書物の転形期21 パターソンの洋式製本伝習6:印書局の北米コネクション3
チップマン商会とC. S. ボイントンの雇用
チップマンは印書局の設備購入と外国人技術者の雇用に大きく関わったが、彼がいつ来日したのか正確なところはわからない。1872年4月6日の"The Japan Weekly Mail" には、1872年4月3日に上海から中国の諸港を廻って横浜に入港したNew York号の乗客にH. S. Chipmanの名が見える。これが初の来日だったのか、それとも横浜の商会から中国に渡航して商談などを行った帰途だったのかは不明である。
細川は印刷技師の雇用を急いでおり、1872年9月に米国人印刷技師C. S. ボイントン雇用を求めた。
「兎角海外常用ノ式ニ不本候テハ印書法ノ基礎相立不申」とあるように細川は海外の印刷技術をそのまま移植しようとしており、設備の整備と印刷技術の伝習は一体のものだった。ボイントンは印刷機の発明と専売で一万ドルの利益を得ているとされており、「印書局創業ノ事業」にふさわしい人物として推薦していた。設備を整えることが最初の御雇い外国人技師の役割として期待されていたことがうかがえる。細川は予算面から渋る大蔵省と五ヶ月にわたって粘り強く交渉した。翌1873年2月には香港で印刷所設置の計画があり、ボイントンが打診を受けたとして雇用を急がせているが、その際に次のように事情を説明している。
細川は印書局の整備計画について、ボイントンに相談し指示を受けていた。『大蔵省印刷局百年史』は、印書局がチップマン商会から次々に機械や資材を取り寄せたことを指摘している。細川は1874年3月12日に印書局長から移動するが、4月28日伺書(「本局刷印器械等代価御渡ノ儀伺」)は、チップマン商会から求めた機材のうち不要のものをボイントンと相談の上返還するなどして精算している。これは設立後資金に不自由していた印書局に、チップマンから機材の持ち込みが行われていたことを示している。設立間もない印書局に機材を融通することで技術者育成の便宜を図っていたわけだが、反面、チップマンとボイントンの言うがままに計画を野放図に進めた結果とも言える。
国境を越える技術者たち
ところで、印書局の設立に大きく関わった印刷技術者C. S. ボイントンとは何者だろうか。香港の印刷所から引き合いがあったということからも、アジアの居留地間を渡り歩いた印刷技術者であったことは確かなようだが、詳しい経歴はわからない。横浜正金銀行創立時の手代だった松居十三郎の経歴紹介に次のような記述がある。
これによればボイントンは印書局雇用以前にすでに横浜で活動していたことになり、「米国人シー、ヱス、ボイントン、ト申者横浜滞在候処」という公文書の記述とも一致する。ボイントンは印書局雇用後も民間で技術講習をしていたようだ。横浜の欧字新聞社が新聞以外の印刷や製本も受注していたことはすでに述べたが、ジャパンヘラルドにボイントンが技術講習に来ていたという逸話がある。
アジアの欧米人コミュニティの間では印刷技術者が国境を越えて活動していた。メドハーストのように宣教師でありつつ印刷技術を身につけた者や、ギャンブルのような伝道会の技師もいたが、ボイントンは伝道とは関わりない印刷技師として活動していたようだ。印刷技術や製本技術は租界や居留地といったコロニアルな場で必要とされた技術だった。そして印書局に雇用され洋式製本の父と呼ばれるパターソンも、そのような国境を越えてコロニアルな場を移動する技術者の一人だったのである。(この節終わり)
※小文は、基盤研究(C)「近代日本における洋式製本の移入と定着」(課題番号23K00281)による研究成果である。
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