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創作ショート『動物園的。』其の一  モリノさんとぼくの話

■MONOがお届けするちょっと不思議なショートストーリーズ。日々の生活のすきま時間に、ひとさじからめてみてください。

【熊――食肉目クマ科の哺乳類の総称。全般に大形で、がっしりした体格をし、足の裏をかかとまで地面につけて歩く】

 モリノさんとあったのは、都心の高層ビルにあるエレベーターの中だった。
 ぼくが乗ろうとしたエレベーターは閉まりかけていた。ぼくの足音が聞こえたのか、閉じかけたエレベーターの扉がもう一度開かれ、ぼくは急いで中に飛び込んだ。
 と、ばふんと大きな身体にぶつかった。
「し、失礼しました」
「いえいえ」
 頭の上の方から聞こえる野太いが温かい声。ぼくは中から開けてもらった礼をいうために、汗をぬぐいながら顔をあげて、ぎょっとした。
 熊だ。
 鼻先が四角く突き出て、固く黒い毛がぼうぼうに生えた頭。かぶりものではなく、完全なる熊である。
 これはまずいのではないかと思ったときには、もうエレベーターの扉は閉まり上昇しはじめている。24のボタンが点灯している。どうやら彼もぼくと同じ階にいくらしい。
 このビルには、聞けば名の知れた証券会社や保険会社や通信販売会社などが入っている。でも24階には、仕事がないひとに就職をあっせんする職業安定所がある。つまり彼もまた仕事を求めにいくのだろう。熊だけど。
 熊は肉食系だったろう。あまり刺激を与えてはなるまいと息をひそめ、エレベーターの奥に背中を押しつけじっとしていた。そうしてボタンに向かっている彼の後姿をちらちらと盗み見る。熊はおとなしく、どうやらぼくに危害を加えるつもりはないらしい。
 それにしてもなんてでかいのだ。プロレスラーなみの身長と横幅だ。その体格のせいか、堂々とした立ち姿のせいか、ぼくみたいに背中を丸めた求職者らしさはない。
 昭和のころのお父さんのような帽子を深々とかぶり、はちきれそうな縞々の背広を着ている。背広のあちこちに、枯れ草がついている。公園のベンチで寝ていたのだろうか。背中にすがりつきたくなるような日なたの匂いがする。でももちろん、そんなことはしない。求職者、あるいは失業者は、その立場を脱したい者たちばかりで仲間意識はない。それに、なんといっても彼は熊だし。
 気づまりな沈黙をかかえて、階数を示すランプがうつりかわるのを耐えるように見ていると、突然照明がぱちぱちと点いたり消えたりした。まもなく、がくんと大きく揺れてエレベーターがとまった。
 ぼくたちははっと息をのんだ。
 が、言葉を交わす間もなくすぐに詫びのアナウンスが聞こえてエレベーターが動き出した。どうやら別の階の操作ミスにエレベーターがつかの間反応したらしい。
 同乗するしましま背広から声が聞こえた。
「驚きましたね」
 話しかけられてぼくはあわてた。なんとか「ほんとうに」とぼそぼそ口にした。
 わたしの脂汗に気づいたのか、「おっと失敗」と熊は赤い舌をだして、ぽんと帽子の上から頭を叩いた。
「失敬。つい動揺してまじないがとけてしまいました。これでどうでしょう」
 どうでしょうといわれても、何も変わってはいない。誰に教わったまじないなのだ。そもそもこの姿で電車に乗ってここまでやってきて、騒ぎにならなかったのか。
 エレベーターの鏡に向かって、彼は赤い蝶ネクタイをつまんでポーズをとった。
「背広は中古です。似合いませんか」
 まるでサーカスのようですねと本当のことは言えず、ぼくは何度も頷いた。
「はい。とってもとってもお似合いです」
 チンとなり扉が開いた。24階についたのだ。
 天国にたどりついても、これほどほっとしなかったろう。ぼくは熊に背を向けないよう、壁に背中をこすりつけるようにしてエレベーターを出ると、職業安定所の窓口に走った。
 ちらと背後を見ると、熊男の縞模様のズボンがエレベーターから出てくるところだった。
 忘れよう。あれは妄想だ。あるいは赤の他人だ。いや他獣だ。
 職業安定所はいつもの通りで、ぼくはほっとした。
 いつものように窓口で受け付けをすませ、求人を検索するパソコンの前に座る。次々と求人の検索をはじめたときには、すっかり熊男のことは忘れていた。
 高校を卒業して以来、売れない漫画を描いていた。売れない漫画だから食っていけないわけで、たいていはコンビニや飲み屋や工場の期間工でしのいでいた。が、いよいよ40をすぎ、アシ仲間の後輩で自分の娘といってもおかしくない年齢の女の子の連載がアニメ化されたお祝いの席に招かれたとき、ぼくは違う仕事で生計をたてることを決意した。
 営業。土木。介護。不動産。流れていく求人情報をぼくはぼんやりと目で追う。どれだけ紹介状といっしょに履歴書を送っただろう。面接までいければまだましだ。けれども、いまだここにいる。もう若くなく、学歴も経験も資格も免許もないぼくにできる仕事は何もないような気がした。
 検索をあきらめて、職業訓練の窓口に相談にいくことにした。窓口の老いた職員がいくつかの訓練の案内書をコピーしているあいだ、ふと隣の窓口を見てぎょっとした。
 隣にはあの熊男がいた。
 熊男は目が悪いらしく、案内の紙を鼻先に押し当てるようにして熱心に見ている。対応しているのは、この安定所では一番ではないかと思う若くきれいな女の子だった。彼女は笑顔もまじえて、「そういうことでしたら、この訓練を受けてみてはいかがですか」などとやさしく語っている。顔色ひとつ変えない彼女に、さすがプロだとひそかに感嘆した。
 その一か月後、ぼくたちは再会した。
 パソコンがならんだ部屋で、彼は隅の席に背筋をのばして座っていた。あの赤い蝶ネクタイとしましまの背広を着ている。帽子はかぶっていなかったので、あの黒い熊の頭のままだった。まじないはまったくきいていない。
ぼくを見かけると、彼は嬉しそうに毛むくじゃらの手を振った。他の人たちがいっせいにぼくを見つめた。
 ぼくは仕方なく、小さく手を振って離れた席に座った。
「これがマウスというものです」
 インストラクターがそういってマウスを示したとき、ぼくは申込内容を間違えたことに気がついた。DTPや3Dプリンタ、CADの技術を学ぶつもりだったけれど、このコースはまったくのビギナー向けパソコン講座だったのだ。ぼくの親くらいの年齢の人たちが、インストラクターの指導にしたがって神妙な顔つきをして人差し指でキーを押している。
 熊さんはどうかと見ると、鼻をディスプレイに押しつけてるので、画面が濡れたり曇ってしている。しかも彼の指にはパソコンのキーは小さすぎた。どんなに注意深く押そうとしても五つくらい同時にキーを押してしまうのだろう。太い指をひねったり曲げたり、その努力は涙ぐましいほどで、しまいにはキーボードを押しつぶしてしまうのではないかと思った。インストラクターは彼が目に入らないのか、他の人たちの相手ばかりしている。ひどい差別だとぼくはひそかに憤慨した。
 やっと訪れた休憩時間に、ぼくは熊さんに声をかけた。
「帰りましょう」

 ぼくたちはビルの隙間にある薄汚い公園で、ベンチに座った。
 熊の名前はモリノといった。
 モリノさんは、奥さんから持たされたというリンゴをがつがつと食べ、牛乳パックからストローで飲んだ。ぼくにもリンゴを一個くれた。蜜がでたとてもおいしいリンゴだった。
「仕事を捜してるんですか」
 当たり前のことを訊いてしまったと思ったが、モリノさんは嬉しそうに頷いた。
「はい。日本で暮らしていくのは難しいですね」
 モリノさんは東北出身で、日本とロシアのハーフだといった。ロシアのなんとかツクという町にある大学で異文化コミュニケーションについて学び首席で卒業したのち、北欧やアラスカで国際交流センターで働いていたなどとつらつらと語った。
「北半球の異文化交流プロジェクトに関わっておりました。出張も多く大変でしたが、やりがいはありましたね」
「すばらしいですね」
 ぼくは心からそういった。
「語学も得意なんですよね。その経歴なら引っ張りだこでしょう」
「残念ながら、そうでもないのです」
モリノさんはちっちと鋭い爪を振り回した。
「仕事がないと責任もなく自由でよろしいのですが、働かざるもの食うべからずですから。はっはっは」
 モリノさんは明るく笑った。
 ぼくはすっかりうちのめされた。それほどの実績があっても、日本では、ただの熊でしかないのか。じゃあ自分はどうなんだと卑屈な感情がうずまいた。
「あのう。なぜ日本に帰ってきたのですか」
「そりゃあ」
 モリノさんはリンゴを口に放り込み、噛み砕くといった。
「わたしはこの国の生まれですから。やはりこちらの水や食べ物が恋しいのですよ」
 そうして赤い舌でぺろりと口のまわりをなめながら、ぼくを物欲しげに見つめたので思わず身構えてしまった。するとモリノさんは「冗談ですよ」と赤い口を大きく開いて笑った。冗談かよ。
「それで」モリノさんは縞の背広の腹に片手をおくと、のんびりといった。
「あなたのほうは、今までどんな人生を送っていたのですか」
 ぼくが漫画を描いていたというと、「Прекрасно!」とぼくにはわからぬ異国の言葉で声をあげた。悪い意味ではないだろう、と思う。
「絵を描いて話を考えるのですね。それは誰にでもできることではありませんね。あなただけの特殊技能です」
 そうかなあと思いながらも、悪い気はしなかった。こんなふうにいわれたのは、子どものころ、ノートの片隅に書いた絵を隣の席の女の子が「じょうずー」といってくれたとき以来だ。
「日本のマンガは世界基準です。わたしの子どもも大好きです。この近くの幼稚園にいってましてね……」
 そう。だからね、ちょっと絵が描けるくらいじゃだめなんですよ。
 そんなココロの声は聞こえるはずもなく、モリノさんはリアルに鼻息荒く「何か描いてほしい」といってきた。若い頃の合コンや、正月に帰省したさいに、親戚の子によくいわれる漫画家あるあるだ。ぼくの描く漫画は二頭身なうえにあまり可愛くないので、たいていがっかりされて「……」という反応がかえってくる。だから断るようにしているのだけれど、期待に満ちたモリノさんに見つめられて、いつも持ち歩いているミニスケッチブックを取り出した。
 2Bのシャープペンシルを紙に走らせて、ぼくは丸顔親父がパソコンに向かっている絵を描きはじめた。大友克洋と山上たつひこと藤子・F・不二雄をミックスして劇画タッチを極限まで薄めたそのキャラは、古臭いうえにどこにでもある画だった。
「おお。たった数秒で。これが日本のマンガ力」
「さしあげます」
「よろしいんですか? ありがとうございます!」
 モリノさんは絵を傷つけないようそっと背広のポケットにしまった。
「感激です。日本の作家さんの絵がもらえるなんて。ゴッホの原画を手に入れるより嬉しいですよ。お礼に、そうですね。わたしが死んだら胆嚢をあげましょう。高く売れると聞いたことがあります」
 いやしくもぼくは耳をそばだてたが、道義上よろしくないと身を正した。
「いや。それには及びません。ぼくの絵にそれほどの価値はありません。今まで、ぼくの漫画が商品として流通することはありませんでした。ぼくは漫画を描いてきましたが賃金がもらえる仕事にはならなかったんです。だからこうしてあなたとお会いすることになっちゃったわけですが」
「ふうむ」
 モリノさんは太い腕を組んだ。
「商品として流通する漫画と、しない漫画があるのですか」
「あるんです」めんどくさい話になりそうだ。
「あなたは商品として流通する漫画を描きたかったのですか」
「まあ、そうです」この手の議論はやめてほしい。
「でもしなかった。賃金がもらえなかった。あなたは賃金を得るために漫画を描いていたのですか」これも。
「そのつもりでした。これを仕事にしたかったんです。でも、お金がないと生きていけません」
「お金がないと生きていけないのでしょうか」
 さすがにぼくはいらっとした。
「当たり前ですよ。だからあなたも仕事を捜しているのでしょう。生きていくためには、住んでいる部屋の家賃をはらわなきゃいけないし、食っていかなきゃいけないし。スマホだってお金かかるんですよ。山ん中で木の幹はがして生きるのとはわけが違うんですっ」
 これはいいすぎたと思い、モリノさんをのぞき見た。
 するとモリノさんは、目をとじて憂いのある熊の面持ちをした。
「やまの、なかで」
 小さな声で「すみません。そんなつもりじゃなかったんです」とつぶやいた。
「ふふふ。懐かしい風景を思い出しましたよ」
 かつて森の中の公団住宅で生まれたモリノさん。まわりには小川があり、木の実が落ちていた。食べ物に困ることはなかった。けれどいつしか未知の世界にあこがれ、学問の喜びにめざめ、故郷をあとにした。
「あのときは前に進むことばかり考えていました。それでまじないを習い、この社会で生きてきたのです。若かったんです。今は女房もいて子どももいる。そろそろ、人生を考え直すときがきたようです。それでわたしは」
 人生なんだ。ぼくはひそかにつっこんでいた。
 続く言葉を待ったけれど、モリノさんは黙りこくっていた。
 見ると、うなだれたまま動かない。
 モリノさんは寝てしまっていた。
 ぼくは二頭身の親父キャラの絵を描いたスケッチブックのページをめくり、次の白いページを開いた。2B0・7ミリのシャープペンシルの芯をだし、薄く短い線を引く。
 モリノさんの大きい頭。固そうで黒い毛。耳。鼻。りんごの汁のたれた縞の背広。
 ぼくはモリノさんの姿を絵に描いた。
 丁寧に、丁寧に描き込んだ。
 カラスが近づいてきたが、モリノさんが目を閉じたままガウとうなると、血相をかえて飛んでいった。さすがだなとぼくは感心した。この能力もひとつのウリになるのではないか。自分のことはさておき、ぼくはモリノさんの行く末を考えてはじめていた。森に戻ったら人と敵対する関係になるのだろうか。せっかく異文化コミュニケーションを実践してきたのに、それはもったいない。警備員はどうだ。夜型ならおすすめだ。タレントとして生きていくこともできそうだが、それはいやらしい感じもする。どれもこれも、ニンゲン本位の生き方で、モリノさんの生き方ではない。
 モリノさんは、どこの人でも熊でもない。モリノさんだ。
 海を渡り、異国で働き、そしてまた祖国に戻りイチからはじめようとするなんて。グローバル社会に立ち遅れているこの国では、まだまだ熊の就職には厳しいかもしれないけど、きっとモリノさんなら生きていける。
 モリノさん、がんばれ。ぼくも、なんとかやってみるよ。
 無心で描き続けてふと顔をあげると、目の前に小さい熊の子がいた。
 小熊は黄色い幼稚園の帽子をかぶり、斜めに水筒をぶらさげている。もう今さら何がどうなっても驚くまい。
 小熊は目をきらきらさせて、ぼくの絵をのぞきこんだ。
「きみはモリノさんちの子だね。迎えにきたんだ」
 小熊はくくっと笑うと、その場ででんぐり返しをしてみせた。水筒の紐がからまっておかしなことになったので、ほどいてあげた。
「これを。お父さんが起きたら渡してくれるかな。たぶん、ぼくの、最後の絵なんだ」
 ぼくはスケッチブックから描いた絵を切り取って熊の子にさしだした。
 小熊はぼくが出した紙を器用に手先で受け取ると、喜んで走り出した。
 走り出した先には、髪を後ろで結んだお母さんらしい女の人がいた。子熊を抱き上げるとぼくに会釈をした。
 人間の女性だった。あまりにきれいな人だったので、ちょっと理不尽な思いもよぎったが、あの奥さんも子どもも含めて、やっぱりモリノさんはすごい熊なのだとしみじみ思いながら、ぼくは公園をあとにした。

 それからぼくはちゃんと希望通りの職業訓練を受けて、イラストレーターや3D加工の基礎を学んで、なんとか小さな設計事務所にもぐりこむことができた。ぼくが担当するのは古い建造物の意匠をデータとして残す仕事で、緻密で手間はかかるけれど面白かった。事務所の所長は自分とトシがそう変わらない女性で、かなり年上か、かなり年下の社員やパートがいた。居心地は悪くない。この仕事で、たまに地方に出張に行くこともあった。
 それである夏、信州を訪ねたときに、県道沿いに熊の絵が描かれた看板を見つけた。エプロンをつけた熊の絵だ。一度ゆきすぎて、あぜ道でUターンして二度見してしまった。あの顔のラインに覚えがある。毛の描き方に覚えがある。他の誰がわからなくても、自分が引いた線は覚えているものだ。あのときの絵だった。背広こそ着ていないが、幸せそうな笑顔で眠っていた熊の面影がうつされていた。隅にMORINOと店の名前らしきものが読めた。

 看板の矢印の方角に車を走らせてみると、小高い丘にたどりついた。車から降り立つと、明るい陽射しとともに甘酸っぱい匂いが漂ってきた。近くに果樹園があるのだろうか。広場の奥には山小屋のような家があり、大きな木の枝には手作りらしいブランコがかけられ、一輪車が転がっていた。木の家の、大きく開いた窓越しに、お腹の大きな女の人が金色の液がつまった瓶を箱につめているのが見えた。家の前にある、丸太を削った作った看板には、はみでそうな筆書きで『はちみつや』と書かれていた。

 ぶんぶんとうなる羽音に誘われて、さらに広場をゆくと、たくさんの木箱が並んでいた。蜂の巣箱だ。
 その片隅で、麦わら帽子をかぶり、オーバーオールを着た熊が木箱から板を取り出している。板を揺らしてびっしりついた蜂を振り落とすと、残った金色の蜜をすくってひとなめしている。モリノさんだった。

 なんてぴったりの仕事を見つけたんだろう。ぼくがにやにやしながら見ていると、モリノさんは鼻を引くつかせて頭をあげた。ぼくに気づくと、大きく手をふった。まるで来るのがわかっていたかのような笑顔で。ぼくも手を振ってこたえる。いつか会えると思っていた。
 ねえモリノさん。話したいことがいっぱいあるよ。

 蜂の羽音がいつまでも響いていた。


★「みんなのギャラリー」から熊の絵をお借りしました。Thanks.

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