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名も無い人の、生きた歴史

作品のために読んでた資料の中に、まだネットが無い時代のレズビアン雑誌がありました。
色んな人がペンネームで投稿してて、歴史に名を遺したわけではないけど確かに存在してきたレズビアンたちの、生き生きとした声が綴られてて。
おちょけたものとか、まじめなものとか、
自分の先入観が完全に打ち壊されたんだけど、「今も昔も変わらなかった。」
キラキラした人もいれば目立ちたくない人もいれば、
なんていうか本当に、時代を感じなかった。
目の前にその人たちがいるんじゃないかって感じた。

文章を綴るのはどこまでも自由だもんな。
ペンネームで、言葉を綴っている時間は、世間の色んなしがらみが消える、圧倒的な自由だったんだ。
きっとそれはいつの時代でも変わらない。

この人々の生きた歴史を私は忘れないでいようと思った。
ずっとここにいたんだ。
今も、形はネットというものに移行しているけれども、こうして書いているnoteとか、SNSの投稿とか、
きっと将来の誰かが見て、何か考えたりすることがある。
それを信じる根拠といえば私がその雑誌を読んだ時の、胸の熱さだけなんだけど、それで十分だろう。
こうして言葉を綴っているときに、過去から受け取った言葉を紡いだ人と、未来へ受け取ってくれる人のことを考えると、「一人じゃない」と確信する。

映画もそんな風に創れたらいいな。

そして私は「レズビアン」のことについて自分事として言葉にすることが多いけれども、クィア・コミュニティ全体のことも言葉にしていきたいと思う。

特に、圧倒的な男女二元論の中でいないものにされているノンバイナリーやクエスチョニング。
言葉にしていかないと、記録を残していかないと。
今、いつか、あの時、を生きる/生きた、命の証として。

以下、LGBTQIA+・・・という「言葉」について私が想っていること。

1.その言葉は、当事者のもの。
言葉があるから、自分が「一人じゃない」と知れる。
居場所が見つかる。
当事者が自分自身のために使う言葉であって、他者が割り当てるためのものではない。

2.その言葉は、ただ自分自身であることを理由に差別されてきた人々が過去に声を上げて、連帯し、権利を勝ち取る中で生まれてきた言葉で、色んな人の歴史や命が詰まっている。

「LGBTっていう言葉がなくなればいいのにと思う」っていうことを、(当事者自身の口からもマジョリティの口からも、)聞いたことがあるけど、ただのカテゴライズのための用語ではないことを、もっと考えてくれよと思う。

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