見出し画像

(ちょっと加筆)『総合ー人間、学を問う』座談会後日談



やあやあ、となりむらのたぬきさん。ニンゲンのあつまりに行ったんだって(ニンゲン嫌いなのに)。


やあやあ、となりむらのたぬきさん。もうしっぽが出ちゃって大変だったよ。カメラオフだったから、だれも知らないだろうけれど。


そりゃあ、大変だったね!!


どうなることかと思ったけれど、まあちゃんとオチがついてよかったよかった…。もう疲れちゃって、疲れちゃって、しばらく、あなぐらから出たくないよう~。zzz

どうもどうも、MLA+研究所の鬼頭です。
昨日オンライン座談会をそこそこ盛況のうちに終えまして、この連載も「最終回」です。

最後なので、今日はこの企画の裏話をして終わりにしたいと思います。
noteに不慣れでずんぐりむっくりしていましたが、なんとか最終回で、インタビュー形式のレイアウトと「目次」を覚えました…。



Q1:なんであんなに企画特設HPは見にくいの?申し込み手続き、なんであんなに「面倒」だったの?どっから申し込むも分かりにくかったし。申し込んだら申し込んだで、訳の分からない質問は並んでいるし。コピペ不可の意味の分からない暗号列をパスワードにするのもやめてよ…。

これ、何人かのわたしのお知り合いから、事後のアンケートをこちらからお送りする前に、ご指摘を受けました。
まず、大変お手間をお掛けしたことを、心よりお詫び致します。
直前まで表向きは、「パスワードは破られないために複雑にするものです」とか、「セキュリティ・著作権保護のためです」とか、あれこれ説明して、まあ、実際それもあったのですが、主な理由は別にありました。
簡単に言うと、この企画に関連して、
①オンライン企画って、なんかボタン1つで完結しないと「イライラ」するってことを再確認して頂きたかった
②(5月22日までのお申込みまで参加費無料だった分)、本当にこの企画に参加されたい人なら、きっと多少の手間暇は厭わないだろう
というような意図がありました。
この連載でも、上柿さんの「意のままになる生」というのを、最先端の人間学にかんする論考のひとつとして、紹介しました。
上柿さん自身は「有限の生」に生きる価値を十二分に認められながら、この「意のままになる生」の大きな流れは止められないだろう、と「思念体」の考察におもむかれました。

このとき、「有限の生」が大事って言いながら、「なんで「意のままになる生」の方向に議論を進めるのか?」とか、「「有限の生」を取り戻す方法ってないの?」とか、上柿さんのところにはそういう疑問がきっと、幾つか寄せられたんじゃないか、と思います。
ただ、「オンラインはボタン1つで、アクセスしやすくあるのが本来の姿」だという前提がないのなら、「面倒」なことが「不便」だなあ、とは思わないはずです。
そのように「実体験」をしてみてから、改めて上柿さんの「有限の生」から「思念体」への思索の歩みをたどると、、(好むと好まざるとにかかわらず)多忙を極める現代人が、そうやすやすと、そっちに行ける方向でもないなあ、ということが、実感として分かってくるのではないか、と思います(わたしはなお、それでも「有限な生」の方向でいきます(笑)が)。
もちろん、わたしはオンラインを頭ごなしにダメなものとも思いませんが、この連載でも少しふれたように、オンラインの「快適さ」にそのまま乗っかるのも、どうなんだろう・・・とは思っています。
そして(無料で、申し込みなく、アンケートもなく)ボタン1つでアクセスできていたとしたら、たぶんそれぞれのおはなしは、他の動画と取り替えっこ可能な「一消費物」で終わっていたんだろうなあ、とも考えます(もちろん、全員にとってそうではなかった、とも思いますが)。
ただ、たどり着くまでに苦労したものは、(手間暇が掛かった分)元を取ろう、ちゃんと見よう、という気になることが多いのではないかと思います。
HPも同様に、音声読み上げにもある程度は(完全ではない)対応できるよう、シンプルにはしていますが、非常に長く、どこから読んだら良いのか、レイアウトが読みにくかったのではないか、と想像します。
実際、「どこから申し込んだら良いのか?」というご質問も頂きましたが、探してでも観たいと思うかどうか、がきっと問われたのではないか、と思います。
実は当日まで、最初はZOOMリンクでもそのような方向を徹底しようと思っていたのですが、開催日が平日夜だったので、慌てて入られる方や機器に不慣れな方もいらっしゃるからなあと思い直して(ちょっとハードルが高すぎるなと…)、(それでも、事前に余裕を持って送るのではなく)開催直前にZOOMリンクそのものを、一斉メールで配信することにしました。


Q2:それでも「限度」はあるじゃないのさ!!。まあ、それはちょっと置いとくとして、それでも申し込みにあった質問は「唐突」に見えるよ。もっと説明してくれてもよかったのに…。

いわゆる、すきま時間にお申込みなさった方もきっとおられると思うんですよね…。本当に重ね重ね恐れ入ります。
peatixでもそうでしたが、お申し込み時に答えることが多いと、人が来ないよ、というナッジ(誘導)が、親切にもアドバイスされてました(苦笑)。
1つの次善策は、「お申し込み」と、「案内人・登壇者から参加者に聞いてみたいこと」で分けてしまうという方法です。
ただ、この方法は「諸刃の刃」なところもありまして、経験則では「案内人・登壇者から参加者に聞いてみたいこと」の回答率が下がってしまうんですよね…。
色々理由はあると思うのですが、答えようと思っているうちに忙しくて当日を迎えてしまうこともあれば、2回もアクセスするのが面倒に感じられる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。
一応、冒頭に「6以降のご回答は、匿名でご紹介させて頂く場合がございます。」とは書いたのですが、google formって作る側には便利なものの、デザイン・インターフェースが答える側にはあまりやさしくないので、読み飛ばすのも、無理のないことだな、と。
多忙な人や答えるのがしんどいなという人のことも考え、さすがにアンケートの類まで必須回答にはしませんでしたが、それでも丁寧に質問に答えてくださった方が多かったです。
加えて主催者の予想を超えて、リアルタイムのオンライン座談会参加者が多く、中抜けが少なかったことも、それだけ熱意のあるご参加者に恵まれたのだろうと想像し、この場を借りて、改めて深く感謝申し上げる次第です。

実は事前にアンケートでお聞きした、いくつかのある「質問」に関しては、意図が汲み取れないという回答も一部寄せられ、「そういうご意見も出るだろうなあ」とは、校閲していて感じました。
私の恩師の1人は「分かりにくいことは分かりやすく書き、分かりやすく、考えようとしないことは分かりにくく書け」という主義の人で、その意味では、質問を「分かりやすく」することも、ちょっと考えました。
ただ、たまにこの「分かりやすく」は、ほんとうに良いことなのかあ、と立ちどまります。
「意のままになる生」のはなしともつながるように思うのですが、これって突きつめると、「分かりにくいはなしは、理解しようとしなくてよい」というところまで行き着くんじゃないのかな、と。
分からないのは、「意のままにならない他者」のせい、というわけです(とは言え、まあ何の意図もなく、小難しく語るのがいいとも思いませんが)。
「十分に意味が取れない」、あるいは「前提には同意できない」はあると思うのですが、それでも受けとったかぎりのニュアンスにおいて、「答える」こともできますよね?、「だから、答えられない」と書いてしまうのではなく。
とてもへんなことを書くようですが、大学を含む学校の先生が、もし説明がとても下手で、どう考えても意味が取れなくても、学生/生徒って「答える」ように仕向けられることが多いですよね?(もしこれが「テスト」の問いなら、「成績」が下がってしまいますから)
そのように考えたとき、学際というのは、いわばある意味で、異星人同士の会話と言ってもいいわけで、文法とか概念の共有以前に、そもそもコミュニケーションにおけるコンタクト(接触)の意欲が成り立たないと、総合としての会話になりようがないわけです。
ここまでのはなしをしてきて、わたしにこのような意図があるとわかっていたら、もっと頑張れたのに…という人もきっといらっしゃったと思うのです。
しかし、あらかじめ意図が分かっていると、出来事としての「不条理さ」や「新鮮さ」が残念ながら、減ってしまうんですよね…。

つまり、お化け屋敷では人間が化けていると分かっていたら、あんまり怖くないとなってしまいます(そこに、人間に化けた狸が、さらにお化けになっていたら、ちょっと怖いわけです?)。
これだけだとなにが言いたいのか分からないと思いますが、要するに生きているなかで意図が明確に分かることのほうが少ないとわたしは思います。
だから、意図がわからないときにこそ、時間が無くて素通りしそうになるその瞬間にこそ、「有限の生」のいとなみが、実地で問われているのではないのかなあ、とわたしは思います(もっとも、わたしも含め、現代社会において、たいていはそういう場合、素通りしちゃいますけどね…)。
Q1のはなしともつながりますが、人とのコミュニケーションって、それだけ手間暇をかけないと、成り立たないんじゃないか、と。

でも、やっぱりあとから考えたときに、わたしが作った、学びの質問において、学び(ご研究・ご専門など)と書くのではなく、学び(遊び・趣味・お仕事・ご研究・ご専門などなど)と書くべきだったなあ、と思ったりもします。
だから、きっと質問の仕方も悪かったのですm(  . .  )m
まあ、狸が日本語をはなすというのは、喋っているだけでも大変なことなんですよ…(わたしの持病の症状にはブレインフォグもあり、お聞き苦しいご案内役だったと思いますが、わたしが好きだった亡き落語家を見習って、みっともなくても、敢えて舞台に立たせて頂きました)。

Q3:となりむらのたぬきさんって結構「いけず」なんですね…。「天邪鬼」というか…。


だから、自己紹介のところにも、「こんな調子の案内役なので、ときどき「ミスリード」もいたします」って、ちゃんと書いといたんだポン🐾
誰でも、いつでも、どこでもアクセスできると一見「見せかけておいて」、実際には、かなり「アクセス」をしにくくするって、人間を「化かす」醍醐味じゃないですか…。日本において、狸はみんなのトリックスターですからね★


Q4:・・・。まあ、ラジオってのは良かったかもしれないけど、ポスターに書いてあった、「総合」も「学(知)」のはなしもあんまりなくて…。どうしてポスターにはなかった、●●とは、××がオチだったの?あれって、事前公開されていた「おはなし」とどこが繋がるの?あんまり「専門的」なはなしには見えなかったんだけど…。


ありゃまあ、そういうところはよく見てますね…。看板に偽りありって?
でも、まずよく考えてみていただきたいのは、事前の「おはなし」がなかったら、あの場の「語り」って起こったんでしょうかね?
(取りあげきれなかったところもあるので、申し訳なくも思っておりますが)、皆さまから寄せられたアンケート・事前の質問・当日のチャットがなかったら、あの場の「語り」になっていたんでしょうか。
ちなみに、「専門的」には見えない語り口を一見、わたしもふくめてしましたが、よく聞いて頂くと、随所に実は「専門」性が活かされていることも分かります(その意味で、何の典拠もない話は、語られていません)。

ここはわたしの師の教えである、「分かりにくいことは分かりやすく」をなるべく心掛けたわけです。
この点で、語り口が軽妙なことと、レベルが低いことは、全く別の問題だと断言します(語り口が重々しくても、レベルが低いことは存在します)。
「総合」や「学(知)」を「言葉」では語りませんでしたが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にならえば、ある形を「示し」得たとは思っています。
単に企画趣旨と同様に、(申し込み時点からすでにこの企画が始まっていたように)、”直球”では応えていないだけです。
その代わり、ネタバレ的にわたしがこの連載をしていたり、加藤さんのはなしを組み込んで頂いたりしたわけです。
ちなみに、この企画において、加藤さんが「言語化」したことは、私も「私の形」として引き継いでいるわけです。
けれど、他の登壇者と加藤さんは、この企画で初めてお会いになり、私とは異なって、加藤さんの影響を長年、受けているわけではありません。
したがって、登壇者は2度打ち合わせをした以外(加えてその打ち合わせも動画の一部の内容が会話の中でたまに引用されるくらいで、全体のあらすじを説明することはありませんでした)、事前に加藤さんの「脚下照顧」の概念を、登壇者全員で、正確に「共有」してあの場が持たれたわけでは全くありませんし、このnoteの存在は登壇者にも事後的に知らせました。
登壇者の方には、動画や事前に寄せられたアンケート・質問を見て頂くようにご依頼しましたが、番組で「共有」された台本は以下だけで、後は発言したかったら「手を挙げる」、発言終わりには「以上です」などの、進行上のテクニカルな指示のみで、進行しました。

5分:鬼頭:開始の挨拶・進め方の確認

5分:鬼頭:オープニングトーク
:生まれ変わったら「人間」になりたいと答えた方から理由をチャットに投げてもらう

前半
最大40分:「たぬきさんの洞穴」のコーナー 
※余談ですが、本番で「たぬきさんの部屋」と言い間違えてしまいました…。
私が1分でおはなしを要約→2つぐらい質問
5~10分 鬼頭×大橋さん 大橋さんが参加者に寄せた質問の意図/好奇心って総合につながりましたか?
5~10分 鬼頭×加藤さん 事前に寄せられた普遍性に関する質問について/「人間である」とは?
5~10分 鬼頭×西田さん 集団行動の質問について/学びで一番大事だと思うことは?
5~10分 鬼頭×桃井さん 水族館の仕事のきっかけ/今回、学際してみてどうだった?

5分:休憩を兼ねたMLA+研究所からのCMタイム

後半60分~90分

・「たぬきさんからのお題」のコーナー:総合/人間/学に関わる質問をなんかします(明日のおたのしみ)
・ゲスト同士の質問コーナー(話を聞いてみて、質問してみたいことがあれば…)
・会場からの質問コーナー(チャットにコメントが来て、私が取り上げたいと思ったら、話題を振ります)

ね、簡素でしょ?
事細かに「共有」してやったという感じではないのです。
その意味で「脚下照顧」というのは、何かを深く掘り下げる経験をしたことがあるなら、仮に加藤さんのように宗教的な領域で無くても、深いところで、人と人とが、分野を超えて出会うことができるのではないか、という「足場」または「可能性」あるいは「触媒」を指し、それ以上の
ものではありません。
皆さんへのご案内文では、このことを以下のように記しました(ちょっと長いですが、抜粋しておきます)。

>(筆者注ーこの“閉じた生息圏”からしか、ものごとを知ることはできないという意味での)“閉ざされた”人間がもし、“全体”に開かれていくときがあるとするならば、まずは深く掘りさげるということ自体に“共鳴”が生じること。そしてそのような“共鳴”を導きの糸として、真摯に相手から「学」びながら“開かれた世界”へ「ともに」向かうという意味で、「学」が「楽」となる出来事の生じてくる“瞬間”において、ではないでしょうか。そのような出来事は、私が意図して「起こす」ものなどではなく、自ら「起こる」ものです。(中略)(この1匹以外は)ほぼ初対面の、彼らによるディアレクティケー(お喋り)という“出来事”を見守り、その流れに乗りながら、人間探究の“ありか”が次第に実線の「輪郭」を以て、融合していくであろう地平に立ち会いたいと、私は心から「願っております」。

「次第に実線の「輪郭」を以て、融合していくであろう地平」が現れるかはどれほど綿密に仕込みをしても最後は「賭け」でしかありません。
ただ一応、今回は幸運にも、登壇者・参加者の誰もが最初からは考えていなかったあろう、●●や××に「集団思考」で行きつく過程を、その場の全員で「目撃」することにより、人間に関する「総合智」の生成の一端をお示しできたのではないか、と思います。
詳しいことは、癖のある文章で恐縮ですが、『総合人間学』(オンラインジャーナル)に間もなく掲載予定の拙論をお読みください。


Q5:なるほど、「総合智」ね~。でもさ、でもさ、4~5月に開催予定は無かったんじゃない??


うむむ…。今回、皆さまに一番、ご迷惑お掛けしたことです。申し訳ありません…。
私の日程調整能力の問題が大きいと思いますが、ひとつだけ言い訳をさせて頂きます。
ざっくり言うと、アカデミック畑(研究者・学生)とそうでない方とを比べると、社会人の方のご予定を探るのは、本当に難しいことなのです。
大学教員も一時期に比べて多忙であるのは事実で、非常勤の方はなおさらですが、それでもアカデミック外の方とを比べると、まだ日程調整の余地が大きいなと感じます。
例えば、土日開催の方が良いのではないか、というご意見もあったのですが、そもそもアカデミック外の方が、土日休みとは限らないわけです。
加えて、大学では一応は、年間予定が出ますが、アカデミック外の方の場合、前月までに休みが確定するとは限りません。
参加者の方にはご迷惑をお掛けして心苦しく思っておりますが、アカデミック外の方が、こうした企画に登壇したり、参加したりする難しさを、間接的にはお伝えできたのではないか、と思います。



(加筆)Q6:やっと謝ってくれたよ、このたぬきは・・・。途中までしか聞けなかったんだけど、最後に、録画配信されない「公開収録」後の様子を教えてください!!



最初から、謝りどおしなんですけどもね、おかしいなあ…。
ここは、たぬき寝入り・・・zzz。
ああ、えっと、交流会の様子でしたっけ。
まあ、参加できなかったのも「出来事」なんで、それでいいんじゃないですかね。
主催者としても、録音をしているわけではないので、事細かには覚えていないという意味で、アーカイブ的な再現はできませんしね。
ただ、収録の部分には無い、ある意味で「ラディカル(急進的で、かつ根本的)な」会話はありましたよ。
記憶の限りですが、参加者から「学」と「社会」にかかわるおはなしが出て、大学職員として思うこと、大学教員として思うこと、専門学校教員として思うこと、学校外から思うこと、みたいな感じのはなしは出ましたかね。
研究したいけど研究できないって人をよく見かけるとか、いやいやそもそも部屋に籠もって考えるだけで、そこに「行(ぎょう)」が伴わなくてもいいの?とか、それに対して、大学と専門学校の違いって何なんだろう、とか、学と社会が隔たっているのってどうなんだろうとか、MLA+研にはそのハブになって欲しいとか(余談ですが、共同研究にかかわった人からの私のあだ名の1つが「ハブ空港」でした…)、いやいややっぱり研究には社会から離れて、前衛(芸術)的にあって欲しい、とか。
とりとめのない会話ですが、たぶんおのおののはなしには、それぞれ深める余地があると思います。
ただ、「公開収録」部分とは違って、浮かんでは消え、という世界であり、世界はもともとそのように出来ているので、強いて記憶をたどれば、私がキャッチしたかぎり、そんなはなしもあったよね♪、の類です。
だから、別な聴き手には、緩やかな重なりがありつつも、厳密には別な「記憶」が残っているんでしょうね…。
ほんとうはそこまで書ければ良いのですが、そこからは私ではなく、別なかたにバトンタッチしなくてはなりません。

というわけで、お名残惜しいところではありますが、さすがにそろそろ8000字になりますのでお暇申し上げます。ではでは。また別な連載でお会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?