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雨の日を嘘で切り取ってみよう。

雨の札幌は、街全体が一枚の静かな絵画のようになる。しとしとふり続ける雨がアスファルトをやさしく叩く。雨音は道行く人々の傘を濡らしていく。私はそんな雨の中を歩くのが好きだ。うそ。大っ嫌いだ。雨なんてふらないでほしい。神様。


傘をさし、ゆっくりと歩みを進める。通り沿いのカフェの窓からもれるオレンジの光や、濡れた路面に反射する信号機の赤や緑。雨がふるといつも以上に鮮やかに映る。歩くたびに水たまりがはね、私の靴のつま先が濡れる。外にいる時間があまりに長いと靴の中が冷たくなる。だが、その冷たさも悪くない。うそ。冷たいのはいやだ。靴が濡れるのはマジで避けたい。


雨はなにかしら内省的な気持ちを誘う。私は歩きながらこれまでの人生や今の自分について、自然と考えを巡らせる。かつての夢や失敗、喜びや悲しみ。雨がすべてを洗い流すように、心の中の雑音もいつしか静まり、澄み渡っていく。んなわけない。雨が洗い流すのは物質的な汚れのみ。私は雨だからってセンチになるようなカタツムリみたいな男ではない。


歩いていると、目に入る光景がある。円山公園近くにある古びた書店。その軒先に並ぶ、表紙が濡れた本。

道端に咲く小さな青い花が雨粒を纏って輝く姿。

黄色いカッパを着て歩く北九条小学校の子どもたち。

そんな何気ない瞬間が、雨の日ならではの美しさを引き立てる。人々は急ぎ足で通り過ぎるが、私はその一瞬を大切に胸に刻む。なんでやねん。刻むわけないやろ。雨やねんぞ、みんなと同じように急ぎ足で歩くわボケ。というか雨の日は外に出たないわぁ。そもそも傘をさして歩いてんねんから、周りの景色に目なんか向けるかぁ!


雨の日は人々の表情も少し違って見える。いつもは無表情で行き交う人たちも、どこか思慮深げな表情を浮かべることが多い。おそらく、私と同じように、雨の日には普段とは異なる感情や思考が引き出されるのだろう。

私の歩くこの道は、やがて大通公園へと続く。公園内の木々は雨に濡れて一層深い緑に染まり、その中を通り抜けると、まるで別世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。公園に多数ある噴水のほとりでは無数の雨粒が輪を描き、その波紋が静かに広がっていく。

公園のベンチに腰かけ、しばし雨音に耳を傾ける。都会の喧騒が遠ざかり、ただ雨と自分だけの時間が流れる。この静寂が何よりも心地いい、わけない。そもそも雨なんだから公園のベンチに座らない。お尻が濡れる。雨音に耳を傾けて「あー日常とはちげぇなぁ」と思うような、そんなクリエイティブな人間ではない。



雨の日には、普段の忙しさから解放され、心が落ち着く瞬間が訪れる。日常の中で見過ごしてしまいがちな小さな美しさに気づき、また新たな一歩を踏み出す力を得る。雨の日の散歩は、私にとって何よりも大切なひととき。

であるはずがない。雨なんて大っ嫌い。

できるなら365日連続で快晴がいい。


〈あとがき〉
私が農家さんとかなら「雨は嫌い」とか言わないかもしれないんですけども、現実は農家ではないので雨は嫌いです。どうして雨が嫌いかというと濡れるからという理由を筆頭に、行動が制限されてしまう不自由さがイヤなのだと思います。今日も最後までありがとうございました。

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