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Adoの「うっせぇわ」に見る日本の若者の精神的変遷とロックへの期待

2月12日、3連休2日目。
折り返し地点を迎えたこの連休も、コロナ禍情勢ゆえに外出はできず、ただただ家に引きこもるだけの時間が続いている。
昔なら発狂ものだったこんな行為も、今やネットが現実世界を侵食する勢いでエンタメもろもろを引き連れ"楽しいデジタル世界”を拡張させており、交流手段もすべて携帯やパソコンを通じてできるとあらば、「引きこもり」という単語に10年前ほどの嫌悪感を抱くことも無くなった。

"ニューノーマル”な価値観

今や「引きこもり」が正義とされる時代。
新時代における"ニューノーマル”の創造を肌で感じれるという貴重体験ができるなんて、2年前の今日の自分では想像だにできなかったことだ。

まもなく迎える3月に際し、「新天地でも頑張ってください」と卒業時に後輩から渡されたコルクボードには携帯画面のスクショばかりが貼り付けられている、という冗談もいよいよ通じなくなってきそうだ。
過去の"皮肉”も、現在では"勲章”。
価値観の脆弱さをありありと感じる今日この頃。

「ひろゆき」や「岡田斗司夫」をはじめ、あらゆる事象や社会不安に対し、端的に答えを言語化してくれる"博識者”的ポジションの人たちのコンテンツが流行っているのはまさに、我々の価値観が揺らいでいるからに他ならない。
コロナ禍で崩れた旧来の価値観の代替を彼らの言葉の中から探ろうとしていると、そんな風に感じるのだ。

「ひろゆき」や「岡田斗司夫」らのコンテンツが、新たな価値観に対するある種の提示者側であるとするならば、精神的支柱の探求者側の視点は、「音楽」から見つけることが出来る。

音楽から見出す日本の精神性の変化

歌詞に重きが置かれる日本の「音楽」においては特に、歌詞で表現したアーティストの心情がいかに世間のそれとマッチするかで、いわゆる「売れる」か「売れない」かがジャッジされる。

80年代は、ティーンエイジャーの怒りとやりきれなさを歌にした尾崎豊、同じく80年代の若者に寄り添い熱い励ましを与えたブルーハーツを代表に、価値観の「破壊的」メッセージが受け入れられた時代。

バブルのはじけた90年代にはフォーク的情緒を醸し出す曲が受け入れられた。
虎舞竜の「ロード」、エレカシの「悲しみの果て」、スピッツの「ロビンソン」など、彼らが大きな脚光を浴びるきっかけとなった曲は哀愁をベースとした歌詞が特徴だ。

そして00年代。
青春時代を代表するアーティストと言えば、鬱屈とした心情を表現したBUMP、その系譜としてのRADWINPS、10年代のボカロブームからの米津玄師と続く。
いずれも少しひねくれた、ストレートなものの見方ではない斜めからの視点が特徴のアーティストだが、彼らの「哲学的」「宗教的」「文学的」ともとれる内向的な歌詞は2000年代を生きる若者の心の多様性にマッチ。
内向性への志向は、青春を謳歌できなかったもの、いわゆる「スクールカースト下位」を救った神聖かまってちゃんなどのアングラ系にもスポットを当てた。

80年代から現在に至るまでの青春を代表するアーティストの系譜からも分かる通り、その時代を生きる若者の精神性は「破壊(既存の価値観の否定)」→「哀愁」→「内向的(世間一般の価値観と自分の生きざまに対する自問自答)」へと変化していることがわかる。

「現代の子は昔に比べて大人しくなった」と言われて久しいが、この言葉の背景には、旧世代の若者がただただ自身の世代の活力を誇示したいが為のマウント発言と判断するには早計で、内側に向きすぎてストレスの発散手段が分からなくなっている今の世代の精神的危うさを危惧する言葉でもあるのだろう。

適度な「荒々しさ」は、世間=外側と自身の距離を測るのに必要な物差しだ。
校舎の窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したら警察に突き出されるように、世間の反応を行動から学ぶことが多かった旧世代の若者とは違い、教え込まれたルールのなかで、不正解を出さないように生きることを強いられているのが今の若者だ。

Adoの「うっせぇわ」がヒットした理由

そしてこのほどのコロナ禍で、肉体的にも内向的にならざるを得なくなった鬱憤とストレスがありとあらゆる悲惨なカウンターを生んでいる。
京王線や小田急線の乗客襲撃事件は記憶に新しく、日本全国に社会的衝撃を与えた犯人の心境を安易に想像することは出来ないが、「コロナ禍での環境変化」が少なからず鬱屈とした感情を増長させた一要因であることに間違いはないだろう。

こと音楽に関していえば、2020年10月に公開されたAdoの「うっせえわ」は、若者の窮屈に押し込められた感情をうまく捉え大ヒット。
過激なタイトルと反抗的な歌詞、Adoの感情的な歌声と相まって瞬く間に世間に受け入れられていった。

世間のフラストレーションが歌によって代弁されている分には健全だが、実際の無差別傷害事件が起きている現状を鑑みれば、緊張の糸はとうに限界に達しているのだろう。

「破壊」→「哀愁」→「内向」と変遷を見せた精神性だが、2020年のコロナ禍以降でAdoの「うっせぇわ」に垣間見えた攻撃的路線が継続するならば、日本でもジミヘンやボブマーリー、 Sex Pistolsのような「革命」を求めるルーツ的大型ロックンロールバンドが誕生する日も遠くはないのかもしれない。

今日の妄言も、「うっせぇわ」の一言で嘲笑して頂ければ幸いです。

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