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ガタンゴトン、ガタンゴトン、アフタートーク、こぼればなし-『総合-人間、学を問う』交流会


西田です。先日、MLA+研究所主催企画『総合ー人間、学を問う』の公開収録が、無事に終わりました。関係者の皆様、ご参加くださった皆様ありがとうございました。お疲れさまでした。
どんな企画だったのかは、下のリンクページを読んでもらえればと思います。私も参加いたしました、登壇者として。

この企画には、様々な専門分野の人が集まりました。
私も含めて登壇者には、事前に「人間って何?」って聞かれたら、「あなたはどんな連想をして、どう答えますか?」という感じのお題をもらっていました。そのお題について、自分なら専門分野を通じて、「こういうことを考えるよ」、というのを持ち寄ってお喋りするラヂオ風オンライン企画でした。
異なる専門分野の人が「人間」について考え、「総合」してみるというのは、なかなかチャレンジングだったなぁと思います。
聞き逃した、聞いてみたかった、という方がおられましたら、一応見逃し配信の予定がございます(新規申し込みの方は有償の予定です)↓↓↓

ふーーーっ、簡潔に宣伝終わりです!
さて当日のオンライン企画は、「公開収録」形式で行われたわけですが、収録後にアフタートークのオマケ企画がありました。登壇者に対して、参加者の方から直接質問があればお答えする、というコーナーです。
頭が疲れすぎていたのか、私は自分が何をしゃべったのか正直あまり覚えていない(←)というか、収録と収録後での話の内容の境目がはっきりしておらず、どっちの話だったかうろ覚え、という方が適切かもしれません。
今回は、ネタバレにならない程度に、アフタートークを経由して考えたことを述べながら、どんなお話があったのか思い出してみます。

色々な質問、やり取りがあったと思いますが、一番時間を割いたのは、「大学教員といった職業研究者ってどうあればいいんでしょう?」とか「大学の社会における立ち位置ってどう考えればいいのでしょう?」的な話題だった気がします。どれも興味深く拝聴し、私も喋った覚えがあります。
これは、登壇者ではなく、職業研究者でもなく、参加者の方から出たご質問に答える中で出てきた話題でした。一般(市井)の人々と大学人(職業研究者)、社会と学問などの関係性とでもいうのでしょうか。そうそう、ここでも書いてくださっていましたね。

「論文や本を読むだけの研究室という閉じられた世界にいたままで、「プラクティス(修練)」のない研究者ではマズいんじゃないか」とか、「大学というある種浮世離れした存在も大事なのでは」、などのご意見がありました。どれも大事なことで、どうこれらの話は整理できるんだろうか、と思います。

よく思うのですが、「研究者」ってどんなイメージをすぐに思い浮かべますか?
白衣を着て、試験管を持っている人、とかでしょうか?

いやいや、それはいくらなんでも偏りすぎたイメージなのでは?
そういうのは、化学とか医学とか、実験をするような分野の人たちのこと でしょう?

と言ってくださる方が、ほとんどだと信じます(笑)。
少なくとも私は研究で白衣を着ないですし、試験管も持ちません(いや、今後そういう姿になる可能性が、ゼロとは言えませんけれども)。
ただ、こういうイメージが、パッと出てくるのもわかる気はします。
もしよければ一度、「研究者 アイコン」とか「研究者 イラスト」で、ワード・画像検索をかけてみてください。きっと白衣を着て、試験管を持っているイラストで画面が占拠されます。
「研究者」と一目見てわかる「キャラクター」に仕上げるとなると、「白衣」や「試験管」といった、その活動と結びつけられるモノを用いるのが、わかりやすいという一つの表れなのだと思います。イメージの定着に一役買っているわけで、それはそれで、すごいことだと思います。その反面、定着するということは、固定観念にもなりやすい、ということでもあります(ステレオタイプというやつです)。例えば、いわゆる「理系」分野と「白衣」というのは、強いつながりを感じます。しかし「理系」分野の方達が、みんな白衣を着ている、というわけではありませんよね。
なので、「新しいイメージが出てもいいなぁ」と、個人的には思います。
かといって、「じゃあ、白衣とか試験管を用いず、別の分野の人のアイコンとかイラストって、どうやって描くの?」って言われると、それはそれで悩みます。私が知っている限りでは、本を積んで読んでいる、虫眼鏡を持っているなどの姿くらいでしょうか(後者は「名探偵」のイメージの方が強めかもしれないですけれど)。あらゆる研究分野のアイコン・イラストを描ける絵師さんがいたら、私はたぶん感動します。

話しが逸れたかもしれません。何が言いたかったかというと、その分野に少しでも触れたことがないと、その分野の人たちがどんなことを考え、活動しているのかって想像しにくいものだ、ということです。我々の経験や知識を用いて、その研究の意義を考えてみても、直感的にパッとイメージできない、理解が追いつかないといった類のテーマも多いでしょう。どんなに話を聞いても「異界の言語」にしか聞こえないということはあります(日本語なのに!)。ある意味で「研究者」や「大学人」は、「異界の住人」なのです。

今回のオンライン企画では、「総合」というワードが出てきました。「人間」について「総合」的に考えるために、各々の分野を探究する「異界の住人」たちが、一堂に会したわけですね(話しが噛み合うかどうかなど、未知数!一応何の準備もしていなかったわけではありません)。しかも、そのマッチング&通訳をしてくれたのは、人間界とは異なる世界に住むたぬきさんでした(隣接した世界には生きておられるかもしれませんが、タダ者ではありません)。
このたぬきさん、私は、『不思議の国のアリス』やそれをモチーフとした作品に出てくる、うさぎや猫といった存在みたいだなぁ、と思っています(もうずいぶん読んでいないので、ふと読んでみたくなりました。モチーフ作品はよく目にするのに)。最近だと、宮崎駿監督の長編アニメーション『君たちはどう生きるか』には、主人公を異界に連れ込もうとするアオサギが出てきます。ジブリ作品つながりなら、『耳をすませば』は、ファンタジーではないけれど、主人公が猫に導かれて「地球屋」にたどり着きます。そして、そこで出会った人々とのかかわりの中で、自分の中にくすぶっていた将来に対する漠然とした不安とか、そういう「何か」が揺さぶられて、できるかどうかわからない未知の挑戦をしていきました。
意図してか意図せずしてかにかかわらず、見ず知らずの世界に招き(導き)、その世界を知るヒントを示したり、かき乱したりする存在(仲介役、案内役)というのは、物語を揺さぶり動かします(意外とこういうところに、「総合」のヒントが隠れてるのかもしれません)。それは「良いこと」ばかりではないですし、「ハッピーエンド」に至るとは限りません。

それでも、「研究」や「学問」という世界の「物語」が、もし今までとは異なる姿に成っていくとしたら(今この時には、想像もできない結末にたどり着きたいとしたら)、何らかの刺激を受けて、「揺らぎ」(どんな「震度」かはわかりません)が生じる必要があるのでしょう。今回私たちは、たぬき様に手招きされ、一堂に会してお喋りすることで、どんな「揺らぎ」が生じたのでしょうか?
それは「まだはっきり言語化できないけれど、もう少し、お喋りを続ける中で見つけたい、聞いてみたいなぁ」と個人的に思います。アリスのお話に「お茶会」が登場しますが、「まぁ、お茶でも飲みながら話そうよ」と言うのは案外、大事なことだと思っているので(ただ、いつまでも終わらないお茶会というのも、それはそれで考えものですが。。。)。

ここでようやく、アフタートークの話題に戻ります。「研究者」とか「大学人」のイメージが、対話不能な「異界の住人」と思われるよりは、対話可能な「異界の住人」くらいではありたい(あってほしい)な、と私は思います。そのためには、「研究者」と市井の人々との間に、「一緒にお茶を飲みながら喋る」くらいの関係性や習慣みたいなものが、私たちの生活の中に溶け込んでいる方がいいでしょう(私たちの生活に「研究者」とか「大学(人)」が身近であるかどうか・・・)。
では、この「身近さ」は、お茶とお菓子を用意して、テーブルをセッティングすれば生じるんでしょうか?
少なくとも、たぬきさんたちのように、「異世界」やお茶会に導き(招待して)、「揺らぎ」を生じさせるような存在は必要でしょう。かといって、仲介役や案内役がいれば十分、というわけではないような気もします。
先ほどのアリスなどのお話を思い返すと、「異世界」に一歩踏み出すのって、大変なことです(否応なく、巻き込まれることもありますし)。「異世界」やお茶会に導かれた(招かれた)者が、「揺らぎ」の生ずる道を選択した場合、自分自身の価値観や考え方が揺さぶられ、変化する時というのが往々にして訪れます。それは、これまでの自分とは異なる自分へ変化する、新たなステージに向かう為に殻を破る(脱皮する)時です。そういう時って、心身共に不安定になりがちで、違和感が生じ、受け容れ難いこともあるはずです(知らない価値観に触れるとか、背が伸びるとか、嬉しいことも、しんどいこともあるでしょう)。新たなステージに立つにしても、不安定なままでは辛いので、安定化させるためには、自分を不安定にさせるものや、変わっていく自分自身を受容する(自身の「器」を大きくする)ことが、必要になってきます。
異分野の研究者が集って、「これまで見えなかった新たなステージを切り開けるかどうか」は、そういう「揺らぎ」を体験して、自分の価値観や考え方が変化していくことを受容できるかどうかが、分かれ目なのかもしれません。大げさに言えば、「勇気」や「覚悟」といった類のものが何らかの形で試されるのではないか、ということです(直近のアニメでいえば、今期放送中の『終末トレインどこへいく?』はおススメです。単純に水島努監督ファンだから観ている、という理由はありますが、そういうことも考えながら、毎週楽しみに観ています)。

今回お喋りした方々は、変わっていくことを「楽しいよね」と思っておられる人たちだったんだ、と思います(「譲れない一線」というのは、おそらくあるにしても)。たぬきさんありがとう。
登壇者のお一人も、(アフタートークも含む)お喋りの中で、ずっと仰っていましたが、人間の「成長」って、そういうデリケートなプロセスをジグザクに経るはずです。だから、乱暴に扱っていいものではなく、大切に、丁寧に、手間暇をかけていくものなんだろうと思います(どうしても焦っちゃいますがね。それもまた「人間」です)。

ここまで、今回の企画を通しての感想や考えたことを、とりとめなく綴ってきました。まだ書けることはあるでしょうけれど、最後は‟駆け足“で、締めくくります。エッセンスは、あちこちにちりばめられたと思います。
さてさて、他の登壇者の方々は、どんなことをお考えになったのでしょうか。それは、いずれどこかでお目にかかれるかもしれません。
その時をお楽しみに、それでは。

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