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フェネックの黒い爪

「なんで様式変えたんだ?」

部長がまた、俺の出した書類を突き返した。

「見づらいだけだろこんなの。いつもの様式で書き直せ」
「はい、すみません」

お前が変えろと指示したんだろ、とは言わなかった。誰もこの人に文句なんて言わないからだ。部署全体に、そういう空気が出来上がっている。俺は部長ではなく、その空気に従っていた。

疲れた足取りで席に戻る。隣の同僚が「大変そうだな」という目で俺を見た。

数分後、部長はおもむろに席を立ちあがると、

「じゃ、俺はそろそろ帰るわ。あとよろしく」

そう言って一番に部署を出て行った。時刻は午後七時。外はまだ明るい。こんな時間に帰れたことは、俺は一度もない。

部長がいなくなると、なんとなく部署の空気が弛緩する。俺もその空気に従って、目頭を揉む。疲労と寝不足で頭が痛かった。

隣の同僚が缶コーヒーを買ってきた。財布から何かを出して、俺に差し出した。

「なあ、いいものやろうか」
「いいもの?」
「動物園のチケット」

それは俺の家からほど近い、小さな動物園のものだった。

「なんでそんなものを」
「この間、取引先から貰ったんだ。財布に入れっぱなしだったのを忘れててさ」

流されるままに、俺はそのチケットを受け取った。同僚はマスクを取って缶コーヒーを飲むと、コーヒー臭い息を吐きながら付け加える。

「俺、動物とか興味ないから、お前にあげるよ。いらなかったら捨てていいから」
「俺もそんなに興味ないけど……」
「まぁまぁ。都合よくペアチケットだし、彼女連れて行きなよ」
「この間別れた」

俺は死んだ目をしていたに違いない。同僚の目が泳いでいた。
仕事が忙しすぎて、彼女に会う暇が全然なかった。気が付いたら、LINEで一言、「別れましょう」だ。

「ま、まあ、じゃあ、気分転換に行って来いよ。今度の休みはいつだ?」
「来週の日曜かな」
「近いじゃん。行ってきなって」
「ひとりでか?」
「今時、ソロ動物園なんて普通だって」
「ペアチケットでか?」
「……普通だって。まじまじ」

こいつがそう言うなら、そうなんだろう。俺よりは世間に通じている。

***

月に数度の休日は寝て過ごす。
前日は風呂にも入らず布団へ直行し、目を閉じると一分もせず泥のような眠りにつく。起きるのはいつもの出社時刻だが、日付を確認すると安心して二度寝する。再び起きる頃には夕方だ。

だが今日は違った。昼前には二度寝から起きると、遅い朝食を食べ、俺は出かけた。
ペアチケットを持って、ひとりで動物園へ。

受付の女性は俺のペアチケットになんの疑問も呈さず、入園処理を行った。緊張していた俺が馬鹿みたいだった。

小さな動物園だった。休日だというのに、人はまばらだ。コロナで人出が減っているのも影響しているだろうが、以前からこんなものだったに違いない。客の大半は地元の人間で、遠くから足を運ぶのは一部のマニアだけ。そんな雰囲気の動物園だった。

受付でもらった地図を広げる。飼育されているのも、ほとんど小型動物だ。キリンやゾウといった花形はおらず、ウサギとかリスとか、子供が喜びそうなものばかりだ。

入り口近くのポニーを撫で(これが一番大きい動物だった)、子供がウサギやモルモットを追い回している広場を遠目に眺めた。

動物の半分以上は室内で飼育されていた。気温も高かったので、俺はカピバラやヒツジを見るのは諦め、建物内に退避した。

そこで出会ったのが、彼だった。

冷房が効いた涼しい屋内に、俺はほっとした。キィキィと、檻の中で数匹のリスザルが騒いでいた。止まり木に佇むフクロウが、俺をじいっと見つめてきた。

そんな中で目に留まったのは、アクリル板の向こうの砂漠だった。床一面に砂が敷き詰められ、大きめの岩や朽ちた木が無秩序に配置されている。

展示されていたのは、五匹のフェネックだ。砂と同じ黄土色をした体毛と、とがった鼻、そして小さな顔に似合わない大きな三角形の耳。体長30~40cmくらいの小さなキツネのような動物が、眠ったりじゃれ合ったりしていた。

ケージの前のボードによると、五匹はオス三匹とメス二匹らしい。そのうち恋人同士が一組。フリーのメスに求愛中のオスがいるが、無視されていると書いてある。獣の世界も世知辛い。

フェネックは子供達にも人気だった。俺の後から来た子供がアクリル板に近付くと、空いている小さな穴から餌を差し入れた。
すると、フェネックたちがタタタッと走ってきて、我先に食べようとした。

……ただ一匹を除いて。

そいつは場の空気に流されず、ケージの隅っこにいた。
そして、ケージの壁を、爪でずっと掻いていた。

説明によれば、フェネックは土を掘って生活する動物らしい。だからあれは、土の代わりに壁を掘ろうとしているだけなのだろう。

壁には、幾重にも傷が付いていた。塗装が剥げ、中のコンクリが抉れている。
そして彼の黒い爪先は、コンクリを掻きすぎて白く染まっていた。きっともう何か月も、ああして掘り続けているに違いない。

俺には、その姿が勇ましいものに見えた。

周りの空気に流されず、ひたすら自分の信念を貫こうとしているように見えたのだ。まるで、このケージから脱獄して、自由な世界を目指そうとしているかのように。

俺はその姿に、勝手に感情移入していた。


気付くと俺は、その動物園のリピーターになっていた。
たまの休みには必ず足を運び、そのフェネックを見に行った。

やあ、今日も元気に掘ってるな。
みんな餌をもらいに行ってるのに、お前は行かなくていいのか?
そっか、脱獄できたら、もっといいものが食えるもんな。

俺は心の中で、フェネックに話しかけ続けた。
もちろん返事はない。しかしその横顔を見ているだけで、なんだか元気がもらえた。

また部長が理不尽な理由で怒ったんだよ。
リスケしろって言ったくせに、リスケ前の締め切りを過ぎたらブチ切れたんだぜ?
もうボケが回ってるんだよあいつは……。

え? 怒鳴り返してやれば良いって?
無理無理、そんな空気じゃないって。
空気なんか無視しろ?
自分の信じるものを貫けって?

……ああ、そうだな。それが、正しい生き方かもな。

俺はフェネックから、勇気をもらった。

***

「おい! なんで会議室の予約できてねえんだよ!」
「四時からの予約が取れてますけど……」
「なんで四時からの会議の予約を、四時から取るんだよ! 俺の仕事が終わったらすぐ会議するんだから、一時間は前から取っておけよ!!」

また訳の分からない理由で怒鳴っている。
だが、今日の俺は昨日までの俺とは違う。もう、空気に従って謝るだけの人間じゃない。
な、そうだろう、フェネック?

「そんな取り方するわけねえだろ!!」

俺が怒鳴ると、部の空気が静まり返った。

「な、なんだその口の利き方は!」
「うるさいッ!! いつもダラダラ仕事してるくせに、なんで今日に限って早く終わってんだよ!!」
「ダラダラなんてしてるはずがないだろ! お前に何がわかるんだ!」
「全部わかってるわ! 何の仕事もしてないことくらい!!」
「なんだとてめえ!!」

部長は突然、俺を殴ってきた。
俺はひるまず、殴り返した。
周りの制止も聞かず、俺は部長を殴り続けた。

俺はもう、空気になんて流されない。
誰の言うことも聞かない。
ただ自分の信じる道を歩いていく。

俺の頭には、あのフェネックの横顔だけが浮かんでいた。

***

俺はクビになった。だが後悔はなかった。
会社は体制が暴露されるのを恐れ、警察沙汰にもしなかった。俺の勝ちだ。

クビになった翌日、俺はフェネックに会いに行った。
話したいことがたくさんあった。

やあ、会社をクビになっちゃったよ。
なに心配するなって、お前より先に脱獄したってだけだ。
これからは自由に生きるさ。
もちろん、その分つらいことも増えるだろうけど、そのときはまたここにきて、お前から元気をもらうさ。

俺はフェネックの横顔を思い出しながら、話す言葉を用意する。きっと彼は、今日も返事をせず、ひたすらに壁を掘り続けるだろう。
それでいい。俺はその姿をこそ見たかった。


だがケージの前に立った俺は、愕然とした。
あのフェネックが。
他の奴らと一緒になって、餌をもらっている。

違うフェネックなのか? いや、違わない。あの横顔は、絶対に見間違わない。
なんだ、何があったんだ。

動揺する俺の前で、餌を食べ終えたフェネックは、他のフェネックとじゃれ合い始めた。
説明ボードによれば、あれはフリーだったメスのフェネックだ。しかし今は、あのフェネックといちゃつき合っている。

あいつはすっかり腑抜けになっていた。目からは情熱がなくなり、彼女のあとを付いて回り、空気に流されている。

俺は突然、梯子を外されたように感じた。
あいつがいたから頑張れたのに。
あいつがいたから部長を殴ったのに。
あいつがいたからこの道を選べたのに……。

胸の奥に、憎悪のような感情が沸き上がってきた。

しかしそれは、すぐに風に散るように消え去った。

あいつの生き方に従うのは、結局、空気に従うのと何も変わらない。
俺は俺の生き方を、俺自身の考えで決めなきゃいけない。
あんな獣から得られるものは、何もない。

俺はケージに背を向けた。
もう二度とここには来ないだろう。

壁のコンクリから、黒い爪の欠片がぽろりと落ちた。

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