重要な問題だ
なぜならお金を稼ぐのは可能性の最大化が目的だからだ。
私達が理由を求めるのは可能性の最大化を壊す確固たる理由が欲しいからだ。
そしてベストな選択を取るために、選択肢の価値を相対的に測るのだ。
選択肢の相対的な価値はさまざまだが、平たくいうと人生により意味を与えてくれるものである。

しかし実は意味をもたらすものが何であるかを考えると意味が相対的な評価基準として現れてこないこに直面する。
意味とは相対的に生まれるものではないからだ。
つまり相対的に推し量る基準がない状況において個々のものはそれそのものとして価値を持ち、なんなら価値や意味という概念を飛び越えそれ自体であるのだ。これはいわゆる意味という言葉について思考した時に生まれる変な概念だ。
これでは「意味」という言葉について語ることがどのような意味を持っているかについて考えないといけない気もする。
「意味」について考えるのは「意味」の指している意味を見つけたいからなのだが、その「意味」それ自体が意味それ自体を指しているわけではないのかも知れず、そもそも意味とういものがどれほど重要なことを「意味」なしで語ることはできない,,,
例えば「りんご」はりんごであるが説明されたりんごはりんごではない。
例えば赤く丸いものであるというりんごについての説明はりんごそのものを語っていたとしてもそこから汲み取られる意味はりんごそのものではないからだ。
意味について考えても、そこで行われる説明が意味そのものであると言えるだろうか?
ただ、今回はこれ以上踏み込まずに行きたい。

言いたいことは意味について考えるとそのような状況では相対性を見つけ価値を推し量るどころか、何を違いと呼ぶかも怪しくなるということだ。
というか違いはあるのか?

少なくともどのような選択を取るかなどは大きな問題ではなくなるのだ。
しかし、、、それでも私達は相対化して意味を推しはかり、人生に意味を見つけ、好きなことをしたい。
まず整理したいことは、何が意味があるのかという議論においては何をしても意味があり,,意味がなく?何をするかはあまり重要でないということだ。
私達は何をすることも自由であり、意味がる大海原を目の前にしているわけである。
重要なのはこの時点では安心感満載であり、安心感を求める必要はないことだ。
選択に対しての結果に意味の相対性がない状況においてそのような感情は生まれない。
さらに選択もあまり重要ではない。
このような意味に重きを置いた思考を持っている人の思考は、現実世界に投影されることはない。
私の予想であるがそう思うのだ。
では私達はむしろ意味を無視して人生を切り開くべきなのだろうか?
意味以外に重要なこととはなんだろうか?
しかしそのような企みはうまく行かない、、意味がない状況とは意味に重きを置いた生き方と同じなのだ。
しかし少し視点を大きくして意味がない状況について考えるとどうだろう。
そもそも私達が意味によって行動することなどあり得るのだろうか?
何かしらのゴールがあり、そのゴール達成のために行動を起こしている人は多い気がする。

しかしそのゴールの意味を問われた時、そこに確固たる意味があるのだろうか?
ないの気がするのだ。
意味が問われるということは実はとてもおかしいことなのではないのだろうか
意味が問われる時、問われていることはそもそもその行動や実体それ自体ではない。
私達は何かしらの意図を持って意味を問うわけで、質問を作るわけだ。
先ほど少し書いたように、意味は意味が指しているものを完璧に説明しているわけではない。
その時問われているのは行為や実体そのものではない。
そう考えると意味とは問いをこえるもにはなり得ないわけである。

では割り切って、私が今やっていることには意味それ以上の意味があるのだと考えてみるのはどうだろう,,
同じようの選択には選択した意味それ以上の意味があるわけである。
私達は物事を意味それ自体であると考えているところがある気がする。
特に論理的であることが求められている中で、私達の生活は説明し得る以上のものとして社会から認められることはないのだ。

では孤独とはどのようなことをこの文面で指すのだろうか?
冒頭で私達には余裕がないのではないかという話をした。
ここでいう余裕がない状態とは世界を論理的に説明した場合、論理で説明でき得ないものがない状態なきがする。
私達は説明しえる関係性を求めるために可能性の最大化を目的とした意味を狭めた意味を説明しよとし、意味をとらえたものの現実を説明できず立ち往生しているのかも知れない。
そしてその立ち往生が孤独として現れるのではないのだろうか、、
では孤独であることが嫌な時はこの世の中は説明しうる以上のものであるということを知ることがいいのだろうか、、、
うーん、、、今まで書いてきたことが全て出鱈目なものである気がする,,,
どうしたものか。
だけど一つの解決策としてはあり得る気もしないこともない
そう思う。


後半はかなりメチャクチャなことを書いているなと自分ながら思う,,
その中でも皆さんが何か面白みを見出してくださったのであれば本望です。
サルトルの書籍を読んだことがなかったのですが読まないといけないと、この記事を書きながら思ったしだいです。
ここまでお読みいただきありがとうございます、
では!

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