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【き・ごと・はな・ごと(第18回)】フランス紀行―曼陀羅花木録(4)

香水の町、グラースは「バラ博覧会」に沸いていた。このシーズンの恒例のイベントだというバラ博は、数ケ所に設置された品評会場のブースの他に、業者会議、苗や種の即売会など、大小さまざまな催し物や出し物が居並び、なかなかの賑わいである。日本の観光地にもよくあるテクテクマップのような地図が用意されて、それを手にしてあっちの会場、こっちの展示会とバラを愛でて歩くのだ。香料会社の数が多いだけに、さすがに香水を売る店が多く、そういった店はもちろんのことレストラン、ブティック、さらに一般の商店に至るまでバラをアレンジした飾り付けで楽しませてくれる。店先に並べるドレスやスカーフ、ランジェリーまでもバラ柄が目立つ。

そんな町ぐるみのバラ作戦もそれなりに楽しいが、それよりも気になって仕方がないのがバラの畑だ。あちこち巡り歩いては「バラ畑やーい」と探しているのだが・・・。400年もの間、香水産業のトップに君臨してきたこの町の主役、香りのエッセンスの元となる花影はいずこに?である。

案内所で聞いてみると、なんと花畑は5キロ先の山裾の外れだという。グラースは案外広いのだ。―四季折々の香水用の花畑に囲まれた南仏の小さな村―何かの本で紹介してあったこの町のイメージが頭の中にあって、どこからでも手が届くところに花畑があるのだと、てっきり思い込んでいた。

「香料用の花畑に行きたいんだけど。できたら写真を撮りながらいくつか案内してください」ともかくタクシーを奮発することにした。車は祭りの人波を逸れて、イチジクやオリーブ、プラタナスの茂る坂の小道を下っていく。気がつくとあたりは右も左も緑が広がるのどかな田園風景に変わっていた。背後の山の斜面に石畳と石段で連なるグラースの町並みが、城塞のようにそびえていた。

「ここがバラの畑ですよ」と言われて車を降りたとき、一瞬、開花シーズンが終わってしまったのかと早合点した。花よりも緑の枝葉の分量が多くて、普段見慣れたバラと印象が違っていたからだ。花の名前はローズ・ド・メ。五月のバラだ。その名のとおり開花期は5月から最も長くて6月半ば迄。原種に違いセンチフォリア系でグラースのみの限定品種だ。ペチコートを何枚も重ねたような花かたちとピンクの色合いがとても愛らしい。香水用に栽培されたものだけに、強烈な甘い香りを放つ。

畑の前にいかにも南仏らしきレンガ屋根の農家がある。周辺で何人かの人たちが摘み取りをしていた。ここのオーナーの若夫婦と、手伝いの女性が2人。全員、30歳そこそこというところ。背丈が隠れるくらいの茂みに入り、花びらの付け根を片手でプチン、プチンと捻って折る。それを腰に巻きつけた布製エプロンの大きなポケットに入れていく。たくさんの花びらで膨らんだエプロンを下げて歩く様子はカンガルーのおなかを思わせて、ちょっとユーモラスである。そのエプロンに2歳になるマリアンヌが、甘えてまとわりつく。子供をあやしながらの作業である。一人が一日に摘み取る量はおよそ35~50キログラム。けっこう根気のいる仕事だ。

土地の人に聞くと、グラースの香料用の花畑は全盛期に比べて随分減ってしまったらしい。7つある村で花を栽培しているのは一カ所だけとか。バラも数件しか栽培しておらず、花種にしても他にはジャスミンくらいのものなのだそうだ。理由は、若い人の土地離れ、農地の宅地化、手間賃の高騰などさまざまらしい。香水の原料は中東やアジアなど安価な輸入花をつかっている。バラにしても、モロッコ、トルコ、エジブトなどから仕入れているのが実情だ。

グラースは昔、皮鞣し業として盛んな土地だったそうだ。それが香水の町となったきっかけは、16世紀の末。やわらかく鞣した手袋に香りを付けようと、香りのもととなる花や植物を栽培したことにある。当時、ヨーロッパでは香りのついた手袋は大流行だったのだ。それが時代を経て、香料製造の方が皮産業にとって変わったのである。植物香料の栽培も今や減りつつある。が、その歴史の中でもたらされた技術は健在で、いまでも香水産業のメッカであることに変わりはない。

畑を去るとき、ご主人が両手いっぱいの花びらをさしだしてくれた。華奢な体つきに似合わない無骨な手は、やっぱり農業をしている人のものだ。愛おしげに花びらを扱うしぐさに、言いようのないバラへの愛情を感じた。

花びらは旅のあいだずっと甘く香っていた。日本に戻ってからポプリにした。畑では7~9月がジャスミンのシーズンだから、きっと今頃は早朝からの摘み取り作業に忙しくしているだろう。

チリチリに乾いた花びらに鼻を寄せると、微かであっても香りはあのローズ・ド・メそのもので、初夏の風の涼やかなバラ畑の情景をたちまちに蘇らせてくれる。香りの記憶は魔術のように鮮烈である。

バラ水、バラ石けん、etc
山の斜面に広がるグラースの街
香水会社の前に、バラの花びらの山
香水用のバラ畑
五月のバラ ローズ・ド・メ
ていねいな手摘み

文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞―平成10年(1998年)9月15日(火曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

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