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雲雀

空高くでヒバリが鳴いている。
嗚呼なんと牧歌的な風景なのだろう…。
牧歌的風景には必ずしも牛や羊は必要ではない。れんげタンポポも必要としない。ただ畑の上にヒバリさえ鳴いていればそれでいい。
春はいかにも長閑のどかである。
まるで青空に吸い込まれていくように、ヒバリは見る見るうちに上空へと昇っていく。
彼らは一体どこまで飛んでいくつもりだろう。もはやその姿は芥子粒ほどもない小さな点となってしまった。
私はだんだん心配になる。
おい、もういい、もうわかった。そんなに高くまでいかなくたっていいだろう…

彼らはピーチクパーチクとさえずりながら、時にはなんと百メートル以上も昇っていくという。ヒバリの雄は何故なにゆえにかくも空高く舞い上がろうとするのだろうか。
これは彼らの縄張り宣言で、揚雲雀あげひばりとも呼ばれる習性である。普通縄張りは広さを競うものであるが、地価の高い農耕地であまり広い土地の買えないヒバリたちは、高さで勝負することを思いついたのだろう。だから彼らは「成層圏の内は全て我が縄張りである」といわんばかりに、意気込んでピーチクパーチク舞い上がる。

縄張り宣言をする以上その下には巣があり妻子がいるということである。これは雄同士の競争であるばかりでなく、「ほらほら、お父さんはこんなにすごいんだぞ!」という家族に対する見栄みえでもある。
しかしせっかく目立たぬように草むらに隠れている妻にとっては大変な迷惑だ。
「お父さんお願い後生ごしょうだからおやめんなって下さい」と嘆いている。子どもたちは「おとっつぁん頑張れー!」と無邪気にはしゃぎ出す。母親はもう気が気でない。
全く男は馬鹿なものである。馬鹿な亭主はどこまでも昇っていく。上空へ行けば行くほど当然のことながら空気は薄くなる。つまり空に向かって潜水するのと同じことである。しかも彼らは激しく羽ばたかねばならぬ。そして歌わねばならぬ。もはや舞い上がる雄たちは半狂乱である。

そんな様子を私たちは「ああ牧歌的だなあ」などと呑気に眺めている。彼らと彼らを見上げる我ら地上の人間の気持ちとでは、それこそ天と地ほどの違いがあるわけだ。
それでもやはり春の牧歌的情景にヒバリの歌声は欠かすことができない。我々はこの愛すべき雄たちの努力に、頭を下げて感謝しなければいけないのである。

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