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自分大好き人間の育て方。

33歳になった今もよくわかってないんだけど、大学には「ゼミ」という場所がある。みんな集まる教室というか研究室というか。

私がかよった大学の場合、2年生だったか3年生になったら入りたいゼミを決め、よくわからん試験みたいなのを受けてみんなゼミに入ってた。

もちろん私は(くどいようだが)大学は7年通って除籍になった人間だからゼミもクソも入ってない。なんだゼミって。ふざけやがって。うらやましいぞ。

キャンパスに1人でいると聴こえてくるんだ。

「このあとゼミ室でスマブラやろうぜ」

なんだよゼミ室って。部室みたいな感じなのか? いいなぁスマブラ。いいなぁ友だち。

「この春はゼミ旅行があるんです」

なんだそれ。楽しそうだなぁ。
こっちはバイトだよ。


そんなわけだから卒論も書いてない。卒業してないんだから。卒論ってなんなんだろう。よくわかんないけどnoteに10万字くらいのよく見るタイプの調査レポート系記事でも書いて、それを音声配信で発表すれば同じことなのではないか。ちがうか。

大学を卒業した人たち同士は社会に出て「卒論なに書いたの?」ってもっと質問しあうもんだと思ってた。

「鮭が川を泳ぐ際の水面の電磁パルスについての研究です」とか意味わかんない感じで言って、「へぇ〜けっこうなお手前で」とか言いあうもんだと思ってた。だれもそんな会話しない。noteでも見たことない。ゼミの思い出とか卒論の思い出とか。なにか書けない理由でもあるんだろうか。

もっとも、素晴らしい研究室もきっとあるわけだから、ゼミおよび論文ってきっと必要なんだろうなぁ(思ってない)。


2013年、友だちと4人でバルセロナ、シンガポールに旅行に行った。私以外の友人3人は大学4年生でまもなく卒業だった。彼らにとってあの旅行は卒業旅行。私にとっては単なるプー太郎海外行脚。

シンガポールの海に打ち上がる花火をみた友人が「俺たち、大学生活がんばったなぁ」と感慨深げに言っている。私が「いや、たかが知れてる」とニヤつきながら言うと「お前は気ままでいいよな」と友人が笑う。


大学生の私は意思薄弱の弱虫のクズだったわけだが、根拠のない自信があり妙に自己肯定感が高いタイプのクズだった。私は4人兄妹だが4人のうち私だけがこんな性格。はて、なぜだろう。

親に褒められ、否定されず、むしろ全てを肯定されて育ったからだろうか。親せき誰もが私のことを肯定してくれたし、関わる友だちもみんな私を肯定している「ように」感じていた。

「全てを肯定された」と書いたが、ここには記憶の改ざんがあるような気がする。絶対に否定されたこともあるはずなのだが、意図してかせずか、私は否定の記憶を抹消している。気楽な遺伝子でうれしい。

両親が唯一私を否定したのは記憶の限りでは1度だけ。大学を除籍になるとき。

それまで味方だと思っていた母さんまで「ダーキ、お母さんは許さないからね」と言っていて、これは相当にまずいことだと思った。しかしその後の仕事探し、社会人生活の踏ん張りをみて父も母もニコニコしていた。



このように書くと「あなたはさぞかし自分のことが好きなんですね、サブいので死んでください」とお思いになるかもしれない。

自分のことは宇宙で1番好きである。他人は関係ない。残念ながらそうはっきり言える。

自分を好きでいることは正しいことだと思っている。しかし一部それを正しいと思わない人が存在することも知っている。そういう意見もある。


私が自分を正しいと思っているからといって、他人が間違っているわけでもない。お互いの立ち位置から人生を見たことがないだけのこと。所変われば品変わるわけだ。

過程が違えば状態が変わる。そう考えると私は私のこれまでの人生や出会った人々、なにより親にもっと感謝をしなければいけない。


にしてもマジでゼミと卒論うらやましい。


〈あとがき〉
自己肯定感ブームみたいなものは最近聞かなくなりましたね。あれもちょっとイケてないなと思っていました。自己肯定感が高いということが至上の良いものとして世間に伝播していたからです。低くてもいいじゃん別に、という逆張りの主張をしたいわけです。今日も最後までありがとうございました。

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