タカハシマコ『それは私と少女は言った』感想

・タカハシマコ『それは私と少女は言った』を読んだ。

・群像劇の醍醐味というのは「AさんからはXが見えてたけど、同じ時BさんからはX’が見えていた」だと思うのだけれど、これはそういう群像劇の在り方をコミュニケーション不全に絡めてやってるのが面白かった。いやそういう話はいっぱいあるんだけれど、特筆すべきは「結局何が本当だったのか」が全く分からないところだと思う。普通、群像劇というのは読者が俯瞰した時、全体で何が起こっていたのかがハッキリと分かるものだ。だがこの物語は読者にそれを許さない。その点がこの物語を読む上でかなり重要なんじゃないかと思う。

・駒沢鳥子という自殺した天才子役について、その周囲の少女達が駒沢鳥子をどう解釈していたのか、という物語。

・学校だとか、表面上の「社会をやっていく」コミュニケーションに於いては「普通」を守っているのに、駒沢鳥子の解釈にあたって皆すれ違う。駒沢鳥子本人の一人称から物語が語られることはないので、肝心の「駒沢鳥子自身は皆を、自分自身をどう思っていたのか」は殆ど分からない。皆「自分こそが駒沢鳥子の本当の姿を知っている」と思っていて、それは読者が俯瞰的に相対性を持ち出さない限りはどれも本当だと言える。

・「これがわたしの考えた最強の鳥子ちゃん!」「違うよこっちが本物だよ」「お前ら全然分かってないよ。こっちの鳥子ちゃんが本物だよ」と各々に勝手な駒沢鳥子が偏在しており、まるでパラレルワールド同士が喧嘩をしているみたい。

・登場人物それぞれが「ぼくのかんがえたさいきょうの駒沢鳥子」を抱いている。

・僕達は他者の中に、或いは自分自身の中に「自分が見たい他人(自分)」しか映さない。もちろん客観的事実というピースは予め用意されているのだが、その組み方は千差万別で、その上持っているピースの数もそれぞれ違うから埒が明かない。さらに悪いことに、この世界に無数に散らばっているピースはただ無造作にそこにあるだけであって、どんなに頑張って並べたところでメチャクチャな絵にしかならない。けれど僕達はそのカオスに耐えられないので、そのピースになんとか理由付けを試みる。連続殺人犯の動機を皆で思い思い勝手に組み上げたり(そんなの本人にだって分かりっこない)。或いは「生まれてきた意味」を思い思いに組み上げたり。そうして論理の見える形に並べ直さないと人間は生きていけない。「論理的に考えよう」などという啓蒙があるけれど、人間は大前提として論理の無い世界では生きていけない。例えばある種の人々が「私は電磁波に苦しめられている」と考察するのだって、自分の目の前にあるピースを繋ぎ合わせた結果、世間的了解を得られない論理が誕生しただけなのだ。全く論理の無いカオス世界で生きている人間は最早人間でないとさえ僕には思える。

タカハシマコ『それは私と少女は言った』(講談社、2012)

・「他者と文脈を共有すること」に対して強い懐疑がある物語で、こんなこと考えてて辛くないのかなぁと思う。例えば「そこの醤油とってよ」というレイヤーのやり取りにおいて、僕達は駒沢鳥子の自殺ほど思い詰めたりしない。連続殺人犯の動機をあーでもないこーでもないと無為に議論するほどすれ違わない。それだけで十分なんじゃないかと僕は思う。思考の深度が「醤油とって」という公共スペースから、どんどん他者に分かりえない個人スペースに潜っていけば共有が難しくなるのは自明であって、それに対する自覚があるなら、それでいいんじゃないのか。


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