【小説】恵み
勇介の兄貴。中学一年生の弟が初めて出場した県大会で新記録を出した時から、僕はずっとそう呼ばれてきた。勇介の兄貴、勇介の兄ちゃん、あるいは、天才の兄。
身内の僕から見ても、勇介はたしかに天才だった。陸上の申し子と言っても過言ではない。中学の陸上部に入ってからというもの、県で、いや、全国で名前を馳せるようになるまでそう時間はかからなかった。
一年生にして駅伝のトップを任され、二位に一分三十秒以上の差をつけて、区間トップでタスキを渡した。チームとしては三位に落ち着いたけれど、その頃から弟の名前は瞬く間に陸上界に轟くようになった。
「葉山北中にすごい奴が入ったらしいで」
「一年で区間新のタイム出したんやて」
「葉山北中が三位入ったんなんかめっちゃ久しぶりちゃうん?」
「その子のおかげやろうな」
「天才やなあ」
つくづく年齢が三歳離れていて良かった、と思った。僕はこの頃、高校一年生で、駅伝メンバーの補欠だったからだ。
思えば、自分が思い描くように走れなくなったのは、この頃からかもしれない。いや、元々速い選手ではないのだけれど。それでも中学生の頃は、自分の記録は年を追うごとに上げることが出来ていた。
家から近い文武両道で有名な高校に入って、文武両道のレベルの差を痛感して、おまけに弟は陸上の天才で、最初から僕は陸上の世界になんていなかったような気持ちになった。
僕が速く走れたところで、どうせ勇介には敵わないし、僕のタイムが縮んだところで、別に喜んでくれる人もいない。
-
「葉山北中の笹本のお兄ちゃんですよね?」
「勇介くんって家ではどんな感じなんですか?」
「やっぱ特別なメニューこなしてるんですかね?」
「食事はどんなものを?」
「弟さんは昔から走るの早かったんですか?」
そういうことを大会で初めて会う人たちに聞かれるようになったのは、勇介が県別で選抜される駅伝のメンバーに選ばれた頃くらいからだった。
各年代ごとの選抜メンバーにお声がかかる駅伝で、中学生、高校生から社会人までが県ごとにチームになって競い合う。勇介は中学三年生で、大阪の代表選手になった。
言うまでもなく、僕は候補にすら上がっていない。
勇介に関する情報をひとつでも聞き出したい人の中には、他校の生徒や地域の新聞記者らしき人、あとは単なる野次馬もいた。
人見知りであまり自分の感情を表に出さない勇介に比べて、どこででもへらへらと笑っている天才の兄は、かっこうの餌食だったに違いない。
ああ、もうやめてしまおうかな。とはじめて思ったのは、そのときだった。
-
勇介が選抜メンバーの練習合宿から帰ってきた日、久しぶりにソファで並んでお笑いの特番を見た。ぎこちなく隣に座る弟が可愛らしくも思える。
「合宿どやった?」
「うん、みんな年上やし、やっぱりレベル高いわ」
「そっか。まあ、身体壊さん程度に頑張りや、、、って僕が言うことでもないけど」
「うん、ありがとう」
「あ、あとさ、兄ちゃん、もう陸上やめよう思てて」
「え?」
そのときの勇介の絵に描いたようなきょとんとした顔が、一瞬小さい頃の勇介に重なって見えて笑える。
「お前みたいな優秀な弟がおったらなあ、兄ちゃんは大変なんやぞ。ほんまに。タイムとかなんでもお前と比べられて、ほんでまあ大概全部負けてるしな」と笑って続ける。
本当は比べられてなんていない。勇介に比べられるまでの実力が僕にはない。
出来るだけ冗談っぽく聞こえるように、自分が悪者にならないように、少しだけ皮肉を織り交ぜる。
「まあ、やから、もう陸上は」
「・・・やめんといてや」
兄の気も知らないで、天才が言った。
お笑い特番の客席の笑い声が漏れている。やめんといてや、って言われてもなあ。と、困る兄を見てか、勇介がぼそぼそと続けた。
「兄ちゃん、俺が陸上始めた理由知ってる?」
「なんやねん、いきなり」
「言ったことあったっけ?」
「いや、聞いたことないなあ」
「俺さ、兄ちゃんが朝早起きして走ってんの、知ってたで」
「え?」
「中学んとき、毎朝学校行く前に走ってたやろ?」
「ああ、うん、まあ」
「あのときの兄ちゃんさ、俺これ初めて言うけどさ、ほんまに、めっちゃかっこよかった」
え?と高い声が出た。それは、反応に困る。
天才が続けた。
「俺な、小学校んとき走るの嫌いやってん。なんでみんなこんな苦しい思いして走るんやろって思ってた。だから手抜いてたし、本気で走ったことなんてなかった。でもな、兄ちゃんが毎朝走ってんの見てめちゃくちゃ楽しそうやなって思ってん。兄ちゃん走ってて気持ちいいとき笑ってんねんで、知らんかったやろ?」
「え?ああ、うん。え?俺、走りながら笑ってたん?」
うん、と勇介が笑った。
それはかなり不審な気もするけど。
「俺も兄ちゃんみたいに笑いながら走ってみたいって思った。やから、陸上始めてん」
こんなに流暢に話す弟を知るのは、たぶん家族だけ、つまり僕と両親だけだろうなと、ふとあの野次馬たちや新聞記者を思い出した。
「一回でいいから兄ちゃんと一緒に走りたかった。やから、選抜メンバーも引き受けたし、いつでも手抜かんと、一生懸命走った。兄ちゃんと並んで走るとき、ああ、あれが笹本の弟か、通りで楽しそうやなって言われたくて」
「なんやねん、それ」
そこまで話して、勇介がふうっと小さく息を吐いた。
「兄ちゃん、陸上やめんといてや」
見劣りしていた方の自分が、手を、抜いていた方の自分が今さらになって恥ずかしくなってくる。勇介の速さが天性のものではなく、勇介自身の努力の賜物であることを一番知っているはずの自分が、途端に情けなくなって、胸が痛い。不甲斐なくて息が詰まる。
「俺、ずっと兄ちゃんみたいになりたかった」
天才が言う。怠惰な兄に向けて。果たして今、僕はその真っ直ぐな思いに答えられる人間だろうか。どうせ勇介は天才だから、とたかを括っていたのは僕の方ではないだろうか。僕自身が本気で走ったのは、随分と前のことのような気がして気休めでも口角を上げることが出来なかった。
「やめんといてや」
「分かった、まあ、もうちょっと考えるわ」
そう答えるのが精一杯で、僕はそのまま吹き出しそうなものを全部堪えて自分の部屋に戻った。勇介の顔を見る余裕もない。
-
天才の兄。その称号にあぐらをかいていたのは自分だ。天才の兄であることを暗に認めていたのも自分だ。
勇介には勇介なりの苦労や悩みがあったはずなのに、そんなことには目もくれず、弟に寄り添う余裕もなく、自分の惰性を認めていたのは、他の誰でもない自分自身だった。
大学に入ってからの陸上は、今よりもっとレベルが高いだろう。今の僕では到底ついていける気はしないけど、ただ走っているだけで気分が晴れたあの頃の僕はたしかに勇介の言う通り、いつも笑っていたかもしれない。
そうだ。あの頃の僕はタイムや順位に縛られないで、ただ気持ちよく走っていたいだけだった。
ただ、思うままに、走りたいだけだった。
もしかしたら勇介もそうだったのかもしれない。と、今さらになって気付く。
目をつぶって、勇介からタスキを受け取る姿を想像した。久しぶりに胸がどくどくと音を立てる。
それはかなり、今まで感じたことないくらい楽しそうな気がしたからだった。
(fin)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?