何のために書いているのか

こんにちは。
日々意識低い系noteを書き散らかし、そろそろ一年の背中が見えてきた木賀ちお🐧です。

300日以上に渡りダラダラと毎日noteを書いてきたわけですが(2日ほど寝落ちによりアップが翌日にずれ込むという大変可愛げに満ちたミスをおかしています)書き始めた理由というのを今まで書いていなかった気がするので、今日は私がnoteを書く理由についての話です。

もともと文章を書くのはそこそこ好きなのですが、三度の飯より好きというわけでもなく、仕事で何かしらの原稿を書けなどといわれるのは本当にイヤでたまりません。

思い起こせば子どもの頃も、文集などの自由テーマの作文は嬉々として書いていたものの、読書感想文には何を書いたらよいのか見当もつかず、夏休みの宿題の中ではいつも後回しにしていました。

本を読むこと自体は大好きですが、読みたくもない課題図書で感想文を書くことは苦手だったのです。

つまり、気が乗らないテーマについて書くことができないポンコツ人間なのです。

子どもの頃から現在にいたるまで、大きく道を踏み外すこともなく、ほどほどに恵まれ、ほどほどに不幸で、ごくごくありふれた人生を歩んできた何一つ特別でない私が、どんなことを考え、感じながら生きているのか?

将来伝記が書かれることも、ドキュメンタリー化されることも、漫画化も、アニメ化も映画化も決してされることがないのが確定路線の私が、生きた証を残す方法は一つだけしかないと気がついたのです。

私が自分自身の言葉で書き残す以外にないのだと。

とはいっても全く何の手がかりもないと、何を書いたらよいのかわかりません。
そこで、はじめのうちは「あいうえお順」「アルファベット順」などのしばりを作ってそれに関連したワードでテーマを決めて書いていました。

しかし、今では書き始めるまで何一つ考えることなく、いきなりスマホに打ち込むスタイルになりました。

誰か特定の人に向けてというよりは、私が死んだあとに、娘が見つけて読んで楽しんでくれたら嬉しいなと思って書いています。

へーうちの母親はこんなことを考えて生きていたのだな。なんて、作家の子どもでない限り、なかなか親の頭の中身を知る機会というのはないのではないかと思うのです。

なので、すごくうまく書けてなくても、日本語だし一応読むことはできるはずなので、私が死んだあとには、娘がこのnoteを見つけられるように、何かしらのヒントを遺してこの世を去ろうと目論んでいます。

あと50年ぐらい先かもしれませんが。

それまで毎日書いてたら読む方も大変なので、そこはその時になるまでには考えます。

というわけで、今日はこの辺で。
また明日。










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