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回想 第五章 207

第207回
 「どうせこんな事だろうとわかっていたよ!」瓜実顔の老婆が残念そうに言った。「やけに威勢がよかったからもしや、と思ったんだけど。」
 するとこのとき聴衆の数人が驚きの声をあげた。枝の上にいるうそつきが幹を両手でつたいながら、そろそろとバランスをとって枝の上に立ち上がり始めたのだ。聴衆は息をのんでこの光景を見守った。初めて立ち上がった赤子のように、うそつきの少し曲げられた両足は震え、上半身もゆらゆらと揺れていた。そしてうそつきはかたく両目をつむると、また聴衆には聞き取りにくい声で、祈り始めた。その小心そうな顔には悲壮感がただよい、追い詰められた弱い者がつくるかたい決意の表情があらわれていた。うそつきの決死の覚悟が伝わったのか、もう聴衆からの野次はなくなり、この先に起こるかもしれない事態に対して異常な興奮と緊張を感じ、皆おしだまっていた。沈黙がしばらくつづいた。濃くしげっている樫の木の葉を風がゆらしていった。するとこの興奮と緊張の持続にがまんできなくなった幾人かの聴衆が不安の声をもらし始めた。
 「本当に飛び降りるのかな?」誰かが不安そうに尋ねた。
 「まさか。そんなだいそれたことなんてできやしないよ。」隣にいた者が自信なさそうに答えた。
 「でもなんだか、本当に飛び降りそうだぞ。」
 聴衆はざわめき始めた。不安はゆっくりとしみるように広がっていき、皆が、惨事があった場合の責任から逃れるために、部外者を装い始めた。お互いに目を合わせずに、うそつきをここまで追い込んだのは自分ではない、と口を閉ざしたまま主張し始めた。しかし誰ひとりその場から立ち去ろうとする者はいなかった。皆、これから先に起ころうとしていることに対して目が離せなくなっていたのだ。そこには『もしかすると』という期待感があった。確かに聴衆たちは、もしもうそつきがあの枝から飛び降りたならば、どういうことが起こるかは、ほぼ確信に近いかたちで予測できたが、枝の上に震えながら立つうそつきの真剣なまなざしを見ていると、心の隅のほうで、ひょっとすると今まで見たこともないような奇跡に立ち会えるのかも、という期待感を抑えることもできなかった。惨事に対する不安と、奇跡に対する期待とが聴衆の間に異様ともいえる好奇心をかきたてていたのだった。

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