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書物の転形期22:パターソンの洋式製本伝習7:パターソンとは何者か1

パターソンとは何者か

 W・F・パターソン(W. F. Paterson, 1844-?)は、日本に本格的な洋式製本術を伝えたとされているが、来日するまでの彼の経歴はおろかフルネームすらわかっていない。残されている資料の大半は滞日中の公文書であり、加えて彼が製作に携わったと考えられる洋装本が二十点程度あるのみである。彼についての直接的な資料は、すでに佐藤祐一『明治初期政府印刷局における洋式製本技術の伝授と受容』(東京大学大学院人文科学系研究科文化資源学研究専攻文献学専門分野2004年度修士論文)が検討しており、新たに付け加えるべきことはない。詳細は『書物学』24号(勉誠出版、2023.8)に掲載された同論文の概要(「パターソンの洋式製本伝習についての基礎研究」)を参照していただきたいが、英領カナダ出身だったこと、印書局時代(1873年5月~1875年9月)には洋式製本技術の伝授とともに政府機関の洋装本製作に携わっていたが、印書局が紙幣寮活版局に吸収合併されてから解雇されるまで(~1875年7月)は、専ら技術そのものの伝授に役割が変わったことなどがわかっている。

 残された洋装本については佐藤論が造本を調査しているが、概ね革装やクロス装の綴じつけ製本かくるみ製本、あるいはボールの紙表紙をクロスでつないで貼り見返しで接続した平綴じ製本である。またそのうち『仏蘭西法律書』を実際に解体調査した岡本幸治氏は、パターソンが「実用的な製本、実用としての本」を供給する立場であったという見解を示している(岡本・木戸「解体調査からみた明治初期の洋式製本」『書物学』24号)。

『明治六年府県物産表』印書局、内閣文庫蔵(ヨ605-102)
『国債要覧』印書局、内閣文庫蔵(ヨ347-5)
『会議便法』印書局、内閣文庫蔵(ヨ314-119A)

 要するにパターソンについてわかっていることは、彼がサンフランシスコ発Japan号から1872年12月28日に横浜に降り立ってから、1876年8月21日に横浜発City of Peking号でサンフランシスコに旅立つまでの三年八ヶ月余のうち、1873年5月29日に印書局に雇用されてから、1876年7月28日に紙幣寮を解雇されるまでの公的な活動だけである。

 そこでまずは、印書局に雇用される前のパターソンについてプロファイリングしてみたい。このような実用的な製本技術を身につけたカナダの青年(雇用時29歳だった)とはどのような経歴の持ち主だったのか、そしてなぜ彼は日本に渡航し、印書局に雇われることになったのか。当時のカナダの製本と製本師、東アジアにおける洋式製本技術の伝播、政府印刷局の動向という三つの状況を探ることで、これまでのパターソン像にいま少し肉付けをすることができるかもしれない。

19世紀カナダの製本事情

 パターソンと直接接した人物による唯一の回想として、直弟子だった帳簿製本師水野欽次郎の談話が残されている(庄司浅水「本邦洋式製本界の恩人パテルソンの直弟子水野欽次郎翁と語る」『印刷雑誌』16巻4号、1933.4)。それによるとパターソンは「髪は黄金色のチヾレ毛で背の高い、太つた立派な風采」であり、普段は口数の少ない温和で善良な「イギリス型の一紳士」だった。一方で短気でもあり、一度教えたことは二度教えず、間違ったことをするとテーブルをたたいて激怒した。また、夏には桃を水の入ったバケツで冷やし一度に五、六個も食べたが、他人に分けるようなことはなかったという。その後肺炎を患い、日本人の妻妾を得て療養し快癒したが、帰国後まもなく他界したらしい。帰国に際して伝習生徒らとの記念写真を撮ったが、水野が所持していた写真は関東大震災で失われてしまった。

 水野の回想にはパターソンの経歴を探る上でいくつかの重要な情報が含まれているのだが、その一つが「伯父が製本業に従事して居つた関係上斯術を修得したらしい」という証言である。パターソンは家族経営的な小規模の製本所を営む一族の出身だった可能性がある

 カナダ国立図書館・文書館に寄託されている、フランク・ヌナン製本所資料(Frank Nunan Bindery fonds)は、トロントに近い小都市ゲルフGuelphで活動していた製本所の1864年から1956年までの資料である。製本所は1855年から1978年まで営業していた。その間、少なくとも七人の製本業者が引き継ぎ、七冊の製本作業帳が残されている。この資料を詳細に研究したGreta Petronella Golick “Frank Nunan and the Guelph Bookbindery: A Documentary Investigation”(Tront Univ, 2010, PD) は、この資料が地方の製本所の日常的な製本と商慣習を詳細に記述しており、同時期に地方に点在していた小規模な製本所は、この製本所とほぼ同様の経営・事業を行っていた可能性があると述べている。この小さな製本所の活動を補助線にしてみよう。

 ゲルフの町が開かれたのは1827年である。1852年には新聞社、地元書店、文具店が雇った無名の製本師によって製本が行われていた。1855年から1872年までは書店、文具店、雑貨を扱う店に製本所が併設され、製本は新開地の商店らしい多角経営の一角を占めていた。その中で1860年代には店と製本所の帳簿が分けられるようになり、1872年にようやく書籍販売所を持たない独立した製本所が運営されるようになる。1850年代から1870年代には頻繁に製本所の経営者と製本師が入れ替わっていたが、1875年に熟練した製本師が製本所を営むようになり、1880年に親方から事業を引き継いだフランク・ヌナン以降はヌナン家が1978年の廃業まで製本所を経営していた。

 1870年代までのカナダ地方都市の製本は町の新聞社、文具店、書店、雑貨店の多角的な仕事の一つだった。そして製本師はそれらの店舗に一時的に雇われ、あるいは製本施設をともなった店舗の経営を数年続けては次の業者と入れ替わっていた。製本師は必ずしも地域に長年居着いていたわけではなかった。1870年にゲルフの製本所の経営者が変わった際には、ロンドンとアメリカから腕のよい製本師を雇ったと広告し、また新たに雇われた主任はアメリカとカナダの大規模な製本工場で二十年間経験を積んできたと主張している。

 すでにトロントなど大都市の製本業では機械化と分業化が始まっていたが、地方都市の製本技術は家族や徒弟制によって伝承されていた。例えば、1860年代前半のゲルフ製本所の場合は経営者ではなくその従兄弟が製本師だった。また、十五、六歳の見習い工が複数いたこともわかっており、フランク・ヌナンのように親方から経営を引き継ぐ場合もあった。パターソンも製本技術をひととおり会得していることから、家族経営的な小規模製本所で技術の伝承を受けつつ仕事をした後に、青年期に職を求めて移動するようになったのではないだろうか

 19世紀後半のゲルフの製本所では、ブランクブックや罫引きされたビジネスフォームを中心とした文房具製本と、書籍の製本と修復・地元のパンフレットの製本・雑誌の合本といった活版印刷製本の両方が行われていた。これも分業化されていない新開地や地方の小規模製本所の特徴であろう。

 1875年11月29日以降に紙幣寮との間で契約されたパターソンの仕事は、仕上げ・マーブル・罫引・記録書の綴じ方、という四つの技術について教育用におよそ二百種類の製本ひな形を製作し、技術を伝習することだった。罫引きや記録書の綴じ方といった文具製本の技術が含まれている

「紙幣寮傭英人バトソン雇継ノ儀上申」(『公文録・明治八年・第二百二十五巻・明治八年十二月・大蔵省伺一』国立公文書館蔵)

 この際の理由として公文書には、これまでのパターソンの伝習が「普通之品」のみで、「精好之製本術」を伝習する時間がないために、これらのひな形を作らせるとある。パターソンは政府から当時の洋式製本全般の製作技術を持っていると見なされていた。と同時に、彼が直接伝習できた製本技術は、ほとんどが「普通之品」の技術だったこともうかがえる。なお、このひな形の現存は確認されていない。(この節つづく)

同上

※小文は、基盤研究(C)「近代日本における洋式製本の移入と定着」(課題番号23K00281)による研究成果である。

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