見出し画像

雪虫 / セッケイカワゲラ

この虫は妙な虫である。
こんな妙ちくりんな虫を季語として歳時記にのせるのはやめてほしいくらいだ。

私は歳時記をめくっては今日は何の生き物をテーマに書こうかしらんと考えている。
ところが春の季語として掲載されている虫は意外にも少ないのである。その数少ない春の虫の一つにどうして雪虫が選ばれたのであろうか。

ここでまず初めに確かめておかなければいけないのは、この場合の雪虫は冬にふわふわと飛んでいくあの綿虫とは違うということだ。歳時記に春の季語として載る雪虫は、早春に雪の上に現れて動き回る虫の総称である。カワゲラやユスリカ、トビムシの仲間がそれに当たるらしい。
中でもセッケイカワゲラという虫が雪虫としてよく取り上げられているようだから、とにかく今日はこの謎の昆虫について考察してみることにしようと思う。
とはいえセッケイカワゲラの暮らしはあまりにも摩訶不思議なので、私には彼女たちの気持ちに寄り添って考えてみるということは不可能である。よって調べて分かったことをとりあえず書くより仕方ない。

セッケイカワゲラはその名の通りカワゲラの仲間で、雪解けの始まる二月頃に雪の上に姿を現す体長1cmほどの小さな黒い虫である。
はねは無いか、有ったとしても痕跡程度。
幼虫は春に山中の渓流に生まれるが、どうしたわけか夏がやって来ると眠ってしまう。他の水生昆虫たちが血気盛んに奔走している最中、彼女たちは川の底でスヤスヤと寝ているのだ。
秋も深まり多くの虫たちがその儚い命を終えてしまった頃、セッケイカワゲラの幼虫は突如むっくと起き出して、川に沈んだ落ち葉など食べながら意気揚々と成長する。やがて羽化して大人となるのは二月のことである。
よりにもよって一番寒いこの時期に上陸した彼女たちは沢の上流を目指して歩き始める。歩き始めるのは卵を産むためである。雪解け水で流されることを想定してあらかじめ上流に産卵するのだ。
ただし体の小さなセッケイカワゲラにとって陸はただ一面の銀世界である。唯一与えられた太陽という方角の手がかりをもとに、羽のない彼女たちはよちよちと時間をかけて上流を目指す。

ここまで調べてみて私の謎はますます膨らむばかりである。季語とは人間の暮らしと密接に関わりのある事物が選ばれるのが当たり前なのだ。果たしてこの珍奇な虫が我々の生活とどのように関係しているのだろうか…。

しかしここで重要な記述が現れる。
新潟県の積雪地帯では昔から雪解け頃に発生するカワゲラやユスリカ、トビムシなどを「雪虫」と呼び、この虫の出現を農作業を進める合図としていた、というのだ。さらに雪虫の一つであるトビムシはアイヌ語では「ウバシ・ニンカップ」と呼ばれ、これには「雪を減らすもの」といった意味がある。
つまり北東の雪国ではこれらの昆虫たちは「雪をとかして春をよぶ生き物」と信じられてきたのである。

俳人の長谷川櫂さんは「季語や歌枕は想像のたまものである」とおっしゃる。
昔の歌人は歌枕の名所旧跡が一体どこにあるのかすらも知らずに、ただ想像にまかせて歌に詠っていたのだという。季語もまた詠み手と聞き手の心の中に自由に広がっていくものなのだ。

雪虫は白銀の雪上に現れ、雪をとかして春をもたらす小さな虫である。ただそれだけ分かっていればいい。あとは各人の想像力が自然に雪虫を雪虫たらしめていく。
要するに、ここでセッケイカワゲラの生態を詳しく解説する必要など全然なかったのである。


参考URL

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?