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鏡の国の父 【#夏ピリカ:つる・るるる賞受賞】

「あ」
ひっそりと呟いた声を聞き咎めたのか、リーダーの佐原が、郁美を振り返った。
「三上さん、どうかしたの」
「あ、いえ、父が・・・」
「お父様――」
軽く眉をひそめている。
説明しなければ、と思い、郁美はあわてて言った。
「あそこに立っているの、私の父なんです」
「え、でも、あなたのお父様って」
「はい、そうなんです。また、出てきてしまって。すぐ帰るように、言ってきます、大丈夫です」
「大丈夫って、どうするの」
「はい、鏡がありますから。となりの紳士服売場の鏡を動かせば、何とかなります」
そう言うと、郁美は足早にカウンターの外に出て行った。
佐原が見ていると、郁美はエスカレーター脇の、柱のかげに立っている、初老の男性の前で立ち止まった。
何事かを話し掛け、男性が頷くと、紳士服売り場を手のひらで指している。
離れたところから見る分には、デパートの制服を着た女性販売員が、顧客を案内しているようにしか見えなかった。
やがて二人は、歩き出し、佐原の視界から消えた。

約十五分後、郁美は戻って来た。
「申し訳ありません。父がご迷惑をお掛けしてしまって」
頭を下げる。
「いえ、それはいいんだけれど。お父様、どうなさったの」
「はい、あちらへ移ってからも、私のことが心配になるようで、すぐにこちらへと戻って来てしまうんです」

佐原は尋ねた。
「三上さん、あなた、さっき、鏡を動かすとか言っていたけれど、それってどうすることなの」
「鏡を、二枚用意して、合わせ鏡にすると、そこに通路ができるんです。父はそこを通って、行き来していますので。今も、紳士服売り場の可動式の姿見をお借りして、フィッティングルームの鏡に合わせました」
「それで、お父様は、無事にお帰りになったの」
「はい。私が振り向いた時には、もういませんでしたから、今頃はあちらに着いていると思います」
「わかったわ。じゃあ、三上さん、あなた休憩に行ってください」
郁美は会釈すると、カウンターの奥へと姿を消した。

「どうでした」
郁美の後ろ姿を見送ってから、佐原は声をかけた。
カウンター横の扉から、初老の男性が現れる。
「聞いていた通りだったな。私のことを、お父さんと呼び、鏡の前に立つように言ったよ」
「部長の目からご覧になって、どうお思いになりましたか」
広大な百貨店の人事部を統括する男性は、
「ふざけている感じはまったくなかった。やはり、一種の病気じゃないのかね。いつからこういう症状が出るようになったの」
「お客様からご意見が寄せられるようになったのは、ここ一ヶ月ほどです。彼女の父親が事故で亡くなったのは、半年ほど前ですね。忌明けからは、何事もなく勤務していたんですが」
「母親は、小学生のころに病死しているね」
「はい。父ひとり娘ひとりで、ずっと支え合って生きてきたようです」
むごいな」

佐原が頷く。
二人は、きらきらしい売り場の、至る所にある、鏡を見つめた。

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